京大周辺の石碑を巡る 身近な歴史を訪ねて(2016.11.1)

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 道を歩いているとき、道端に何か文字を刻んだ石碑が建っているのを目にしたことはないだろうか。立ち止まって刻まれた文字を読んでみると、それは誰かが昔住んでいた場所や、誰かが殺された場所を示すものであったり、昔の旅人が目印にした道しるべであったりする。古いものから最近建てられたものまで様々だが、いずれも現代までの歴史の名残を留めているものだ。
京大の周辺にもそんな石碑がたくさんある。9月のある日、編集員2名が石碑を訪ねて回った。出会った石碑の中からいくつかを取り上げて紹介する。(雪・鹿)

① 吉田泉殿之跡

最初に紹介するのは、百万遍の交差点の南西側、和菓子店「かぎや政秋」の前にある石碑だ。鎌倉時代の貴族・西園寺公経の別荘だった「吉田泉殿」の跡地を示している。西園寺公経は源頼朝と関係が深く、承久の乱の際に鎌倉幕府に味方したため、幕府方が勝利した後朝廷において摂関家をしのぐ権勢を誇った。吉田泉殿の他に北山にも別荘を持っており、それが後に足利義満が建てる金閣寺の前身となる。
実は、本当にこの場所に吉田泉殿があったのかどうか、はっきりとは確認されていない。ただ、江戸時代にこの百万遍交差点から京大西部構内の体育館あたりまでの範囲が「吉田泉殿」という小字(こあざ)で呼ばれており、現在もこの一帯に吉田泉殿町という地名が残っている。
一方、これより少し南のサークル棟の下から、鎌倉時代の邸宅跡と庭園状の遺跡が発見されている。京都大学文化財総合研究センターによれば、江戸時代に「吉田泉殿」と呼ばれた範囲からやや外れているが、吉田泉殿である可能性が高いという。鎌倉時代にはこの地域に他にも同じような邸宅や寺院があったらしいので、出土した遺跡は泉殿に隣接する別の建物だったのか、それとも江戸期の地名の方が間違っていて、実際には泉殿はもう少し南にあったのか、はたまた石碑付近から遺跡まで含んだ非常に広大な敷地を持っていたのか。この石碑周辺の地面を全部掘り返したら何か分かるかもしれないが、現在のところ何とも言えない。
(碑文)
〔東〕吉田泉殿之跡
〔西〕千九百七十九年 八木泰一

② 鯖街道口従是洛中

百万遍交差点から北西に延びる斜めの道を歩き、叡電出町柳駅の前に出る。糺の森を右手に見ながら、賀茂大橋の1本北の出町橋を渡ると、橋のたもとに大きな石碑が見えてくる。若狭湾と京の町を結んだ鯖街道の終着点を示す石碑だ。
鯖街道とは、小浜と滋賀県の今津を結ぶ九里半街道の途中、保坂から京都に続く若狭街道のことだ。この道を通って塩漬けの鯖を京都へ運んだことから鯖街道の呼称が生まれ、別名魚道とも呼ばれた。
若狭では古くから漁業が盛んで、たくさんの魚介類を京の朝廷に献上していた。江戸時代にはかがり火を利用した鯖の釣漁が盛んになり、その鯖を大量に京へと運んだのだ。鯖は腐りやすいため、獲れたての鯖に塩を一振りして、そのまま担いで一晩で京都まで街道を駆け抜けた。洛中に着く頃には塩がちょうど良くなじんで食べ頃になっていたという。江戸時代にこの碑は立っていなかったが、若狭から鯖を運んできた人々は、鴨川を渡ってこの場所にたどり着いた時、さぞかしほっとしたことだろう。京には海がないため、若狭湾から続くこの道は貴重な魚の供給源であった。冷凍技術もなければ交通手段も限られていた時代、京の食はこうした人々の苦労に支えられていたのだ。
(碑文)
〔西〕鯖街道口
従是洛中
〔東〕相国大龍書之
〔南〕小浜からの、いくつもの峠越えの道のうち若狭街道がいつしか「鯖街道」と呼ばれるようになりました。若狭湾でとれた鯖に塩をふり、担ぎ手によって険しい山越えをして、京の出町に至るこの食材の道は、今に息づく長き交流の歴史を語り続けます
〔北〕于時平成十三年九月吉辰建之
出町商店街振興組合

③ 大原口道標

河原町通を南下し、今出川通で右折して西へ向かうと、寺町通の手前に大きな石碑が見えてくる。京都市の史跡に指定されている、大原口道標だ。
大原口は京の七口の1つに数えられる。京の七口とは洛中の出入り口を指し、豊臣秀吉が京を取り囲む御土居を築いて出入り口を設けたのが始まりとされる。実際は10の「口」があったらしいが、江戸時代に入るとこれを「七口」と称するようになった。このうち大原口は、大原街道ともよばれる若狭街道の出発地点である。先ほどの鯖街道口の石碑もこの道の途中にある。
道標が建てられたのは1868年4月。その年の9月に慶応から明治に改元されているので、この碑は江戸時代最末期の道標ということになる。東西南北それぞれの面に、東、西、南、北と大きく書かれ、方角ごとに「下かも 五丁」「内裏 三丁」など、行き先とそこまでの距離が細かく記されている。洛外からやってきた人、洛中から出て行く人が、それぞれ京の出入り口で行き先を確認したのだろう。
ここで1つ疑問が生じる。東に向かって歩いてきた人が、そのままこの道標を見ると、「西」の面が見える。進む先の目的地を確かめるために「東」の面を見ようとすると、わざわざ反対側に回り込まなくてはならない。これは不便ではないか。道標を建てた人は素直にそれぞれの面の向きを実際の方角と一致させたのかもしれないが、本当に利用することを考えると、東西と南北をそれぞれ逆にしたほうが良かったような気がする。
[東]
須磨や伊兵へ
下かも 五丁 比ゑい山 三り  若松や安兵へ
金屋久兵へ
東 吉田 十二丁 黒谷 十五丁 相模や宗助
八尾や与助
真如堂 十四丁 坂本越 三り   福枡や伊兵へ
出石や熊吉
大和や常七
[南]
かう堂 九丁 六角堂 十九丁     丹波や安兵へ
南 六条 卅五丁 祇園 廿二丁  同 与兵へ
清水 廿九丁 三条大橋 十七丁  新米や幸三郎
[西]
内裏 三丁 北野 廿五丁
西 金閣寺 三十丁 御室 一り十丁
あたご 三り
[北]
丹波や市兵衛
上御霊 七丁 上加茂 三十丁     近江や太四郎
亀や正五郎
北 くらま 二り半 大徳寺 廿三丁  竹本天喜
若さや常次郎
今宮 廿六丁 慶応四辰年四月 岡野金兵衛
若さや九郎助
山城や市兵へ

④ 明治天皇行幸所京都府尋常中学校

大原口道標を見た後、今出川通から寺町通を南下する。寺町通には多くの石碑があったが、紙面の都合上割愛する。
いくつかの石碑の前を通り過ぎて、京都市歴史資料館の前まで来て立ち止まった。事前に調べたところでは、その途中に「明治天皇行幸所 京都府尋常中学校」と書かれた石碑があったはずなのだが、見当たらない。気付かずに通り過ぎてしまったのだろうか。
とりあえず資料館の前で、スマホを取り出して石碑の位置を再確認する。鴨沂高校の前にあったはずなので、高校の場所をグーグルマップで調べると、ますますおかしい。高校は全然違う場所にあることになっている。だが、石碑の所在地は確かに今通ってきた道の途中であるようだ。
寺町通を引き返すと、間もなく学校らしき建物が見えてきた。が、工事用の囲いで覆われている。囲いに書いてある案内を見て、謎が解けた。何と、鴨沂高校は既に移転し、建物は工事の真っ最中だったのだ。目指す石碑もどうやら囲いの中である。工事は年末まで続くそうだ。
残念ながら現物は見られなかったが、この碑は現在の京都府立洛北高校の前身、京都府尋常中学校の跡地を示すものである。
京都府尋常中学校は、1870年に京都府中学校として創立。その後小学取締所、仮中学、再び京都府中学校、京都府立京都中学校などと次々改称し、移転や制度の改変を繰り返す。85年にこの場所に移り、翌年他の3つの府立中学を合併して、87年に京都府尋常中学校と改称した。この年、明治天皇が孝明天皇二十年祭のため京都を訪れ、2月1日に中学校を視察。碑銘に「明治天皇行幸所」とあるのは、このときのことを指しているのだろう。
ちなみに、尋常中学校は翌年には別の場所に移転してしまっている。京大の前身の1つ、第三高等中学校が大阪から京都に移って来たためだ。これに伴い尋常中学校は廃され、三高の予科・補充別科という課程に吸収されることが決まった。そのため府の予算はさっさと打ち切られ、尋常中学の校舎に師範学校が移転してくることになったが、高等中学校移転は2年先のことで、尋常中学校を直ちに廃止するわけにはいかない。結局尋常中学校の経営は浄土真宗大谷派に委託され、88年に校舎は移転。その後紆余曲折を経て現在の府立洛北中学・高等学校に続いているのである。
(碑文)
〔西〕明治天皇行幸所京都府尋常中学校

〔東〕昭和十四年三月 京都府建之
〔南〕明治二十年二月一日 行幸
※フィールド・ミュージアム京都
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rek ishi/fmより

⑤ 横井小楠殉節地

寺町通を南へ約5分、丸太町通を過ぎると、東側の歩道にぽつんと石碑が立っている。歩道側と車道側の両面に「横井小楠殉節地」と彫られたこの碑は、幕末から明治初期にかけて生きた思想家・横井小楠が暗殺された場所を示している。
小楠は肥後藩出身で、儒学を研究し、現実の社会に即した実学を唱え、熊本に私塾を開いた。初めは攘夷論を唱えたが後に開国論に転じ、越前藩に招かれて藩主・松平春嶽の腹心となった。春嶽が幕府の政事総裁職に就任すると、彼を支えて幕政改革にも携わった。坂本龍馬や木戸孝允などの志士たちも小楠の見識に敬服したという。明治維新後は新政府の参与となり、京都に住んだ。
その翌年の1869年(明治2年)1月5日、御所から自宅に帰る途中にこの場所で暗殺された。石碑のすぐ北の寺町丸太町の交差点は、御所の南東の角に当たる。自宅はこの場所から数十メートルほど南に行った場所にあったようだ。暗殺事件はこのわずかな距離を移動する間に起こった。小楠が乗っていた駕籠に刺客の1人が発砲、それを合図にして数人の刺客が駆けつけ、斬り合いとなった。小楠は短刀を抜いて応戦したが、斬殺された。現在、周囲には当時の名残は見当たらず、この石碑だけが150年前の悲劇の現場を語り継いでいる。
(碑文)

〔東〕 横井小楠殉節地
〔南〕 下村大丸寄附
昭和七年七月再建之
〔西〕 横井小楠殉節地
〔北〕 寄附者 横川松之助
大澤徳太郎
京都市教育会 山本臨乗
上田ソノ

⑥ 国定史蹟 賴山陽書齋山紫水明處此ノ北右側

寺町丸太町から丸太町通を東へ進む。北側の歩道を歩いて行くと、「国定史蹟 賴山陽書齋山紫水明處 此ノ北右側」と書かれた道標が立っていた。江戸時代後期の儒学者・漢詩人であった頼山陽の書斎への道案内である。
頼山陽は本名を、字を子成、通称久太郎という。広島藩の藩儒の嫡男だが、脱藩を図って廃嫡され、京都に行き塾を開く。大塩平八郎や、後で紹介する梁川星巌らと交流し、『日本外史』『日本政記』などの歴史書を著した。
山陽は1822年にこの地に新居「水西荘」を建て、その離れ家を「山紫水明処」と名付けた。山紫水明とは、瀬戸内の多島海の風景を表現した、山陽の造語である。山陽は32年に没するまでこの地に住んだ。現在、屋敷全体は残っていないが、「山紫水明処」だけは保存されており、碑に書かれた通りに進めばたどり着けるので、この道標は今も機能しているといえる。碑銘を書いたのは山陽の玄孫にあたる頼新(あらた)氏である。

⑦ 女紅場址

横断歩道を南に渡って東進すると、鴨川丸太町橋の南西端に新英学校及女紅場の跡地を示す石碑が立っている。橋のふもとにあるためふらりと立ち寄りやすい半面、人通りがあってじっくり見るのは難しい。
1872年に作られた新英学校及女紅場は、同じ年に創立された東京官立女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)に続く、日本で2番目の女学校である。当初英学と女紅の2学科からなり、華士族の子女をはじめとする女生徒らがここで学んでいた。いわゆるお雇い外国人が英語教師を務めたほか、女紅場では一時新島八重も教員として働いていた。女紅とは、裁縫や手芸などといった、当時の女性に必要とされていた学問のこと。英学、女紅の両学科において、女子には必修とされていた。
新島八重は、会津若松の砲術師範の娘として生まれ、江戸の末期から明治までの動乱期を生きた女性である。戊辰戦争時に鶴ケ城で銃を片手に籠城戦を戦い抜いたり、新島襄と結婚し共に同志社大学を作り上げたりと、エピソードには事欠かない。女紅場で教員を務めた時代は養蚕と機織を教えていたが、同時に新英学校では学生として学んでいたという。2013年の大河ドラマの主人公になったことで一躍有名になったが、ドラマ中でこの石碑も縁の地として紹介されている。
新英学校及女紅場はその後改称を重ね、74年6月に英女学校及女紅場、76年5月に京都女学校及女紅場となる。82年に京都女学校に改称して以降女紅場の名は失われ、87年に京都高等女学校、1923年京都府立京都第一高等女学校、48年に京都府立鴨沂高等学校となった。
石碑自体は、1942年、京都府立高等女学校の同窓会として発足した京都鴨沂会によって京都女学校の創立60周年を記念して建てられた。
(碑文)

〔北〕本邦高等女学校之濫觴 女紅場址
従是 西九十三米 南九十米
〔東〕昭和七年十月
〔西〕
女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校
創立當初ノ名稱ニシテ明治五年四月十
四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ
〔南〕為母校創立六十周年記念建之
京都鴨沂会

⑧ 梁川星巖邸址

川端通丸太町から北上すると、東側に、梁川(やながわ)星巖(せいがん)の邸宅跡を示す石碑がある。立っている場所は有料駐車場の西北端なのだが、すぐ隣が駐車場の出入り口になっているので現代と歴史の距離が驚くほどに近い。
梁川星巖は、「文の山陽、詩の星巌」と謳われた江戸後期の漢詩人である。頼山陽とは交流があり、彼の影響を受けて又従兄妹で妻・張紅蘭と共に日本各地を放浪した。又従兄妹なのに名字が中国風の「張」とはどういうことかと戸惑うが、本姓は稲津で張氏は自称だったそうである。
吉田松陰や梅田雲浜、頼三樹三郎・橋本左内などの尊王攘夷思想家と深い交流があったことから、安政の大獄の際には捕縛リストにその名が挙げられた。しかし、幕府の手の者が家に来るわずか3日前に星巖はコレラで亡くなっており、しかし、幕府の手の者が家に来るわずか3日前に星巖はコレラで亡くなっており、検挙の直前に上手く死んだものだと、その詩の才とかけて「しに上手」と称されることもある。この際、紅蘭が身代わりとして一時捕らわれたが、後に彼女も釈放された。
この石碑は、2006年に工事で1度撤去された後、ほぼ同じ位置に再建されたという。現在は壁との間に20センチも隙間が無いため、建立年などが書かれた北面の字を直接読むことは難しい。撮影すれば読み取れるのではないかと考え、壁の間にスマホを差し込み、自撮りモードで撮影を試みた。しかし広角レンズのような気の利いたものなどなく1字ずつしか写せないうえ、左右反転して字も読みづらかったため、あえなく断念した。他メーカーのスマホなら左右反転は直してくれるそうだが、それでも1字ずつ撮るのは手間なので、表面だけで撮影は良しとした。わざわざ自分で解読しなくても、碑文くらい本やネットで探せば出てくるのである。
(碑文)

〔西〕 梁川星巌邸址
〔北〕 大正五年五月建之 京都市教育会

⑨ 第三高等学校基督教青年会館

北東に伸びる志賀越道を大学に向けて進んでいくと、左手に見えてくるのがこの第三高等学校基督教青年会館跡を示す石碑だ。駐車場と隣の建物の間のコの字型のスペースに立っているため、大きさの割に見つけにくい。
先にも少しふれたが、京都大学の前身は第三高等中学校で、さらに遡ればもともと大阪の舎密局に端を発している。大阪時代からキリスト教生徒の集会は存在したのだが、1889年に京都へ移転した際に基督青年会が正式に結成された。教師として雇われた宣教師ギューリック氏やキリスト教に共鳴する同校生徒らが中心となっており、当時は週2回、教会やギューリック氏宅で祈祷会と諸先生の指導による集会を行ったという。学校が第三高等学校へと改組された94年、ギューリック氏が解任されたことに伴って新たな集会所が必要になった。この時アメリカの篤志による寄附で建てられたのが第三高等学校基督教青年会館だ。
石碑は青年会出身者の有志により1982年に建立された。なお、碑文にあるYMCAはYoung Men’s Christian Associationの略である。
(碑文)

〔南〕 第三高等学校基督教青年会館跡
〔北〕 昭和五十七年八月
三高YMCA関係者有志建之
〔東〕 明治二十二年米人ギューリック氏の尽力と当時の在校生により此の地に初めて三高YMCA会館建つ その後学生寄宿舎主事宅等併設さる 爾来昭和二十四年学制改革により京大に合併される迄六十有余年幾多俊秀を育てし所也 尚栗原基教授は大正七年より昭和九年迄 又三谷健次教授は昭和二十二年より昭和三十八年迄主事として此の地にありて学生の薫陶に尽瘁せられたり

⑩ 吉田本町道標

志賀越道をさらに進むと、東大路通と東一条通の交差点に出る。その北東側の角に溶け込むように、古い石碑が佇んでいる。京都市の史跡に指定されている吉田本町道標だ。ひび割れが酷く、取り付けられた鉄枠のおかげで辛うじて形を保っているように見える。これは江戸時代の道標だが、実は1度道路工事で破壊された後修復された経緯があり、このために亀裂が残っているらしい。
南へ向いた面に「左 百まんへん」、東向きの面には「右 さかもと からさき 白川」、西側には「沢村道」とあるが、その下の文字が明らかに途中で切れている。残りの部分は道路に埋まって見えないのだ。後で調べてみると、1975年発行の『京のしるべ石』には下まで写った写真が載っていた。それを見ると、本来は「左 百まんへんえの道」「右 さかもと からさき 白川えの道」「沢村道範」となっていたらしい。
この道標が示す「百万遍への道」とは、現在の東大路のことではなく、当時存在した北へ続く細い道のことであった。また、「さかもと からさき 白川への道」は白川道のことで、鴨川の荒神橋の西岸・荒神口から始まり、白川を経て山を越え、滋賀県まで続いていた。白川街道、志賀山越、山中越など様々な呼称があり、平安時代から和歌に詠まれたほどの古い道だ。京大本部構内の管理棟、時計台、工学部電気総合館のあたりから、中世や江戸時代の白川道の遺構が出土している。礫を使って道がしっかりと固められているほか、轍のあとが多く残っており、近江と京を結ぶ主要な幹線道路であったことが分かるという。その一部がここまで通ってきた志賀越道なのだが、この道は道標のある交差点で京大の中央キャンパスに遮られて一旦途切れ、その北西角付近で復活する。まるで京大が街道を寸断してしまったように見えるが、そうではない。真犯人は1862年この場所にあった尾張藩の藩邸である。文化財総合研究センターによれば、江戸時代にできた今出川通が機能し始め、白川道の利用が減ったために潰されてしまったのではないかとのことだ。
道標を建てたのは、石碑に記されている沢村道範という人物だ。この人については、山科の四宮という場所に住み、江戸中期の元禄から宝永年間にかけて4基の道標を建てたということ以外、よく分かっていない。自費でいくつも道標を建てられるほどだから、相当の財産家だったのだろう。
現在では周囲の環境がすっかり変わり、道標としての意味はなくなっているが、この石碑は往時の街道の名残をひっそりと今に伝えている。
(碑文)※埋没部分を含む

〔東〕  さかもと
右     白川えの道
からさき
〔南〕左 百まんへんえの道
〔西〕      沢村道範
〔北〕宝永六年
己丑十一月日

参考文献

出雲路敬直(1975)『京のしるべ石』泰流社
京都市文化観光局文化部文化財保護課編(1992)『京都市の文化 財-京都市指定・登録文化財集-〔記念物〕』 京都市文化観光局
増田潔(2006)『京の古道を歩く』光村推古書院
藤井讓治編(2003)『街道の日本史31 近江・若狭と湖の道』 吉川弘文館
京都新聞社編(1981)『史跡探訪 京の七口』京都新聞社
校史編集委員会編(1972)『京一中洛北高校百年史』京一中
一〇〇周年洛北高校二〇周年記念事業委員会
圭室諦成(1967)『横井小楠』吉川弘文館
池田明子(2010)『山紫水明-頼山陽の詩郷-』溪水社
・安藤英男(1975)『頼山陽--人と思想』白川書院
・ 坂本清泉 坂本智恵子著(1983)『近代女子教育の成立と女紅場』 あゆみ出版
・福本武久(2012)『新島八重 おんなの戦い』角川書店
・京都府立鴨沂高等学校全日制WEBサイト http://www.kyoto -be.ne.jp/ohki-hs/mt/school/history/
・入江仙介注(1990)『頼山陽;梁川星巖』岩波書店
・長尾正昭(1990)『第三高等学校基督教青年会百年史』第三高 等学校基督教青年会百年史刊行会
・京都YMCAホームページ http://kyotoymca.or.jp/?page_ id=708
・フィールド・ミュージアム京都 https://www2.city.kyoto.lg. jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/themelist05_frame.html

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