〈ドイツ滞在記〉ナチスの収容所第1号 ダッハウ強制収容所(2016.10.16)

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ドイツのミュンヘン大学に1年間留学する準備として私は、語学学校に先月1カ月間通っていた。その間にミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所を訪れる機会があった。ダッハウを解放した米軍兵の報告書と、強制収容所の公式ホームページの解説をもとに紹介したい。 (束)

私が留学しているバイエルン州の州都・ミュンヘンはナチスが結成された地として有名だ。バイエルン州の地方政党として徐々に議席数を上げ、やがてドイツ帝国全体の権力を握る与党に上り詰める。ダッハウ強制収容所は、ナチス政権下で政治犯と認定された者が送られる刑務所のような場所として、1933年3月に運営が開始された。ヒトラーが首相に任命されたわずか2カ月後のことだ。
 
収容所の初代指揮官に任命されたテオドア・アイケは、ダッハウ収容所内の組織構造や労働の種類、また囚人の規律・罰則を細かく定めた。これが後にナチスによって建設される強制収容所のモデルとなった。
 
当初はナチス政権を批判した者や共産党、社会民主党などの野党党員が収容され、そのほとんどがドイツ人であった。しかし、やがて政権を批判したかにかかわらず同性愛者やジプシー、ユダヤ人やエホバの証人などに対象が広がっていく。そしてユダヤ人商店街がドイツ市民により破壊された1938年の水晶の夜事件以来大量のユダヤ人が送られ、さらには翌年から侵攻を開始されたポーランド、チェコやフランスなどヨーロッパ諸国からも大量に囚人が貨物列車で送られるようになる。終戦間近には非人道的な収容所の実態を隠すため、他の収容所からも多くの人々が送り込まれた。
 
貨物列車に箱詰めにされ何日間も運ばれてきた囚人の多くは道中で息が絶えた。残された囚人は犯罪の種類や国籍ごとに登録された。所有品や衣服は没収、髪の毛が剃られシャワーを数分間浴び、パジャマのような青と白の縞の制服に着替えさせられ兵舎に送られたという。
 

収容所の日々

 
鉄の門には「働けば自由になる」という文句がある。これは周辺住民に犯罪者の更生施設だと思わせる工夫だといわれている。囚人はダッハウの町近辺にある軍需工場・農場やナチス親衛隊兵舎へと送られて強制労働に従事させられた。兵舎が衛生的ではなかったことや真冬にもパジャマのような格好で労働を強制されたことから、多くの者は餓死・ 衰弱死・発疹チフスによる病死した。アウシュヴィッツのようないわゆる大量虐殺工場ではないため、収容所の公式発表によるとガス殺室はあったものの使われた形跡がないという。あくまで刑務所の位置付けられていたダッハウでは囚人の労働管理が基本であった。
 
この労働管理を行ったのはナチス親衛隊員ではない。囚人の労働を管理する労働局の運営に囚人らを任命し、日々の監視や拷問も任せることでナチスは間接的に囚人を支配した。ある程度の権力を握った囚人らは他の囚人らの食事の配分を減らし自分の食事を増やすなど特権を濫用した。労働局に密告され拷問されることを恐れた囚人らは相互不審に陥り、いかなる民族的・政治的反対組織の編成も見られなかったという。
 

米軍による解放

 
49年4月29日、収容所近辺に米軍兵士が到着する。米軍兵を見つけ喜びのあまり門に駆け寄った囚人は親衛隊に射殺されたが、米軍が差し迫っていることを察した親衛隊は少しの間をおいて米軍に降伏した。米軍到着の少し前に親衛隊のほとんどは現場を放棄して逃亡し、囚人の多くは兵舎で待機したままだったという。
 
解放直後から米軍兵は周辺住民に掃除を手伝わせた。報告書によると周辺住民の多くは収容所を単なる労働施設だと思ったと答えていたが、貨物列車から這いずり出る囚人や遺体を目撃した住民は少なくないため、多くが見て見ぬ振りをしていたと米軍兵の手記に結論づけられている。
 
ナチスの強制収容所と聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのはアウシュヴィッツだろう。しかし戦後その存在が知れ渡ったアウシュヴィッツでの非人道的行為と規律がダッハウで醸成されたことはあまり知られていない。そしてドイツ有数の観光名所であるミュンヘンの影に隠れてしまいがちだ。ナチスの原点であるミュンヘンを訪れた際にはダッハウにも立ち寄ることをぜひすすめたい。

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