複眼時評

久本憲夫 経済学研究科教授「労働時間をめぐる論点」

2016.07.01

よく日本のマスコミは長時間労働が問題だという。しかし、その解決策を積極的に論じるものは少ない。論点は多岐にわたるが、ここでは2点だけ取り上げよう。(1)日本の労働法は残業促進法制となっている。(2)独身者は別として、共稼ぎ正社員世帯では、賃金よりも労働時間のほうが稀少価値が高い。(1)に対する方策は、日本の労働法制を残業抑制法制に転換することであり、(2)に対する方策は、そもそも残業を「残業手当」という金銭で保障するのを止めて、「労働時間口座」という形にして貯蓄し、必要なときにその「時間」を下すというシステムを導入することである。

最初に第1の論点について説明する。まず、労働基準法を紐解いてみよう。第37条では「使用者が、……労働時間を延長し、又は休日に労働させた場合においては、その時間又はその日の労働については、通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の2割5分以上5割以下の範囲で定める率以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならない。」と書いてある。つまり、企業が残業させた場合には25㌫以上50㌫以下の割増賃金を支払う必要があるということである。「割増」と書いてあるではないかと思うのが、多くの人の認識であろう。

しかし、これにはカラクリがある。キーは「賃金」という言葉にある。企業にとって関心事は実は「賃金」ではなく、「人件費・労働費用」である。人を1人雇用したときにどれだけ費用がかかるのかということだ。「賃金」は労働費用の一部にすぎない。(労働費用の構成は企業によって異なるが平均をとってみると)全体の6割程度である。では、残りの4割は何か。一番大きいのが「賞与」(いわゆるボーナス)で15㌫位、法定福利費(厚生年金や健康保険、雇用保険、介護保険、労災保険などの企業負担部分)12㌫位、残りが退職金引当金や通勤手当・住宅手当などの諸手当となる。ボーナスや退職金などは「賃金」ではないし、当たり前だが、社会保険料は基本的には労使折半であるために、本人も給与から差し引かれるが、企業も別に負担しているのである。

もし、「賃金」が「人件費・労働費用」の6割に過ぎないとしたら、これに1・25をかけても1より小さくなる。0・75にしかならない。つまり、仕事が増えたときに、人を新たに雇用するよりも今いる従業員に残業してもらったほうが人件費が安上がりになるのである。つまり、現在の労働法制は企業に「残業インセンティブ」を付与する残業促進法制なのである。こうした基本的な事柄を放置したまま、建前だけ「日本の長時間労働」が問題だといっている政党やマスコミがあるとしたら、無知か欺瞞的であるいってよい。実際、日本のほとんどのマスコミは単なる無知なのかもしれない。

第2の論点は、残業などを金銭に変えるのではなく、労働時間のまま貯蓄するという制度の新設である。独身はともかく共稼ぎ正社員の家族(夫だけでなく妻も正社員として働きつづけ、子育てするという家族モデル)が今後の主流化すべきモデルであるとすれば、夫婦ともフルタイムであるのだから、賃金は2人分あり、むしろ労働時間が稀少価値となる。とすれば、業務で残業せざるを得ないとしても、それを金銭に変えるのは賢い制度ではない。大陸ヨーロッパ諸国で広がりつつある労働時間口座制度を早急に日本にも導入することが必要である。そうすれば、独身時代に貯蓄していた労働時間を子育てや介護で忙しい時に下すことができる。「残業代は現金で」という現在の仕組みは、片稼ぎモデル(稼ぎ手は夫だけ)で、家族全体としては賃金が労働時間よりも稀少である場合に適合的なのである。時代は変わっているが、頭の固い人々が日本には多すぎるように思う。

さらにいえば、有給休暇の取得率は日本全体ではむしろ近年低下傾向にあり、50㌫に満たない。西ヨーロッパ諸国では考えられないような事態が日本では日常である。この有給休暇は現在の日本の労働法制では2年たつと失効して消えてしまう。労働者の権利がなくなってしまうのである。これはばかげている。有給休暇の未消化分を労働時間口座に貯蓄して、貯金のように失効しない仕組みを作れば、企業も「失効させる利益」がなくなる。

こうした2つの提案をマスコミなどが取り上げてくれるとうれしいのだが……。