複眼時評

土口史記 人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター助教「書類仕事の絶望的な歴史基盤」

2016.05.01

中国古代史を研究するための史料には、『史記』『漢書』のような伝世文献に加えて、文字を鋳込んだ青銅器、竹や木を短冊状ないし板状に加工してそこに墨書する簡牘(ルビ:かんどく)などがある。青銅器や簡牘の場合、考古発掘によって得られることも多く、そうしたものは出土資料と総称される。

私が研究上の関心を持っているのはこのうちの簡牘、なかでも秦漢時代のそれである。中国史を好む人であれば、敦煌はもちろんのこと、あるいは居延という地名にも聞き覚えがあることだろう。万里の長城の西端、「西域」への玄関口となるそれらの地では、二〇世紀初頭に最初の発見があって以来、現代に至るまで簡牘が出土しつづけている。

眼を南方に転じれば、いま一つの簡牘出土の中心は長江中流域、現在の湖北・湖南両省あたりにある。この地域では先秦・秦漢時代の墓が多く発見されており、そこに簡牘が共伴するのである。秦漢時代に限って言えば、そうした墓の主はほとんどが地方官吏である(さらに古井戸から出土する簡牘も近年著しく増加しているが、ここでは割愛)。身分で言えば県知事の秘書クラスといったところで、書類業務のプロフェッショナル、地方行政の現場では要職中の要職にある。始皇帝時代に県の役人として活躍した蕭何などがちょうど同じ職に就いていた。

さて、そうした官吏の墓から出土する簡牘の内容はというと、例えば儒家の聖典だとか、老荘の処世訓だとかとは一線を画し、きわめて「俗」な世界の書面がほとんどである(念のため申し添えると、「聖」の側につらなる内容の簡牘は、やや遡って戦国時代のものが多い)。つまり、彼らは高尚な典籍とともに葬られるような地位・身分にはなく、あの世へのお供はもっぱら現実的な「ビジネス書類」の山であった。律令の条文、裁判文書のフォーマット、役人たる者の心得集、といった類。

「かかる文書が墓葬から出土するのは、墓主にとってそれが生前の実用品であったためである」とは、簡牘を副葬する理由の説明として定番のものである。なるほどそれは、生前の職業を示すこの上ない物証となる。文字通り墓場まで持って行けば、死後の社会にもスムーズに溶け込むことができただろう。あるいは「再就職」して俸給さえもらえるかもしれない。ともかく、簡牘副葬という現象によって、我々は中国古代人にとっての「あの世」観を窺い知ることができるのである。

しかしながら、あの世にまで仕事の書類を携えていくという発想、これが私にはどうも共感できない。我が身に置き換えてみれば、研究室に『研究費使用ハンドブック』だとか『2016年度出講案内』だとかの冊子が年々増えていくが、それらはどこまでも実用品であって、死出の旅路に伴うべき愛用品へと格上げされる可能性は控えめに言ってもゼロである。いつか自分が死んで荼毘に付されるとき、「故人が京大に勤めた証です」などと言ってシラバス入力マニュアルや備品購入伝票などを棺桶に入れる遺族がいるだろうか。不要な大量の紙を焼却破棄するチャンスとして私の火葬を利用するというならまだわかる(そんな遺族は嫌だが)。整理の行き届かぬ己が怠け癖を反省しつつ、甘んじて昇天しよう。怠惰も死んだら治るかもしれない。だが、百パーセントの善意でもって遺体の側に業務書類を安置、どうかあの世でもお勤めを、とお祈りされたならば……さすがに安らかに眠ってはいられない。せいぜい生前の行いを正しくしておこうと思う。

かくも古代人と我々との乖離は大きい。もとより埋葬は一種の演出であり、そこには死者と生者を取り囲む固有のコンテクストがあるはずなので、これを現代人の感覚だけで論じることは、おそらく真面目な論文では許されまい。しかし個人的な違和感から出発することもまた、歴史研究のひとつの道筋ではあろう、と居直ってみる。書類の副葬ということが古代中国においてごくありふれた光景であったことは事実なのである。死してなお仕事の書類を読みそして書こうという、驚異的な意識の高さ。考えてみれば彼らは秦帝国の就活に勝利した人間であった。

現代と違うのは、彼らの内定先は国家ただ一つだったということである。イノベーションを追求してやまないこの集団は、コンプライアンス徹底を国是とする法家キングダム・秦に安住してはいられなかった。陳勝・呉広の農民反乱にやや遅れて、蕭何や曹参ら秦の能吏たちもまた、自らが仕えた長官たちを殺害しまくった末、秦を滅ぼし漢を興す。しかしながら、王朝の交替によって旧来の書類作成技術がただちに無用のものとなるわけではない。「漢承秦制」――漢王朝が様々な面で秦の制度を踏襲したことは、夙に正史『漢書』の説くところである。そして近年出土の簡牘によって、秦と漢の行政文書がかなり似た形式を持ち、また驚くほど多数の語彙を共有していたことがわかってきた。地方官吏が粛々と勤務しつづけて培った文書処理の技術は、秦漢革命の激動を経てもなお有効だったのである。

その後、人類史上のいかなる革命も書類というものを駆逐することはなかった。書類仕事の歴史的基盤は、絶望的なほどに強固である。 書類そのものが消え去るのは、その宿主である人類が滅ぶときを措いてほかにないだろう。書類に寄生された人類の歴史は、少なくとも東アジアにおいては秦代中国に始まる。秦人たちは、そこが不可逆な歴史のスタート地点であることを知っていただろうか。