複眼時評

末原達郎 農学研究科教授 「フィールドワークの魅力と悲しみ」

2006.11.01

いつまでたっても、思いかえす光景がある。曲がりくねった炎天下の山道を、登りつかれて一休みするところである。前には背の高い油ヤシの木が3本、そのまわりに明るい二次林がつらなる。はるかかなたに、なだらかな山の尾根沿いにみごとなキャッサバ畑が見える。この尾根の小道を越えながら、何人もの女性たちが、背負い籠に荷物をいっぱい詰め込んで、汗を流しながら市場のある町へとでかけている。

場所はアフリカのザィール共和国。現在ではコンゴ民主共和国と名前を変えている。1970年代の終わりから、アフリカ農業の調査をするたびに、いつも通る道だった。炎天下の道は、30分も歩くと汗が吹き出て、3時間歩くと身体中が水分不足になる。道端に腰掛けて一休みすると、ふっと風の気配が感じられ、あふれるような土と植物のにおいがした。

この土地で、アフリカ大陸の真ん中にあるマウンティン・フォレストの中で、いったいわたしは何をしているのだろうと思った。希望に満ちて、見ず知らずの土地に赴き、希望にそって、地元の村人に受け入れられ、見ず知らずの言葉を学びながら、毎日畑に出かけては、農業を学ぶ。それはわたし自身が希望して選択し、多くの困難を乗り越えながら、ようやくたどりはじめたフィールドワークだったはずなのに。

はじめのうちは、何もかもがめずらしかった。キャッサバの粉を湯に溶いて毎日の食事とすることも、森に住むさまざまな野生動物の名前を覚えることも、焼畑が遷移していく過程を、フォーク・カテゴリーと比較しながら体系化していくことも、土地や親族の分類体系を学ぶことも、大学での既存の学問体系を学ぶこととは一味違った面白さがあった。

しかし、言葉がわかり始め、村の人々ともつき合いが深まり、日本との往復を何度か繰り返すうちに、わたしは、不思議なエアー・ポケットにはまり込んでいた。時間のとまったような感覚。自分が生きているという自覚の一方で、空間と時間の間隙に挟まったような感覚である。おそらくこの感覚は、ひとりで長くフィールドワークをした人ならば、きっと一度は経験しているものにちがいない。

今まで生きてきた自分と、今アフリカで汗を流して生きている自分とのどちらが本当なのかという疑問。自分が生まれ育った文化や自然環境や価値観と、フィールドで生活し、経験しているものとのギャップが大きければ大きいほど、この感覚は大きくなる。もちろん、どちらが本当なのかということなどは、ありえないことなのだ。どちらの世界も、本当なのだから。

フィールドワークは、われわれの生活にリアリティをもって、迫ってくる。何を食べるか、どのようにして水を手に入れ、薪を集めるか。日常を構成する一つ一つを具体的に想定し、着実に対応して、解決していかなければならない。それは、京都の片隅で、図書館や実験室や研究室で積み上げてきた生活の方法とは、まったく異なるものである。それだけではない。自然条件や技術的なことだけならば、山の中や海の中でも経験できるだろうし、解決の技術もまた体系化されうるだろう。最もやっかいなのは、人間関係の基本がどこにおかれているのかという点や、価値観における違いである。徐々にそのしくみがわかり、フィールドで出会う人々の人間関係のあり方や、重点の置き方に慣れてくると、今度は、自分の育ってきた社会の中における人間関係のあり方に疑問が生まれ、確信がもてなくなるのである。文化のズレに直面し、それを相対化しかけたとたん、今度は自分が基盤としてきたはずの文化や価値観の方が揺らいでしまうことになる。

二つの世界の違いを知ることは、ひとつの世界の価値観に縛られてきたわれわれ自身を、自由の世界へと解き放つ力を持っている。しかし、やがて二つの世界のもつ、それぞれの現実に迫られ、絡めとられる。たとえばアフリカの、厳しいリアリティの前に、押しつぶされそうになる。乗り越えなければならない問題は次から次へと迫ってき、しかも現実に解決できるものは少ない。研究者としてであれ、村人としてであれ、当面の状況を生き抜くことで精一杯になる。

二つの世界を知ることは、しかし、この困難な状況をはっきりと認識させることにつながる。両者のおかれた状況を、自分という肉体と精神を通して、結びつけていくことができる。わたしが生きてきた二つの世界は、実はしっかりと結びついているのだ。同じ時間を共有し、さまざまな利害関係の束が現実に二つの世界をつなげている。その結びめは目には見えにくい。 しかし、見えにくい中からさまざまな事実をみいだし、二つの世界をつなぐことができるとすれば、それは、二つの世界の中でフィールドワークをした身体と精神との中においてこそ、最も可能性があるだろう。

やがて、フィールドの友人たちはその土地で人生を送り、年を経る。われわれもまた、われわれの人生を送り、年を重ねる。時として二つの世界は、再び交差することのないまま別れてしまうことになる。これも、フィールドワークの常である。


すえはら・たつろう 京都大学大学院農学研究科教授。
生物資源経済学・農学原論専攻。主に文化人類学の視点から農業の研究を行っている。著書は『赤道アフリカの食糧生産』(同朋舎出版、1990)、『人間にとって農業とは何か』(世界思想社、2004)など多数。