文化

〈古典を読む〉『ギルガメシュ叙事詩』 神話的/征服史的な二通りの読み方

2016.02.16

ギルガメシュ叙事詩は、数千年前に古代メソポタミアで作られた文学作品である。ノアの箱舟と類似した記述があることで知られ、ギルガメシュの名はさまざまな作品で登場するが、叙事詩自体はほかの神話に比べて関連書籍も少なく内容の知名度も低い。果たしてその内容はいかなるものなのだろうか。

主人公であるギルガメシュは、3分の2が神で3分の1が人という特異な生まれではあるが、極めて人間的な人物だ。都城ウルクの王として君臨しているのだが、その横暴ぶりは目に余るものがあった。そこで神々はギルガメシュに対抗できるものとして、泥からエンキドゥという野人を生み出す。それを知ったギルガメシュはというと、神聖娼婦を遣わして知恵を与えることでエンキドゥを人間化してしまい、ウルクにやってきた彼と戦いの末に熱い友情を交わすのである。その後彼らは杉の森に棲む怪物フンババや、ギルガメシュに結婚を拒否された女神イシュタルが怒ってけしかけた神の牛と戦って勝利するが、これらを殺したせいでエンキドゥは病に倒れ死んでしまう。それを機に不老不死を求めてギルガメシュは旅に出るが、結局失敗してウルクに戻ってくるところで物語は終わる。

本作はさまざまな神話を彷彿とさせる記述にあふれているのだが、面白いことにその立ち位置が少々異なる。ノアの方舟に類似しているといわれる、すべての生き物の種を乗せた船を作り嵐と洪水をやり過ごすシーンはそのわかりやすい例である。ノアの方舟ではハトがオリーブの枝をくわえて戻ったことで洪水が引いたことを確認するのだが、叙事詩では洪水が収まったのを最終的に確認するのは大烏であり、鳩は陸地を見つけられずに帰ってきている。また、洪水を起こした神とウトナピシュティム(聖書のノアに当たる)を助けた神が別人で、もともと生物は全滅させられる予定だったというところも方舟との違いだ。エンキドゥを人間化するシーンも、知恵を得たことでそれまでの住処を追われる点ではエデンの園追放との類似性がみられるが、こちらでは主人公は追放先にいるわけで、立場の違いが面白い。叙事詩本編ではないが、それに付随するイシュタルの冥界下りも、死者を冥界に迎えに行くという日本神話やギリシャ神話にもみられる内容だ。本作が起源になっているのか、人類が考えることはどこでも同じなのかは定かではないが、これらの類似には興味深いものがある。また、洪水が収まるまでの日数や冥界の門の数など、作中を通じて7という数字が多用されている。7という数字に何らかの意味を見出していたことがうかがえ、神は世界を6日で作り7日目に休んだというキリスト教的な考え方に通じるものを感じる。

ここまでの神話や物語としての見方以外に、征服史的な見方をすることもできる。この場合、ギルガメシュは近隣に住む「野蛮人」を味方に加え、遠方で杉を守る敵対民族に打ち勝った征服者と読み替えられる。フンババの住んでいた杉の森はレバノン付近だと見られ、言わずと知れたレバノン杉の産地である。フンババ討伐までの話は、杉を手に入れるためにレバノンに住んでいた民族を打ち滅ぼした記録だと見ることはできないだろうか。エンキドゥはギルガメシュにとっては親友であったが、神々によってギルガメシュの身代わりとして殺されてしまう。ここからは征服した民族を取り込みつつも、有事の際には自民族を優先するという古代シュメール人の征服体系が浮かんでくるようである。

シュメール時代に楔形文字で記されたと聞くととっつきにくいが、ギルガメシュ叙事詩は、各文が短く案外読みやすい。入試や期末テストも終わるこの機会に、一度読んでみてはいかがだろうか。(鹿)