企画

京都の白い冬 ユリカモメを追うー北に過去に

2016.01.16

桂川、鴨川、宇治川――京都盆地にはいくつもの川が流れている。そこには多くの鳥が棲み、河川敷を歩けばすぐに10を超える種と出会える。スズメやハトからサギにカモにセキレイ各種、カワウ、トビ、運が良い日はカワセミまで。渡り鳥も何種かいて、冬が近づくととりわけ白く美しい鳥がやってくる。ユリカモメだ。雪のように白い体、ちょこんと生えた赤い脚とくちばし、そしてつぶらな黒い瞳。優美で愛らしいその姿は川辺の冬の風物詩だ。
そんなユリカモメに親しんでもらうために、生態や逸話などを紹介するほか、彼らを巡る研究の歴史も掘り起こしていく。鳥類学者の須川恒氏やボランティア団体「ユリカモメ保護基金」に話を伺った。
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ユリカモメと研究者たちの軌跡

ユリカモメ追って42年 須川恒

須川恒氏は大学院生の頃から長らく鳥類の研究に携わってきた。今は主に渡り鳥を研究している。須川氏にとって、ユリカモメと出会ったことは研究者人生における大きな転機になったという。京都を中心にユリカモメを調査すること42年、その経緯を聞いた。

須川氏がユリカモメに目を付けたのは1974年の初頭。きっかけはその冬、約200羽の個体が鴨川に飛来したことだ。ユリカモメが京都で確認されたのはそれが史上初で、鳥類学者だけでなく多くの京都市民が注目した。その頃から日本各地でユリカモメが新たな地で越冬するようになり、越冬数も増えた。なぜこのような変化があったのか。急激な越冬数の増加が餌不足を招き、飢えた個体が新たな餌場を求めて鴨川に来たのではないかと考える人もいた。

数人が協力して観察した結果、鴨川に現れるユリカモメは琵琶湖のねぐらから飛んでくると判明した。戦前から琵琶湖が彼らの越冬地になっていることはわかっていたが、その群れの一部が東山を越えてくるようになったのだ。

1978年から79年にかけての冬、脚に金属の環をつけたユリカモメが、京都をはじめ各地で確認された。須川氏はすぐに、これが日本以外のユリカモメの集団営巣地における「標識調査」によって取りつけられたものだと思い至る。標識調査とは鳥に目印(足環や首環)をつけ個体識別を可能にして追跡するという調査方法だ。主に渡り鳥に対して行われ、遠く離れた営巣地や越冬地の解明に貢献している。しかし、当時の日本でこれをユリカモメに実施しているという記録は無かった。つまり足環は海の向こうの土地から運ばれてきたのだ。ぜひともそこの研究者と連絡を取って営巣地の様子を聞きたいと、須川氏はがぜん意気込んだ。

そのためには、足環を回収して詳しく調べる必要がある。須川氏は鴨川でユリカモメを捕獲しようと思い立つも、単独では何かと難しい。そこでまずは鴨川をよく知る地元民の協力を得るべく、河川敷に出向きユリカモメにエサをやっている人に声をかけて回った。もちろんそう簡単にはいかず、立て続けに断られていく。しかし、そんな中頷いてくれる人物が現れた。大槻史郎さん(故人)である。

須川 恒(すがわ・ひさし)さん。1947年生まれ。京都市在住。所属は日本鳥学会、日本鳥類標識協会、日本雁を保護する会など。龍谷大学で非常勤講師を勤める。渡り鳥や冠島のオオミズナギドリの生態調査が専門。

町のユリカモメ研究家 大槻史郎

大槻さんは、上賀茂神社に近い御薗橋のそばで不動産業を営む一般市民だった。しかし鳥に対しては人一倍の情熱を抱いており、賀茂川でユリカモメの姿を目にするなりすっかり惚れ込んでしまう。以来彼らにパンくずをやるのが日課となるが、それだけでは終わらなかった。見かけたユリカモメの数など様々な情報を観察日誌に記録していたのだ。須川氏が持ち掛けた話も、二つ返事で承諾した。

そうして捕獲計画は動き出した。目的は2つ。まずは足環の出どころを突き止めること。もう1つが、須川氏たちの方でも足環を取り付けてみることだ。これには環境庁の作る小さな金属足環だけではなく、個体ごとに違う番号を彫ったカラーリングを用いた。わざわざ捕まえずとも、双眼鏡であれば個体判別が十分可能という代物だ。
カラーリングの導入により、大槻氏の観察日誌はいっそう細かく記録されるようになった。観察した時の年月日はもちろん、天気、気温、個体総数、餌付け回数、そしてカラーリングの色ごとの確認数。これを「ユリカモメの出席簿」と大槻さんは呼んでいた。このように調査が本格化してくると、大槻さんが本業を家族にまかせて須川氏と話し込むことも珍しくなかったという。

大槻さんがつけていた「出席簿」

つながる日本とカムチャツカ

1979年2月25日、大阪府岸和田市久米田池で足環つきユリカモメが保護されたとの情報を2人は得た。弱っていたところを保護された幼鳥が、偶然にも足環をつけていたのだ。調べると、「P605800」という標識番号があり、ソ連製だった。

標識をした人物は広大なソ連のどこかにいる。6月、須川氏はまず首都モスクワの標識センターに手紙を送って情報を求めた。返事はすぐに来た。しかし、書かれていたのは足環がロシア東部のカムチャツカ半島でつけられたものだということのみ。つけた人物の正体は分からずじまいだった。

須川氏は別のアプローチを試みる。その夏は、ハバロフスクで鳥類についての学術会議が開催されることになっていた。そこに須川氏と交流のあった鳥類研究所の職員も参加するので、カムチャツカからの参加者がいれば足環のことを聞いてほしいと頼んだのだ。

これが功を奏する。カムチャツカの研究者はその会議に参加していなかったが、マガダン(ロシア北東部の都市)の北方生物問題研究所所長コントリマビチャス氏の住所を教えてもらうことができた。モスクワよりも幾分カムチャツカに近い場所だ。須川氏は諦めずにまた手紙を送った。1979年が終わろうとしていた。

翌1980年の4月、ついに返事が来る。そこには待ち望んだ人物の情報が記されていた。「ニコライ・ゲラシモフ」、それが1978年にカムチャツカでユリカモメの標識をした研究者の名だという。

ゲラシモフ氏は英語ができないかもしれないとのことで、須川氏はロシア語で手紙を書かねばならなかった。大学時代に少し勉強していたとはいえ、どうしたものか――そう思っているうちに5月、手紙はゲラシモフ氏本人から突然送られてくる。ロシア語で書かれていた。

あなたの手紙を受け取り大変喜んでいます。残念なことに、あなたの手紙は何人もの人々の手を経て私のもとにやってきました。今後はすみやかなやりとりができるでしょう。1978年、フラモビツキ湖のまわりのコロニーで助手に手伝ってもらって、1084羽のユリカモメに標識をしました。あなたが部分的に観察された番号の足環は全て私が標識したものでしょう。ユリカモメはこの湖で、アジサシやコシジロアジサシとともに五千番いが営巣しています・・・
(須川恒『鳥類標識調査と「足環物語」』)

モスクワに手紙を書いてから実に1年近くを経て、ようやくユリカモメの営巣地と越冬地が結ばれた。以後は円滑にやり取りが交わされ、ほとんど未知だった彼らの故郷について情報が次々と送られてくるようになる。冷戦下のカムチャツカには入ることができなかったが、雪解けが進み、1991年には学術調査での入国が認可され、須川氏は念願のカムチャツカ入りを果たすことができた。

足環を追ったこの調査は2つの大きな成果をもたらした。渡りの研究に欠かせない営巣地の情報を突き止めたこととそれを新たな調査や発見に繋げたことだ。ゲラシモフ氏との交流をきっかけに、別の渡り鳥についても情報交換が進み、また鳥類学者同士のネットワークも強化され、将来の研究への礎となった。

ゲラシモフ氏からの手紙。鳥の絵柄の切手がたくさん貼られている

「大槻さんの遺志を継ぐ」ユリカモメ保護基金

1974年より京都で親しまれてきたユリカモメだが、今はずいぶんと数を減らしてしまっている。「ユリカモメ保護基金」は、毎年12月ごろに鴨川と高野川で数量調査を実施し、ユリカモメの動向を見守ってきた。その活動内容やユリカモメの近年の様子を紹介する。

ユリカモメ保護基金は、1993年に北大路商店街振興組合と有志たちによって設立され、ユリカモメの保護活動を実施してきたボランティア団体だ。毎冬の数量調査をはじめ、弱った個体の救助、学術支援のための募金なども行う。代表者は商店街で床屋を営む川村周仁さんで、あの大槻さんと親交があったそうだ。顧問を務める須川氏は、「設立には、大槻さんの遺志を継ぐ意味もありました」と話す。

今年度の数量調査は2015年12月21日に行われた。範囲は桂川との合流点より北に21㌔㍍で、高野川も一部含んでいる。これを数㌔㍍ずつの区間で分担する。記者は賀茂大橋から北大路橋までを担当する班に同行させてもらった。
当日の午前、記録紙と計測器をもった2人の調査員が河川敷を歩いた。ユリカモメを見つけると計測器をカチカチと鳴らし、カウントした数を記録紙に書き留める。カモやサギ、セキレイなど他の鳥の数も同時に調べた。全てがデータに残るわけではないが、参考のため数えておくのだという。

昼過ぎには北大路文化会館で報告会が開かれ、記録の集計や意見交換がされた。結果は518羽。毎年数千羽が見られた80年代に比べると、ずいぶん少ない。こうした低迷状態が2000年代半ばからずっと続いているそうだ。
ユリカモメが鴨川から琵琶湖のねぐらへ帰るには、東山を越えなければならない。そのため、彼らは毎夕旋回しながら空高くに舞い昇っていく。その様子が巨大な柱に見えたことから、「鳥柱」と呼ばれている。取材の途中、調査員の1人が話してくれた――「いっぱいのユリカモメが鳥柱をつくって、夕陽に光りながら空へ消えていく。あれは本当に綺麗だった。今は見られないけどね」。

鴨川からユリカモメが減ったのは確かだ。しかし数年前から、正面橋(七条大橋のひとつ南の橋)の辺りをねぐらにする群れが確認されはじめた。この新たな傾向に、今後の動きが注目されている。

カモの群れを数える調査員

『伊勢物語』の「みやこ鳥」

名にしおはばいざ言とはむみやこ鳥わが思ふ人はありやなしやと(※)

この歌に見覚えはあるだろうか。平安時代に書かれた『伊勢物語』に登場する一句だ。

旅の途中、隅田川で舟に揺られながら、ある男が遠い京に残してきた人に思いを馳せていた。その時、京では見かけない鳥が目に入る。船頭によれば「みやこ鳥」というらしい。名前の通り京の様子をよく知っている鳥なのだろうと考え、男は思い人の安否を彼らに尋ねた――。

ここでいう「みやこ鳥」とはどのような鳥だろうか。
ミヤコドリという名の鳥が現在の日本にもいる。ハトより少し大きく、頭から背中、尾にかけてが黒くて腹は白い。赤く長いくちばしを駆使して貝類や甲殻類を食べる。
しかし、ミヤコドリと「みやこ鳥」は異なると言われることがほとんどだ。歌の直前にある描写を見てみよう。

白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ、魚を喰ふ。(※)
(白い鳥で、くちばしと脚の赤い、シギくらいの大きさのが、水の上で動き回りながら、魚を喰う。)

写真などを見れば、ミヤコドリを「白い鳥」と呼ぶのは無理があると分かる。そのうえ彼らは魚を食べない。

実のところ、ユリカモメこそが「みやこ鳥」の正体として最も有力視されている。隅田川でユリカモメを見ることは実際に可能であり、京では見られなかったというのも正しい。何より、文中の描写がすべて当てはまるのだ。

※片桐洋一(2013)『伊勢物語全読解』和泉書院

推薦図書―ユリカモメのことをもっと知りたいという方に

森本幸裕・夏原由博編著(2005)
『いのちの森 生物親和都市の理論と実践』
京都大学学術出版会
京都市内の都市の自然を扱った本。須川氏の著した第三章「都市河川と水鳥」では鴨川のユリカモメの渡りと生態が紹介されている。

石部虎二・作 須川恒・監修(1982)
『ゆりかもめ』
福音館書店
須川氏監修のもと、鴨川のユリカモメの生活を描いた絵本。描き込まれたリアルな絵は、ユリカモメの優美さを再現しつつも迫力と精彩に満ちている。ユリカモメ保護基金の代表川村さんのお店(カワムラメンズサロン)で入手可能なほか、各地の図書館に置いてある。実は22ページ目に須川氏と大槻さんがいる。