インタビュー

京大出身猟師 千松信也さんインタビュ- 狩って生きる

2015.10.01

千松信也さんは、京大文学部を卒業後、猟師という道を選んだ。生活の一部として狩りをするという彼は何をきっかけにその道へ進んだのか。普段どういう暮らしをしているのか。京大から10㌔ほどのところにあるお宅へ足を運び、お話を伺った。(小・賀)

猟師という選択

――どういういきさつで猟師をすることになったのでしょうか。

猟師になりたいと思ってなったというのとは少し違うかな。確かに、子どもの頃から少なからず狩猟に惹かれていました。それは、当時人間が嫌いで動物が好きだったから。酸性雨とか砂漠化とか環境破壊が世の中でとても問題にされていた時代で、人間はその諸悪の根源だっていうありがちな考え方に自分も影響された。人間がいなくなればいいのになと思っていました。山の中で動物たちと暮らしたいと思っていて、そのためには自分で食料を調達できないといけないなと。実家が農家だったから米や野菜の作り方はすでに知っていて、あとは肉をどうするかだった。でも、生まれた場所が兵庫県伊丹市の山のない町だったり、狩猟が今よりもマイナーだったりして、実際にそれをやるなんて想像もしていませんでした。

大学に入ってからは寮で酒を飲んだり麻雀をしたり、たまに学友会の活動に顔を出すという生活ぶりになりました。そんななかで、文学部だから教師になるか院に行くことになるのかなとぼんやり考えていた。休学を4年、留年を2年して、大学には10年いました。4年間の休学中に、やりたいことを探すためにいろんな体験をしていたら、バイト先でたまたまワナ猟をしている猟師と知り合って猟師という生き方に触れたんです。最初は面白そうなことのひとつぐらいの気持ちで猟をやっていたけど、徐々にハマっていきました。それに大学時代に暮らしていた吉田寮には解体場所も獲った肉を食べる人間もいて、狩猟を始めるのにはちょうど良かった。

ワナ猟

――どうしてワナ猟を選んだのですか。

人間嫌いだったというのもあってか、独力で暮らしたかったんです。そうなると、火薬とかを準備しないといけない銃猟は現実的じゃなかった。その点でワナ猟が合っていました。今はワナも工業製品で作られているけど、やろうと思えば自分で一から自然物で作ることができる。

それにこの辺りでやる銃猟は、獲物を犬で追いこんで撃つというグループ猟。協調性の無い自分は向いてないかなと思いました。その点ワナ猟なら1人でできる。昔は「ワナ猟なんか偏屈者がやることだ」と言われれいた。猟友会に入ろうとしたときも、「ワナ猟なんてやるもんじゃない」って。でも、山に入るのも自分のペースで、1人でできるワナ猟が自分には合っていました。

――始めたばかりのころのお話を聞かせてください。

先輩の猟師に教えてもらいもしたけど、基本は1人で手探りでした。最初の年はシカ3頭だけしか獲れませんでした。イノシシは4年目になって初めて獲れた。警戒心の強いイノシシはワナにかかりにくいし、けもの道の見極めについても未熟だったから。

猟師の生活

――猟師の1年の暮らしはどのようなものですか。

鳥獣保護法で認められている猟期は基本的に11月15日から2月15日までです。シカやイノシシは数が多いから、猟期が延びたり、期間外でも駆除の依頼をされることはあります。ただし、僕は駆除の方はやっていません。自分が食べる肉を確保するのがスタイルだから、駆除には興味がない。

猟期は3カ月間あるけど、特に力を入れるのは最初の2カ月かな。それより後には、イノシシが発情期に入って肉が臭くなったり、必要な分の肉は既に確保できていたりするから、あまり楽しくなくなってくる。そこからはワナの数を減らすとかしてペースを落としていって、カモやスズメを獲る網猟の方にシフトしていきます。冬場は薪割りもやるね。冬にやる理由は、単に夏は暑くて疲れるからなんだけど。

獲った肉を処理しないといけないから、春が来る前の涼しい時期に燻製や干し肉を作ります。春には山菜やタケノコをとって、渓流釣りもするようになる。そうこうしているとアユ釣りの夏が来る。海や川でいろいろ獲れるようになるから、川にウナギを捕まえに行くほかに、最近は海にも潜る。行くのは日本海が多いな。

秋が近づくと、猟の準備をし始めないといけない。でもまだまだ海に潜りに行くこともあります。秋はモクズガニが川を下ってきたり、山でキノコやいろんな木の実がなってくるから、それもとります。

そうしているうちに、いつの間にかまた猟期が来ます。

――猟以外にもいろいろなことしているんですね。それもやっぱり「自分の力で生きる」という考えの上でのことですか。

まあ、タダで手に入るのが嬉しいっていうのもあります。それに、猟師にはそもそも自分であれこれとりに行くのが好きだという人が多い。獣だけではなくて、キノコや山菜もとる。僕はミツバチも飼っていて、春はその世話が忙しいです。前は家の近くで飼っていたけど、クマに食べられてしまうから、今は岩倉のもう少し町のほうの農地に、受粉もかねて巣箱を置かせてもらっています。

狩猟ブーム

――最近若い猟師が増えているらしいのですが、それほどブームになっているのですか。

今までがあまりに少なかったから、ちょっとしたことで騒がれていますね。最近聞いた話では、東京では今年、新規の狩猟免許を取ろうとする人が定員の300人を超えて募集を締め切ったらしい。こんなのは前代未聞だと言われているって。僕が7年前に本を出してから、直接連絡してきた人も100人くらいはいます。『山賊ダイアリー』という狩猟がテーマの漫画が出ていたりもするし、一部では注目されていると言えるでしょう。

田舎志向の若者の中に一定数狩猟をやる人たちが出てきている。昔と違って最近では、家庭菜園を作ってもイノシシとかシカが荒らすから、狩りもやらないといけなくなっています。ブームというか、実際はシカとかイノシシの獣害がひどいから狩猟をやらざるを得なくなっているのです。環境省も、昔は動物保護を仕事にする部署だったのに、ここ数年ではとりあえずシカとイノシシ、サルに関しては狩猟を推奨していて、さらに農水省も狩猟を勧める立場だから、それに伴って野獣駆除の報奨金が上がっている。報奨金が上がるということは狩猟をやる人の動機になります。彼らの選択肢に狩猟が入るようになってきているという感じです。世の中では、ちょっとそういうものがあればブームというものだから、増えた数は知れています。ただ、この社会における狩猟の必要性というのは絶対上がっています。それに伴って、マスコミもよく取り上げるようになってきているし、注目されているというのは間違いない。

ブームだとは言っても、狩りガールといったような若い人たちが狩りをやっているのは、小一時間も車でいけば大都市に出ることができるような一部の便利な田舎に集中していて、本当の田舎の方では人が減っていると思います。

――狩猟に携わる若者が増えることについてどう思われますか。

増えるのは断然いいと思います。自発的に猟をする人が減って仕方がないから駆除業者がイノシシやシカを大々的に殺して土に埋めるようなことをするのは、自然とのかかわり方としておかしいと僕は感じます。自発的に猟をする、生活の一部として猟をする人がいろんな地域に広がって最低限必要な分の動物を狩れば、獣害をだいぶ抑えることができると思います。実際この山の近くならシカやイノシシを減らそうと思えば可能です。最近ではシカが増えすぎて今まで食べなかった草や幼木、木の皮まで食べるようになってしまって、森が荒廃している。自然のバランスを守るという意味でもシカを獲る必要はあります。

現代における自給自足

――千松さんのような暮らし方は自給自足だと言えると思います。自給自足の生活をして得られるものは何ですか。

生活にお金がかからなくなるから結果としてあんまり働かなくてよくなります。僕は週4日しか働いていません。自由な時間が得られます。その自由な時間を薪割りをしたり山を回ったりとしんどいことに費やすこともあるけど、時間を主体的にコントロールできるようになる。賃労働している時間というのは自分で自由に使うことが出来ないけど、この生活は縛られずに生きることができる。

あとは、逆に現代の暮らしのありがたさも分かるかな。自給自足的な要素を取り入れていると便利なものを実感します。

一方で現代の暮らしの行き過ぎた面もあると思うんだよね。便利さを追求しながら、逆にしんどくなっているところもあると思うんです。例えば、お風呂を沸かすにしても石油・ガス・電気のどれかでやらないといけないと皆思い込んでしまっている。中東で紛争があって石油が高騰するとなると山奥でもああ大変だと動揺してしまっている。すぐ裏山見たらいくらでも燃えるものがあるのに。暖房をすべて薪ストーブにしなくても、ちょっと燃えるものを集めてくれば1日分の暖房なんか簡単に手に入ります。その方がむしろ、お金もかからないし楽だし、ちょっとしたいい運動にもなる面もあるのに、そうした暮らしには戻れない思考回路が出来てしまっている。

それは猟も同じです。猟をするというと大変なことに思われるけど、近所の山で少しとる分にはそれほど時間もかからない。現代社会の行き過ぎた面のすき間を埋めていくような感じでやっています。自給自足は素晴らしいなんて言うつもりは全然なくて、むしろ楽することを追求していった結果、自給自足の面が現代の暮らしと組み合わさって僕にはしっくりくる。だから、昔ながらの暮らしをしているつもりはそれほど無くて、ずぼらに暮らしていたら今の生活になったという感じかな。

野生動物の命を奪って

――千松さんは動物のことをどう捉えていますか。

家畜を育てて捌いて食べるという行為は、自然界の生態系からは外れてしまっています。でも、野生の動物を獲って食べる狩猟は、自然の生態系に入っていくことのできる営みで、魅力的だと思いました。なぜそこに魅力を感じたかというと、「自分も動物の一種でありたい」という感覚があったからかな。もちろんチェーンソーとか軽トラとか文明の利器を使うから特別な存在なのは間違いないんだけど、それでもある瞬間ある瞬間に、同じ生態系の中で動物と向き合える。狩猟をしているとき、山の中で「気持ちがいいな」と思える瞬間があります。ワクワクしたり緊張したりして動物と向き合える、そういうところに良さがあるかな。同じ動物としての「仲間」でありたい、同じ目線で暮らしたい、と思う。

――「仲間」と思っていたら、殺すときにためらいが生まれたりしませんか。

動物を仲間と思うことと、個体に愛着を持つことはまた違います。飼っている猫とかは殺して食べようなんて思えない。野生動物という点では、シカもイノシシも日本の自然において大切な存在で大事な仲間だけど、一頭一頭を見た時に大事な仲間だから殺せないのかといわれるとそれは違います。重要な食料になってくれるということも含めて大事という意味ですね。

駆除された野生動物の大半は燃やすか埋めることで処理されます。でもそれは、僕の感じ方とは相反する。シカやイノシシを「いなければいいのに」と考えるのが駆除で、僕がやっている狩猟は「いてくれてよかった」と考えてやるもの。彼らのおかげで肉を食べられる。だから、仲間意識を持つことと殺すことは自分の中ではあまり矛盾してはいません。

――千松さんにとって猟師は、生態系の一部だということですか。

そう思っています。けれど、文明から離れた野山の中で暮らしたいというわけでもない。現代に生きている以上、文明の恩恵を少なからず受けている。その中でいかに狩猟的な、自然とかかわる要素を織り込んでいくかという感じ。エコとか自給自足を無理にやろうと思っているわけではありません。

――世の中にはベジタリアンなど動物を殺すことに抵抗を感じる人もいます。千松さんは、動物を殺して食べるということについてどういった考え方をしていますか。

ベジタリアンにもいろんな人がいます。動物を殺すのが嫌でベジタリアンになった人もいれば、狩猟をするのはべつに構わなくてむしろ工業的な畜産に反対するから肉を食べず、野生の肉は食べるよという人もいます。僕の知っているベジタリアンの中には狩猟に理解を示してくれる人も結構います。

家畜の肉を食べることと野生動物の肉を食べることの意味は違います。野生動物は自然の中にあるものだから、その肉を食べても生態系のバランスは維持される。一方、大規模な畜産は人間が食べられるものでも餌に回すうえ、その餌のための農地も必要になる。それが実際、第三世界の人の暮らしを圧迫しているという面もある。

2010年から、イノシシやシカは狩猟よりも駆除の方で多く獲られています。猟師が猟期中に殺した数よりも、野菜とお米を守るために無駄に殺されている数のほうが多いということです。これが日本の現状で、野菜とお米を食べている人が動物を殺していないわけではない。「自分は野菜と穀物しか食べないから動物の命を守っています」というのはある意味欺瞞でしょう。自分の手では殺していないからって、自分が野生動物にダメージを与えていないとは言えないのではないかということです。それに、適正な規模の狩猟はむしろ自然環境を保全するもしくは自然環境が豊かでないと成り立たないものでもあると思っています。

今の日本の自然、生態系を見た場合には、シカ、イノシシを捕食する存在はほぼ人間しかいません。人間がオオカミを滅ぼしたから、その時点で生態系のバランスは崩れています。昔から、オオカミと人間が中心になって捕食することで日本の自然界はバランスをとっていた。そうした中で、オオカミを絶滅させてしまった人間が「かわいそうだから」という理由でシカとイノシシを食べずにいると、シカが森を食べつくすような状態になります。それによって草や虫、小動物が絶滅します。これらの生き物は「かわいそう」ではないのでしょうか。結局、直接動物の命を奪うか否かにとらわれると、その対象の動物といろいろな関わりを持つ生き物へのしわ寄せに目をつぶることになってしまうのではないかなと思います。

――狩猟で得た肉や毛皮に対して特別な思いはありますか。

やっぱり自分が直接殺しているから、殺しておいて肉を粗末に扱うのには単純に抵抗があるね。スーパーで買ってきた安売りの肉を食べ忘れて腐ってしまったから放り捨てるというのは簡単にできると思うけど、自分が獲った肉に関しては殺したところから自分に責任が発生しているしお金で解決できる問題でもない。責任があるのは間違いないから、獲った以上は美味しく無駄なく食べようという意識があります。感謝とか綺麗事ばかり言うのはあまり好きじゃないんだけどね。

とはいえ、時間との兼ね合いもあって肉を放り捨てることはまずないにしても、同時に獲物が何頭もかかって忙しいという場合は、内臓や心臓に比べて処理に手間取る腸や胃といった部位は山に埋めて動物に食べてもらうこともします。毛皮だって、すべてなめしきることは不可能だから自分が使う分だけをなめして残りは山に埋めます。結局はそれぞれができる分をやることになる。全部使い切るなんてことは難しいかなとは思います。

――狩猟に関わることなく暮らしていたら、食品となった肉や魚がかつて宿していた命のことを考える機会は少ないと思います。それについて猟師として思うことはありますか。

猟をやっているから命の大切さが分かるという通り一遍な答え方はしたくないなと最近は思います。いろんな形で命とかかわっている人はいるわけで、猟師はそのうちの一つでしかない。マスコミとかに取り上げられる機会が増えると、どうしても猟師のすばらしさが強調されがちだけど、やっぱり汚い部分だってある。

さっき個体としての野生動物と種としての彼らは違うという話をしたけど、その一方で、このイノシシと俺は何が違うのだろうと面と向きあいながら考えたりもするんだよね。僕は自分の体重の何十倍分、何百倍分もの動物を殺して食べているんだなあと考えることもある。子供の頃、飼っていたカマキリにバッタを取ってきてその脚をちぎって食べさせながら、「カマキリとバッタは命の重さが違うのだろうか」なんて考えたりしていたんだけど、それと同じだと思う。自分はこうしようと決めているんだから殺して食べるだけだと考えたりすることもある。そのときどきで考えることはだいぶ違います。良くも悪くも自分の手で殺しているので考えざるを得ないかな。でも、それが偉いと思っているわけではなくて、そういう環境にいることをありがたく感じます。

学生の頃はお金がなかったから、山にいる脂がのったイノシシを獲って食べたらタダじゃないかと思って猟を始めた面もあります。そういう思いから始めないと続かなかったかもしれません。生態系のバランスを守るとか、命のありがたみを知るためといった理由で始めていたら逆に続かなかったかもしれない。

そういう本能的な衝動が原動力になるという面が狩猟にはあるかな。だから、向き不向きがあって、誰にでも狩猟を勧めることはしません。実際、今の日本の人口で皆が狩猟を始めたらあっという間に動物は絶滅してしまいますからね。

――今日はありがとうございました。

(プロフィール)
1974年兵庫生まれ、京都市在住。京都大学文学部在籍中の2001年に狩猟免許を取得。運送業のかたわら猟を続けている。2008年に『ぼくは猟師になった』、今年9月には『けもの道の歩き方』を出版。狩猟に関する講演も行っている。自分と家族や友人のために必要な分しか狩りはしないのだという。


ワナ猟って?

ワナ猟は、その名の通りワナを用いて獲物を捕まえる狩猟方法だ。日本において多数を占めているのは銃猟で、ワナ猟をする猟師は少数派といえる。

千松さんが使うワナは、ククリワナと呼ばれるもの。鋼鉄のワイヤーから作られており、片端に結んだ輪で獲物の脚をくくって捕まえる。仕掛ける際は、輪の部分を獲物の通り道に据え置き、もう片方の端を近くの木に結び付けて固定。うまく足首をくくれるよう、輪の下には軽く穴を掘っておく。そこに獲物が踏み入った瞬間、仕掛けが作動し、輪がきつく締まって足首を縛る。

獲物を捕えるまでに、千松さんは念入りな準備をする。ワナの修繕や新調の際には、鉄や人間の臭いを消すために、カシやクスノキなど臭いの強い樹皮と一緒に大鍋で煮込む。臭いが薄れるほか、山の中では目立ってしまう金属の光沢も消すことができる。また、仕掛ける場所の吟味も欠かせない。足跡をはじめとして、牙や角にえぐられた木肌、泥浴びの痕跡、樹皮を食べた跡に至るまでを調べ尽くし、けもの道を見極める。さらに、獲物が踏みそうな地点をも予測したうえで、初めてワナを設置する。

かかった獲物を仕留める際には危険が伴う。棒で急所を叩いて失神させたのち、心臓にナイフを突き立てるというのが千松さんのやり方だが、当然ながら獲物は抵抗してくる。イノシシがワイヤーを引き千切って突進してくることもあれば、シカから強烈な蹴りをお見舞いされることもあるという。

野生の獣への深い造詣と、それに基づく丹念な用意、そして手負いの獣と独りで対峙する度量――ひと筋縄ではいかないのがワナ猟だ。