〈書評〉奈良岡聰智著『対華二十一ヶ条要求とは何だったのか』(2015.12.01)

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サントリー学芸賞、アジア・太平洋賞受賞作

京大法学研究科の奈良岡聰智教授による本作は、第37回サントリー学芸賞と第27回アジア・太平洋賞の二つの賞に輝いた。第二次世界大戦前の外交の転換点を、膨大な量の史料を基に検証する力作だ。

対華二十一カ条要求とは、1915年、第二次大隈重信内閣が中国に対して出した権益拡大要求だ。一号から五号に分かれた要求には、中国山東省でのドイツ権益の継承や満州権益の拡大要求が並ぶ。その中で最も研究者による論争を呼んでいるのが、第五号だ。第五号には中国政府に日本人の政治顧問を置くことや日中の警察を合同することが挙げられ、中国の主権を脅かす恐れのある、当時の外交常識から離れた内容だった。なぜ日本政府はこのような無茶な要求をしたのか。著者は当時の外務大臣である加藤高明に注目して、第五号が盛り込まれた過程を丁寧にたどっていく。

加藤は、日露戦争期から第一次大戦期までは、イギリスをはじめとする列強からの信頼を重視する外交官だった。それゆえ、第五号が公になった場合、どれほど問題になるかも当然把握していた。では、なぜ第五号のような要求を出したのか。著者は、国内からの強気の外交を求める主張を加藤が抑えきれなかったからだと見る。

当時、国外での権益拡大を求める世論はかつてないほどに高まっていた。陸軍や対外硬派の一部の政治家だけではない。野党の立憲政友会では中国での権益拡大を求める声が台頭しつつあり、加藤が所属する与党の立憲同志会からも、政府の外交を軟弱だと非難する主張が少なからずあった。

それに加藤はどう答えたか。外交への意見が多数ある中で、加藤は陸軍だけでなく元老も要求の策定に関わらせなかった。外交の一元化にこだわった加藤は、外務省だけで中国との交渉を貫徹しようとした。その一方で、対外硬派の主張も要求に取り入れた。結果として日本政府は、対外硬派の主張を先取りする形で第五号を盛り込んだと著者は推測する。

確固とした意図がないまま策定された第五号だったが、その取扱いもはっきりしなかった。日本政府は第五号の存在を列強に明かさず、イギリスやロシア、フランス、アメリカには第一号から四号までが要求のすべてであると伝えた。これは、加藤が第五号の問題性を認識していたことによるものだろう。だが、一旦第五号の中身が公になると、諸国からは非難の声があがった。ついには、当時の同盟国イギリスからも不信の目が向けられるようになり、加藤は第五号を事実上削除することを余儀なくされた。一方で、中国に対して軍事力をちらつかせるという手段を使って、二十一カ条要求を受け入れさせた。

以上のような顛末をたどった二十一カ条要求は、何をもたらしたのか。これ以降の日本外交の選択肢を狭めてしまったというのが、著者の見立てだ。中国では反日論が高まり、欧米諸国は日本への警戒を深めた。1920年代以降の日本は、諸外国からの不信感に包まれながら国際社会で立ち回らざるを得なくなってしまった。二十一カ条要求は、まさに第二次世界大戦前の日本外交の転換点となったのだ。

本書は、要求の策定からその反響までを、ここでは書ききれないほどに詳細に追っている。対華二十一カ条要求に関わる当時の国内・国外の諸事情を網羅した一冊だ。(B)

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