複眼時評

池田聖子 国際高等教育院教授「英語、されど英語!」

2015.11.16

私の長い海外暮らしは、日本の高度成長終末期から、バブル・その後の混沌期を経てすべてがグローバル化へ傾き出した時期に及んでいる。その間、身についたものといえば英語力とそれに並行して、日本語も含めた日本文化に対する外からの関心であった。

帰国後は、大学で英語コミュニケーションの指導に携わっている。京大での私の役割は授業を通して、将来国際的に活躍する若者たちの育成の一助となることだと心得てきた。しかるに、日本文化関連の授業においても、なるべくその指針に忠実であれと努めてきた。日本の文化を考え、その美意識に触れ、英語で世界に発信するということはそれなりに意義のあることだと考えている。

京大でも英語を教えるためだけの授業ではなく、他の分野の授業を英語で行うという試みがなされている。しかし、伝統文化がテーマの授業を英語で教えることは中々難儀である。ゲストの専門家の多くは日本語での授業を希望する。たとえ英語が堪能でも日本人学生に日本文化を教えるのだから日本語で、ということになる。そして、それらの講義を日本語で聴けることは受講生にとって、とても有意義なことなのだ。

どの科目でも英語で教えれば良いというものではない。日本の伝統文化に驚くほど無知な学生が多い現実を受け入れ、最低限必要な人・地名などを聞いたら、すぐそれに当てはまる漢字が浮かんでくる程度の知識は、日本語で蓄積させる必要がある。科目によっては、英語で教えることに違和感を覚えないものもある。しかし、日本語でも知らないことを学ぶのに、英語は往々にして障害となる。何が何でも英語で授業というのではなく、学生が大学入学までに何を学んできたかについて、日本の教育全般を見直すことの方が切実な課題だと思う。そして、すべての日本人が英語を学ぶ必要があるのかどうかを考えてみるべきである。

グローバル化された世界で、教養として英語を身につける者や実用に即して英語を学びたい者は、その習得に力を入れると良い。しかし、どんなにグローバル化が進んでも世界は一つになどならないし、英語しか話されない世の中なんて来ないのだ。人類一人ひとりの帰属する場所は、自分と同じ言語を話す民族をベースとした限られたスペースなのだ。その枠からしばし飛び出してまで、伝えるべき何かを持つと考える者は、その手段として英語を学ぶか、優秀な通訳を介すか選択すれば良い。日本が西洋諸国の文物を積極的に取り込もうとしていた明治時代、一握りの者たちがその先鋒となり、留学や独学により英語を習得していった。今、英語を学ぶ人数の多さからいったら当時の比ではないが、はたして明治以降このかた、日本の英語教育は前に進んでいるのだろうか。

小学校から何年もの間英語教育を受けても、多くの人は海外旅行で物の値段を尋ねる程度の英語しか使えない。英語力を自分の人生のプラスにしたいと思っている人や英語大好き人間は、大いに頑張れば良い。でも、英語に苦手意識を持ち、できないことにコンプレックスを抱いている人は、そのようなネガティブ行為に時間を割かずに、自分のやりたい勉強を優先して欲しい。自分の目指す学問がより実り多きものとなるように、広い教養を身につけて欲しい。そして、それは柔軟な頭と心に母国語でしっかりと叩き込んでこそ、真に自分の身となり血となるのである。

英語を教える立場でこういうことを言うのはちょっと気が引けるが、英語は決して誰もが学ばなければならないものではない。知識習得の一媒体として有用ではあるが、日本人にとって日本語で体得する教養に勝るものはないということを肝に銘じておいて欲しい。

(いけだ・せいこ 京都大学国際高等教育院教授)