文化

〈映画評〉『新宿スワン』

2015.07.16

欲望を映し出す空虚な街と人

空虚に立つ街・新宿

新宿・歌舞伎町一番街、言わずと知れた日本最大の歓楽街。あけすけに言えば、居酒屋と水商売と性風俗の街である。

京都で夜の盛り場といえば、かつての花街・祇園や先斗町が思い浮かぶ。高級料亭が並び、若者や海外からの観光客も多いが、その間隙に風俗店が軒を構えるいかがわしい界隈でもある。とはいえ歴史的な景観を守ってきたこれらの街と新宿とが同じものではなかろう。新宿は東京大空襲で焼け野原となった地、歌舞伎町は池を埋め立てて造成された土地にある。言うなればその街並みは、空虚の上に成り立っている。

歌舞伎町は欲望の街であるとともに、無名無数の記号の街でもある。文字の張り出した看板と色鮮やかなネオン灯、人々の喧騒と大音量のBGMと、そこは人々の末梢神経を刺激する記号に溢れている。サービスを提供する飲食店の従業員や通りを歩く見知らぬ人々ですら、街を賑わす記号の一部と化す。歴史のない都市の空気は人々の過去を漂白し、また同時にそのような何者でもない人々の受け皿となっている。

スカウトという仕事

「金もない、仕事もない」社会の底辺にあったタツヒコは、こうして新宿に流れ着いた。ガラの悪い集団からの暴力の洗礼に抗っていたところを、歌舞伎町で幅を利かせるスカウト会社・バーストの幹部、マコに拾われたことで、彼はスーツに身を包むスカウトマンの職を得た。スカウトマンといっても、アイドルやモデルの卵を発掘する芸能事務所のそれではない。商品価値のある女性を捕まえ、水商売や性風俗の店舗に斡旋する者、ともすると女衒(ぜげん)である。

スカウトを始めてまず彼が突き当たるのは、声かけの難しさだ。道行く女性を呼び止めようにも、まともに取り合ってもらえない。真虎の巧みな話術を手本に、タツヒコは持ち前の陽気さで、自分の話に耳を傾けてもらえるようになった。

次に彼が心得たのは「オブザベーション」、すなわち人間観察である。服装や歩き方、どんな人と一緒にいるかを見れば、その人の年齢や職業、人づきあいが見えてくる。かくしてスカウトマンは声をかける前に女性の情報を先取りし、交渉の主導権を握る。

仕事は女性の働き口の斡旋にとどまらない。スカウトマンは働き出した女性の給料の何割かを「バック」として受け取る。だから彼女たちが職を辞めないよう心身のケアに努め、必要があれば別の職場を紹介することも重要な業務なのだ。

因縁、あるいは宿命

タツヒコが頭角を現す一方で、もう一つのスカウト会社・ハーレムのスカウトマン、ヒデヨシが街を暗躍していた。彼は麻薬取引で資金を集め、自身の所属会社を転覆させようと目論む。また彼は金髪頭でよく目立つタツヒコに並々ならぬ敵意をむき出した。ところがタツヒコは彼のことをかけらも覚えてはいない。

ある夜ヒデヨシはファッションヘルスから逃げ出す女性を店主から買い取る。アゲハと名乗る彼女は、今度こそまともな店で働けると息をついた。しかし彼女を待ち受けていたのは、またしても客の相手を延々とさせられ続ける過酷な日々であった。

そんな彼女を今度はタツヒコが見出す。彼女を虐待していた店長を撃退し、外に連れ出してくれた彼を、彼女は「王子様」と言って慕う。しかし二人だけの楽しい時間も束の間、再び巡り合わされたタツヒコとヒデヨシの間で、アゲハはその宿命を避けがたく背負うように、最後は新宿から逃れるかたちで姿を消す。

劇中、ヒデヨシの過去とタツヒコとの因縁が次第に明らかになっていくのに対して、アゲハは終始ミステリアスな存在として描かれている。彼女の言動からはその一貫した意志を汲み取ることができない。おそらく彼女には、自己というものがないのだ。

欲望する者、欲望される者

自己とはいかなる存在か。自ら語る言語によってそれを証明することはできず、他者のまなざしによってはじめてその存在を認められる。すなわち自己は、それ自体では本質的に欠如した存在である。だからこそ主体は他者に求められるべく、社会のなかでその欲望の対象として振る舞う。戦後の精神分析家、ラカンはこのような指向を「人間の欲望は他者の欲望である」と命題化した。

欠けたものを取り返し、そこへ戻ろうとする虚しい試み――それこそが欲望の正体である。主体は失われた自己を捜し求めて、自己を映し出す鏡となるよう他者を取り替え続ける。言葉を重ねるほど無限に背進する自己規定の試みのように。

ところが現代では社会集団に組み入れるべく自己を「去勢」する絶対的存在が失われ、欲望の主体たる自己がもはや形成されなくなっているために、社会を構成する象徴体系はヴァーチャルなものとしてではなく、モノとしてリアルに現前していて象徴と現実との区別がつかない。ドゥルーズ=ガタリがその共著に標題として掲げたとおり、近代以後の資本主義は分裂症的な社会である。

アゲハは「王子様」に救い出されることを夢想していたし、実際にタツヒコによって救い出された。しかしその欲望の対象は虚像であるがゆえに、誰とでも代替可能なのである。運命的に思えたタツヒコの存在も、所詮は「王子様」というファンタジーを投影するキャストに過ぎない。彼女の手にしていた絵本も、王子様はどこにもいなかったのです、と締めくくられる。

それに反してヒデヨシの欲望はすぐれて近代的である。彼の自己は中学生の頃、タツヒコの存在によって否定されている。彼に対するコンプレックスが、いじめられっ子だったヒデヨシを恐ろしく強い存在に変えた。そして地縁から切り離された新宿にこそ、彼は「全国統一」というヴァーチャルな野望を打ち立てることができた。しかしその野望はタツヒコと再び巡りあったがために、他ならぬ地縁という前近代的なものによって否定されるのである。

アゲハが最後まで人々の欲望を映し出す虚ろな人間として描写されることで、そのような病的な現代の資本主義を象徴的に体現している。ヒデヨシはじめスカウトマンはその混濁に呑み込まれないよう、女性を商品と割り切って取引している。そのなかでタツヒコは心的紐帯をよりどころに、近代以前の社会集団を再組織しようとしているように思える。しかしそれがほとんど不可能な試みであることを、声にならない叫びのようなラストシーンは表明しているように見えた。

《新宿》は遍在する

暴力をはじめ過激なシーンも多く、あまり晴ればれした映画ではない。しかし性や暴力を取り巻く現実は、確かにこの京都にも存在する。エンドロールで判ったことだが、ロケ地が新宿でなく浜松市なのは興味深い。ヴァーチャルな街としての《新宿》は、どこにでも再現されるということか。

恵まれた環境で勉学に励んできた天下の京大生には、日の当たらない夜の世界など縁遠いものに思えるだろう。しかしいわゆる「夜職」に就いたことのある女性は、実際かなりの割合で存在するとの報告もある。あなたの身近な人を通して夜の現実を知ってしまったとき、そこから生ずる責務をあなたはどんなかたちで引き受けたらよいだろう。そのような想像力を、劇中に描き出される《新宿》は臨場感をもって与えてくれるに違いない。

作品を観終わって映画館を出ると、河原町は雨が降っていた。道行く女性の露出した肌が、妙に卑近なものとして感じられた。なんだか自分にも声をかけられそうな気がして、しかし再び目を伏せる。自身を運命的に変えてしまうかもしれない出会いが近づいて、またいつものように通り過ぎていく。(交)

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