文化

〈書評〉池田浩士著『ヴァイマル憲法とヒトラー―戦後民主主義からファシズムへ』

2015.07.01

ファシズムと闘うために

日本の侵略戦争は一部の軍国主義者がやったもので、多くの国民は憲兵や特高を恐れながら戦争を耐え忍んだ――かつてそんな言説がまかり通っていたという。だが今の私たちは、当時の日本国民が戦争遂行に積極的だったことを知っている。戦後、日本は戦争責任を一部の戦犯に背負わせ、その結果国民は心理的に責任を免れた。それが冒頭のような言説を生んだ一因だろう。天皇制ファシズムの主導者は間違いなく裁かれた軍国主義者である。しかしもう一方で、「下からのファシズム」を国民が支えたのではないか。今を生きる私たちがファシズムを振り返って考えるとき必要なのは、おそらくこの国民への視線だ。本書はアードルフ・ヒトラーとナチスが支配するドイツを舞台に、ナチズムに囚われていくドイツ国民を見つめる。なぜ国民はナチズムを支持したのか。私たちと決して無縁ではない彼らの歴史を追体験することで、今を生きる私たちが新たなファシズムを感知するための感性を培い、ファシズムに対抗する手がかりを模索するのである。

ヒトラーは独裁者として語られることが多い。だが実際には暴力によって人々を支配したのではなかった。ヴァイマル憲法の民主的な選挙制度のもと、多くの国民の支持を得て、合法的に政権の座に就いたのである。現代日本のような一票の格差はほとんどなく、有権者の意思を極めて正確に反映する仕組みを持った選挙制度のもと、ナチ党は1932年の国会選挙で第一党となり、翌年ヒトラーが首相に選ばれる。世界恐慌以後の大不況の中、ドイツの失業率は留まることなく増え続け、政府の失業対策が進まない中、明日の生活に不安を抱える人々が、「失業をなくす」と強く訴えるナチスに票を投じたのだった。32年に全労働人口の44%を占めていた膨大な失業者は、その後ヒトラーの手で本当にいなくなった。

ドイツはこのときすでに戦争やホロコーストへの道を走り始めていた。失業対策はその起点である。政府は大規模な公共事業を推進し、そこへ「労働奉仕」として従事する失業者を募った(正確にはヒトラー首相就任前から政策は始まっていた)。「奉仕」というだけあって賃金は極めて低い。だが何よりも、それは自発的な奉仕であり、社会=国家のために自分の力を役立てる充実感をそこで得られたのだ。失業者だけではない。職のある者は、失業者を支援することで共同体に寄与し、同じように充実感を得る。自ら人のために働く喜びを与えられ、共同体へ奉仕することに生きがいを覚えた彼らは、ナチズム運動を担う立派な主体になっていた。そしてヒトラーは人々の自発性を政府への服従に変えていく。任意だった労働奉仕はやがて義務となり、一定年齢に達した青年男女がそこに送り込まれる。さらに復活した徴兵制のもと、労働奉仕を終えた青年男子はそのまま兵役に就き、女性は男のあとを埋めて働いた。軍隊では命令に必ず従わなければならない。共同体に奉仕する喜びを覚えると、次は政府の命令に服従することを覚えたのである。ヒトラーは忠実に服従する国民には褒賞や勲章を用意し、国民は服従のなかにも喜びを見つけるようになる。

ヒトラーは国民を走らせ続け、立ち止まって考える余裕を与えなかった。その代わり、何を考え、感じればよいのか、それは政府が決めてくれた。国民が自らする必要はなかった。国民は疑うことなく、ひたすら前へ走り続けた。ナチズムに魅了された彼らには、自分以外のことが見えず、そして自分さえも見えていなかった。疑うことなどできなかった。これが著者・池田浩士の考えるナチズムの現実であり、さらにはホロコーストを可能にした条件でもある。ホロコーストの実務責任者であったアードルフ・アイヒマンが戦後捕まり裁判で見せた姿は、予想されていたような狂気の大悪人などではなく、ただの凡人だった。与えられた役目を忠実に果たすだけの小役人だった。ドイツ国民は、アイヒマンと与えられた役割は違ったものの、彼と同様に何も考えず命令に従ったに過ぎない。だからこそ600万ものユダヤ人を黙々と処分し続けることができたのである。生まれや育ちは関係ない。置かれた条件次第で誰もがアイヒマンになり得ることを、ナチズムの歴史は示している。

ヒトラーだけでは、ナチズムは始まらなかった。ドイツ国民の主体性が伴ってナチズムは進行したのである。ナチズムの下に生きた人々は、抑圧された存在ではなく、むしろ生き生きとした姿を見せている。とても幸せで充実した日々をすごしていたことだろう。ファシズムは私たちの感性を狙っている。ファシズムはその心地よさで人々を魅惑する。だが私たちはその結末を知っており、だからファシズムを阻止しなければならないと誓う。ファシズムの形態は一つではない。新しいファシズムは、ナチズムとは異なった様相を示すだろう。ファシズムに抗う感性は、ファシズムを批判する思考との相互作用のなかで培われる。ナチズムの下に生きる人々を追体験した私たちは、今度は私たち自身の日常を絶えず問いなさなければならない。私の中に、あるいは私たちの中にひそむファシズムの萌芽を、感性ですくい上げ思考で批判する、そうした日常的な実践こそが、ファシズムを阻止するための鍵となるはずだ。(朴)

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