複眼時評

大黒弘慈 人間・環境学研究科准教授「貨幣の価値を変えよ」

2014.09.16

ビットコインの話ではない。アレクサンダー大王に誰何されて「世界市民」(コスモポリテース)と名のる一方で、「犬」(キュニコス)とも呼ばれた古代の哲学者、シノペのディオゲネスがアポロンから授かったとされる神託である。そのディオゲネスがアテナイで名を上げるきっかけが、造幣局長官の任にありながら自ら「贋金づくり」に手を染めたシノペ時代の体験にさかのぼるというのである。もとより件の神託は、ディオゲネスにほんとうの贋金づくりを唆したのではない。当時シノペ(現在のトルコの港湾都市シノップ)はアテナイを母市としながらペルシア帝国(その傀儡カッパドキア)の圧力を同時に受けていたが、造幣局長官たるディオゲネスが職員に説得され、アポロンに伺いを立てたところ「パラハラッテイン・ト・ノミスマ」(貨幣の価値を変えよ)との神託を授かったというのである。ここを先途とディオゲネスは、シノペで大手を振ってまかり通っていたカッパドキア太守の肖像を刻んだ贋通貨に、その地位を利用して混ぜものをしたうえでホンモノのお墨付きを与える鏨痕を残し、大量発行することによってカッパドキアの贋通貨の信用を内から失墜させようと目論んだのだ。「悪貨が良貨を駆逐する」というグレシャムの法則を逆手に取り、贋金の贋金がもとの贋金を駆逐するという手の込んだ計画を実行したわけである。

ところでこの神託は両義的である。「貨幣に混ぜものをしてよい」というメッセージの裏に「貨幣の肖像を変えてよい」という別のメッセージが聴き取れるからだ。実際「ノミスマ」とは、貨幣だけでなく国家(を含む制度や慣習)をも意味する。ディオゲネスがわざわざこんな手の込んだことをしたのも、シノペの貨幣の正統性とともにその国家の正統性を奪回することにあった。しかしそれをも突き抜けて、ディオゲネスは貨幣と国家、それ自体の価値を疑うに至る。「貨幣の価値を変えよ」とはこうして、あらゆるノミスマの価値転倒を通じて、この世に「別の世界」をもたらすことに他ならない。

私は哲学の素養を持たないが、最晩年のフーコーも夢中になったというこのディオゲネスの逸話には強く惹かれる。ソクラテスが世間で通用している知恵者を吟味してその贋金性を暴露したのなら、「狂ったソクラテス」ディオゲネスもまた「人間はいないか」とアテナイを探し回り、世間で通用している慣習という慣習(ノミスマ)をパラハラッテインしてその虚構性を白日の下に晒す。同様に、アテナイで通用している自足的な「真の生」を極限にまで推し進めると、それとは似ても似つかぬ奴隷や犬が生きる「別の生」に反転してしまう。この矛盾を哲学の正統に突きつけるのだ。しかしディオゲネスの魅力は、こうしたシニカルな態度をも突き抜けて、さらに「別の世界」をこの世にもたらそうとするところにある。「汝自らを知れ」という倫理をはみ出た政治性が件の神託には感じ取れる。

マルクスには百万通りの読み方があるが、たしかにこれと重なる部分がある。難解をもって鳴る価値形態論のあとマルクスは『資本論』で「交換過程論」という章を置くのだが、そこで商品を「犬儒派」(キュニコス派)に擬らえている。マルクスは価値形態論で商品からいかにして貨幣が出てくるかを説いたが、そのあとで(教皇だけ廃止してカトリック教を存続させる欺瞞と同様)貨幣だけ廃止して商品を存続させようとする「小ブル社会主義」の欺瞞、貨幣を意識の上では批判しながら行為の上では追認するシニカルな啓蒙の欺瞞を暴くために、そもそも「商品」がいかにしてこの世に出現したかを問うのだ。このときマルクスは、価値に対する使用価値、ロゴスに対する行為の重要性を強調することで、「商品」が支配するこの世界とは「別の世界」を同時に示唆している。

もちろんここから直ちに、素朴な社会変革の希望を引き出せるとは思わない。キュニコスとはもともと権威に噛みつく「犬のような人」という意味だったのが、やがてその矛先が相も変わらず権力を批判し続けるキュニコス自身に向けられ体制擁護的なシニシズムへと変貌したのだという。だとするなら、それをさらにキュニシズムCynicismへと反転させるだけではふたたびシニシズムcynicismへと転落するだけだからである。そうではなく、近代の主観的理性の能動主義的暴走に巻き込まれないように介入を「自然に適った」程度に限定すること、これこそがキュニシズムのかなめである。マルクスが目指したアソシアシオンもまた、ディオゲネスの自足した「別の世界」と同様、奴隷や犬(そしてゴリラ)との共生を目指す控えめなものであったろう。

グローバル化路線をひた走るアベノミクスの成長戦略が、原発輸出の第一弾を日本と同じ地震国トルコの、福島に似た港湾都市シノペに向けて放ったことを尻目に、われわれは「冷笑」(シニシズム)ではなく古代的な「無為」(キュニシズム)の徳をこそ、この境界の「世界市民」から学ばなければならない。もとより投機を指向するビットコインなるものに期待できるはずもない。国はこれを「貨幣」ではなく「商品」と定義したそうであるが、重要なのはマルクスとともにその「商品」を問うことである。

如意ヶ嶽に浮かぶ「大」の文字の右肩に「﹅」を心の中で補いながら、(かつて京大生がおそらくはシニカルに実践したのとは別の意味で)以上のようなことを考えた。

(だいこく・こうじ 人間・環境学研究科准教授。専攻は経済原論・経済学史)