歴代総長を振り返る Vol.3(2015.07.01)

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今年の8月で第二次世界大戦終戦から70年を迎える。当時の京大はどのような状況であったか。今回は日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦という戦中・戦後の動乱の時代に任期を務めた総長を振り返りたい。今回も『京都大学百年史』を参考にした。(海)


文部省による帝大改革案

1937年6月末、松井元興第10代総長の任期が満了する。次期総長として浜田耕作文学部教授が候補者として選ばれた。当時は理学部書記による横領事件が起こった直後で、他の部局にも疑惑が広がっていた。浜田総長は学内の人事や機構を断固粛正する姿勢であったが、翌年になって体調を崩して入院する。それでも辞任する意志はなかったようだが、清野事件(京大教授による窃盗事件)に責任を感じて7月に辞意を表明する。

1938年5月、皇道派の重鎮であった荒木貞夫は文部大臣に就いて軍国化教育政策を進めていた。現状の総長公選制は方針にそぐわないと考えた文相は総長の留任を求めた。しかし総長の辞意が固かったため、文相は結局断念した一方で、次期候補者を選挙で選ぶことは認めなかった。

7月25日、浜田総長は現職のまま亡くなる。後任の選考が早急の課題になった。28日に文相は6つの帝国大学総長(京大は代理人)を集めて懇談会を開いた。大学の活動を世間に紹介したいことや、帝大の職員や学生への社会的信頼を得たいことなどを述べた。文部省と帝大との間で最も問題となったのが、総長・学部長・教授・助教授の選考・推薦の方法であった。

各帝大はそれぞれ意見を交換し、文部省と折衝を続けた。途中で東大とそれ以外で意見の不一致があり別々に交渉することになったが、京大を含む5大学の案は10月になって文部省に承認された。案には「総長候補者推薦に関して教授の答申(意見)は責任が明らかな方法で述べるものとする」という箇所がある。実際の選考では、記入者が分かるよう番号のついた答申書で投票して選考したという。ただ選考が終わると答申書は消却されたようである。こうして選ばれたのが羽田亨第12代総長である。

大学の戦時体制

1937年から始まる「国民精神総動員」運動の一環として、全国の大学はそのための機関・規則を設置するように求められた。京大の場合、特別な機関は設置せずなるべく現状の組織の権限を変更するなどして対応した。さらに、1940年から翌年にかけて「新体制」の標語のもと戦時体制の整備が集中的に行われた。「教員は学生に知識を授けるだけではなく薫育しなければならない」と文部省は主張し、京大にもそのための組織が設置されることになった。その一つに報国隊がある。学生を隊員、教員・配属将校等を指導者とするような軍隊をモデルにした組織であり、非常事態に備えての訓練や学内の防衛・救護・警備などが任務であった。その後、学内での食糧生産、卒業繰り上げ、さらには学徒出陣と、学生が戦争に関わるようになっていったのは京大も例外ではなかった。

教員の世代交代

1945年8月に終戦を迎え、9月に米軍が京都に進駐し、10月に第二学期の授業が始まった。それから一週間後、羽田総長は「大学にとっても国家にとっても大事な時期だが、健康状態が悪く職務を全うできそうにない」という理由で辞意を表明する。同月に行われた選挙によって鳥養利三郎工学部教授が次期総長候補者に選ばれ、翌月より就任した。就任直後の記者会見では基礎的・総合的研究を進めるための体制を確立することや学内自治を侵害しない範囲で追放された教授を復帰させる抱負を述べた。

瀧川事件の際に辞職した教員たちはこの時期に瀧川を含めて二名が法学部に復帰している。残りの大半も講師として授業を担当することになった。瀧川は復帰と同時に法学部長として法学部の再建に努めた。一方で、経済学部では河上教授の辞職(第一回参照)における教授会の責任を取って総辞職が決議された。他にもGHQの教職追放・公職追放によって京大は全学的に教員を失った。しかし、結果的には教員の世代交代が起こったとも言える。

「京都大学」の誕生

軍国主義的なイデオロギーを日本から根絶するためには、教育制度を改革する必要があると考えたGHQは民間情報教育局(CIE)を設立し、改革に向けての報告書を提出した。日本政府も「日本教育家の委員会」を設置して米国の専門家と教育改革について意見交換をした。この委員会に鳥養総長も参加していた。1946年8月には「日本教育家の委員会」の流れを引き継いだ教育刷新委員会が発足し、旧制高等学校の存廃の議論が交わされた。

同年10月、大学関係者と専門家による大学設立基準の制定を目指す大学設立基準設定協議会が設置された。初めは東京付近の大学関係者のみが集まる会であったが、やがて全国に広がり、1947年5月には全国大学設立基準設定連合協議会が開催されて大学基準案を作成した。全国の旧制大学が発起人となって7月には連合協議会を改組した大学基準協会が発足し、連合協議会の大学基準案を採択した。この協会にも鳥養総長が副会長として参加している。そして、12月に文部省内に設置された大学設置委員会も同じ案を採用した。「大学の基準は大学が決める」という民主的なプロセスを重視する意図があったという。

1949年5月、京大は新制大学として認可された。新設の教育学部は認められたものの医学部の医学科・歯学科は今回の申請では見送られた。医学部門は異なる設置基準を持っていたためである。

新制大学院の設置基準についても教育刷新委員会、大学基準委員会で議題に上がった。第一高等学校校長であった天野貞祐らが大学院の研究所化を主張したのに対して、鳥養総長は大学院には教育と研究の両方の機能が必要だと主張したように、大学院のあり方について大いに意見が分かれた。最終的には従来の学士と博士の中間の学位として修士が新たに登場し、1950年に大学院設置基準が決定した。京都大学大学院は1953年3月に設置されたが、学内の準備が間に合っておらず、大学院独自の予算が設定されていないことをはじめ、解決すべき問題が数多く残っていたという。

その後

終戦後、京大のキャンパスの一部は占領軍に接収され、インフレによって京大の財政は壊滅的打撃を受け、多くの学生は経済的に困難に陥ったという。従来の研究・教育活動もままならない状態からどのように立ち直っていったのか。次回では新制「京都大学」の再編の様子を振り返る。

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