依田高典 経済学研究科助教授「森嶋通夫先生の思い出」(2004.07.16)

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森嶋先生が亡くなられた。享年八〇歳。蛇足ながら森嶋先生の足跡を振り返っておこう。一九二三年生まれ。旧制浪速高校を卒業後、京都帝国大学経済学部に入学。学徒動員で海軍士官の時終戦。この心の傷跡が森嶋青年の一生で消えることはなかった。一九四六年京大を卒業。京大助教授、大阪大教授を歴任する一方で、英国オックスフォード大学に留学。ジョン・ヒックス(一九七二年ノーベル経済学賞)に師事。京大、阪大はいずれも喧嘩別れ。ついに不退転の決意で渡英。

エセックス大学客員教授を経て一九七〇年から八九年までロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。一九八五年に日本で初めて国際計量経済学会の会長。一九七六年文化勲章。日本人初のノーベル経済学賞の呼び声も高かった。最も熱烈な支持者はジョン・ヒックスだったという。しかし結果的に晩年のマルクス経済学を数理経済学的に再構築するという研究がかえって主流派の敬遠を招いた。ノーベル経済学賞の自由主義経済学への政治的偏向はつとに知られている。

本題に戻る。筆者と森嶋先生の付合いは淡いものでしかない。森嶋先生の事は晩年の愛弟子、安富歩東大助教授に聞いて頂きたい。ここでは森嶋先生との小さな思い出を披露しよう。森嶋先生は一九九四年秋立命館大学の客員教授として日本に滞在した。「学者はその処女作に向かって永遠に回帰する」との言葉がある通り、森嶋先生は処女作『動態的経済理論』の英文訳『Dynamic Economic Theory』を完成したばかりであった。森嶋先生は処女作であり、(学術的)遺作でもある同書を吟味するために京大人文研の助手だった安富氏に京大の大学院生の招集を命じた。こうして私どもは学徒動員された。

毎週土曜日人文研の部屋に集い、一字一句内容を吟味する研究会が始まった。森嶋先生は大学院生の報告に身体を傾けて聞き入り、口角を尖らせて議論し、そして最後には決まって「ええかげんなことすな、ちゅうんじゃ」の台詞が飛び出した。しかし森嶋先生は孫ほどの年齢の大学院生の意見に上から見下ろしたような態度をとったことは一度もなかった。常に水平な視線から受け答えし、共に考え、そして憤った。世界的大学者のリベラルな姿勢は我々大学院生を驚かせ、感激もさせた。

研究会は厳しかったが楽しかった。森嶋先生の原稿は今日においてなお学術的に素晴らしいものだった。私はある時ぽつりと「こんな本が四〇年前に極東の20台の若者によって書かれたなんて驚きですね」と漏らした。森嶋先生は何も答えなかったが、口元が少し得意げだった。

よく雑談にもなった。森嶋先生は毒舌である。当人がいたら卒倒しそうなことを、恐らく当人がいてもするのだろうが、よく言った。柴田敬やサミュエルソンの事はぼろくそだった。しかし二人の事を語るときだけは少年のように目を輝かせた。高田保馬とジョン・ヒックスである。特に、森嶋先生は一般に青山秀夫門下と考えられているだけに、青山先生の事を語るときの距離を置いた感じと、高田先生の事を語るときの嬉しげな感じは意外だった。

ある時、自称「劣等生」森嶋青年は高田先生に尋ねた。「私のようなものでも学者になれるでしょうか」。高田先生は答えられた。「一生懸命努力すれば必ずなれます」。私は高田先生の言葉を型どおりの励ましの言葉とは思わない。高田先生は学業成績などではとらえることのできない森嶋青年の鬼才を見抜いていたに違いない。私はこのエピソードを思い出すたびに鼻の奥がじんとする。森嶋青年の感激はいかほどであったろうか。恩師の一言が森嶋青年の一生を決めた。懸命の努力が始まった。

森嶋先生は阪神ファンだった。「ワシは巨人が嫌いや。だから東大に行かず、京大に来た」。聞いていた我々、特に私は唖然とした。私は熱烈な巨人ファンだが、京大に来た。森嶋先生はこう続けた。「阪神にはええ選手が多い」。阪神は研究会当時万年最下位だった。私は聞いた。「良い選手とは一体誰のことです」。森嶋先生は誇らしげに答えた。「景浦や藤村や」。聞いた私が馬鹿だった。

こうして研究会はあっという間に過ぎた。安富氏の発案で別れの宴が開かれた。その場でも話題は多岐にわたった。多くは他愛もない話だった。不意に森嶋先生がやや改まってしんみりと話された。「ワシの頃の京大はマル経ばかりでひどいものだった。しかしあんた方のおかげで京大は本当に良うなった」。我々は突然の展開にとまどった。森嶋先生はやや言葉をつまらせたように思われた。そして森嶋先生は自分のはるか後輩たちに軽くお辞儀した。「ありがとう」。我々は慄然として言葉を失った。若き経済学徒にとって生涯忘れ得ない情景となった。

(いだ たかのり・経済学研究科助教授)

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