複眼時評

福家崇洋 大学文書館助教「戦後日本思想史の一齣」

2015.03.16

今年一月に、拙稿も収録させていただいた出原政雄編『戦後日本思想と知識人の役割』(法律文化社)が刊行されたので、同著にちなんだ戦後日本思想史にまつわる話しをひとつ。

同著で私が言及した『思想の科学』は、一九四六年に武田清子、武谷三男、都留重人、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山眞男、渡辺慧が創刊したもので、言わずと知れた戦後日本思想史を代表する雑誌である。

同誌創刊に際しては鶴見和子の交友が生かされ、編輯事務も弟の俊輔が担った。彼は東京で雑誌発行に携わりながら、四八年一一月からこの京都大学と関わりを持つようになる。鶴見を京大に呼んだのは桑原武夫で、彼も同じ月に京大人文科学研究所勤務の教授に就任した。鶴見にとって、桑原は「慈母」的な存在であった(鶴見俊輔『期待と回想』上、三〇六頁、一九九七年八月、晶文社)。

鶴見自身の手になる「略年譜」によれば、四八年一一月に京都大学嘱託になったあと、翌年四月に助教授、人文研研究所員に就任、五一年五月から鬱病で約一年間休職、五四年一二月に東京工業大学助教授就任ということになっている(『鶴見俊輔著作集』第五巻、一九七六年一月、筑摩書房)。

ただし、ここにはいくつか検討の余地がある。まずは京都大学嘱託のところである。鶴見の回想では、「アメリカから最初の教育使節団が京都に来たとき、嘱託講師というかたちで私を京大側の通訳にしちゃった」(前掲『期待と回想』上、五五頁)ともあり、京大側の通訳をつとめたことがのちの助教授採用のきっかけになったと記されている。

この「最初の教育使節団」とは、四八年一一月後半に京都・奈良に滞在したアメリカ人文科学顧問団のことを指すと思われる。それよりも「嘱託講師」の方に違和感を持ったのは、鶴見の助教授初任給が検討された評議会(四九年一月二七日開催)に提出された彼の「略歴」には、四二年六月ハーヴァード大学修了、同年一二月海軍判任嘱託(一九四五年六月罷免)、四六年二月『思想の科学』編集従事、四八年一〇月教員適格判定とのみあって、嘱託講師という文言が出てこないためである(『評議会関係書類 自昭和二四年一月 至同年六月』京都大学大学文書館所蔵、MP00053)。

内部資料を参照した可能性がある『人文科学研究所五〇年』(一九七九年一〇月、京都大学人文科学研究所)には、鶴見俊輔の「研究員」期間として「一九四八・一一~一九五三・一二」と記されていることを考えれば、おそらくは人文研研究員としての採用ではなかったかと思われる。ただし、こちらの記録も京大の『学報』にはない。

上述のごとく、この採用の前月に鶴見は教員適格審査の対象となった。この審査の記録によれば、四八年一〇月六日に本部会議室で開催された第二五回大学教員適格審査委員会(委員長瀧川幸辰)で検討されたようだ。興味深いのは、この時点で「人文科学研究所助教授就職考慮中 〇鶴見俊輔」と記されていることである。つまり、嘱託講師や研究員採用にあたって教員適格審査の対象になったのではなく、そもそも助教授採用に際しての審査であったことが確認できる(『議事録 大学教員適格審査委員会』京都大学大学文書館所蔵、MP00121)。

とするならば、鶴見は助教授採用のために京都に招かれたものの、何らかの理由ですぐには採用されず、まずは人文研の研究員として採用され、アメリカ人文科学顧問団来学を経た四九年四月三〇日付で京大助教授就任が実現したということになる(『学報』一九四九年五月二七日、京都大学事務局)。

この就任延期の理由だが、鶴見の回想では「どうして小学校出の助教授を置くんだという騒ぎが起こって、組合委員長の河野健二(思想史家)が代表して鳥養〔利三郎総長〕さんに抗議に行った。鳥養さん、困っちゃって、「この助教授は困る」と桑原さんにいった」(前掲『期待と回想』上、五五頁)とあり、事実だとすればなかなか問題を含んだ話である。

ただし、この記述も検討の余地がある。河野健二は組合委員長ではなく、京都大学職員組合人文支部の委員であった(「彙報」『所報』一号、一九四九年六月一日、京都大学人文科学研究所)。通常ならば、支部の一委員が代表して総長に採用不可を認めさせたとはにわかに考えにくいが、河野と鳥養は同郷(徳島県)のよしみがあったか、あるいは党派的な動きが絡んでいたのかもしれない(江口圭一追悼文集刊行会編『追悼 江口圭一』一二一頁、二〇〇五年九月、人文書院)。

河野はこの時期人文研勤務の助教授であり、しかも桑原武夫が班長をつとめるルソー研究班、フランス「百科全書」の研究班に所属し、同じ班の鶴見とは距離としては近しい関係にあった。また、後年河野は鶴見と「研究体制についての改革案」を提出し、助手採用の公募制を提案している。河野は上述の鶴見の回想が刊行された前年に亡くなっており、真相は今もって不明である。

助教授採用後の鶴見は、『思想の科学』編集会議出席のために京都・東京間を何度も列車で往復した。また、所内での個人研究としては記号論の分析に取り組みながら、上述の研究班関連の発表・執筆、常設人文科学講座での講演、学外の雑誌論文投稿や著作刊行など八面六臂の活躍を見せている。

しかし、五一年の鬱病がひとつの転機となった。後年、鶴見は「自分は京都大学の助教授だというが、まわりから笑われている感じ。ある家に生まれたからこういう肩書きになった。自分の能力を過信したって、この肩書きは遺伝によるハプニングにすぎない。どんどん屈辱が深まり、自分で射った矢がすべて私に返って、もう自分の名前を書くのが嫌になってねぇ」と振り返っている(鶴見俊輔『期待と回想』下、五七、八頁、一九九七年八月、晶文社)。

実は就任の少し前、鶴見にとってより望ましい職場環境が人文研のなかで構想されていた形跡がある。四八年一二月二七日付で文部省から「国立新制大学概算書について」という文書が新制大学に送られ、秋に提出した「昭和二十四年度 概算書」の修正を要求する場合はその修正版を翌年一月七日までに送ってほしいとの指示があった。

これを受けて京大からは「昭和二十四年度概算資料 其二」が提出され、ここに翌年度の人文研の組織構想も記されている。この構想は「西洋文化部門の拡張」を謳ったもので新たな研究部門・研究担当者として、文化人類学では岩村忍、馬淵東一、西洋科学思想史では渡辺慧、田村松平、キリスト教思想史では服部英次郎、政治社会学では清水幾太郎、鶴見和子の名が挙がっている(『昭和二十四年度 概算書』京都大学大学文書館所蔵、MP00548、岩村は五〇年六月より京大教授・人文研勤務)。人文研側の意図はともかく、この案が実現していればまた別の『思想の科学』と戦後日本思想史が生まれていたのかもしれない。

鬱病によって鶴見は苦難の一時期を過ごす一方で、京都時代には大衆文化研究会、日本映画を見る会、記号の会などのサークルに参加しており、彼の活動に新たな「芽」が生まれつつあった。その後、鶴見は五四年一二月に東京工業大学へ移ったことになっているが、京大側の資料に基づくなら、前年一二月一六日付で東工大助教授に配置換となったというのがより真実に近いように思われる(『学報』一九五三年一二月二五日)。

(ふけ・たかひろ 大学文書館。専門は日本近現代史・思想史)