〈告知〉 ネグリ来たる(2008.03.16)

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マイケル・ハートとの共著『〈帝国〉』や『マルチチュード』において、グローバル化する世界情勢のただなかに新たな社会運動の主体の生成を見きわめ、現在世界的にもっとも注目されるアントニオ・ネグリ。ネグリの著作とこの講演の意義について、当日コメンテーターを務める市田良彦氏(神戸大教授)に聞いた。

―今回の講演のテーマは「知識労働とプレカリアート」ですが、著作のタイトルでもある〈帝国〉や〈マルチチュード〉という言葉は使っていませんね。なぜこのテーマなのですか。

「知識労働」は労働の質的変容にかかわり、工場労働に代わって主流になりつつある労働形態を指していて、「プレカリアート」のほうはこの新しい労働形態の主体がもつ階級性を示している、と考えればいいでしょう。知識労働は「雇用」にはなじまず、その主体はどんどん社会的に不安定な(プレケールな)状態の置かれるけれども、一つの階級として強く存在するようになる、ということ。

講演内容について言えば、現在ネグリは、『〈帝国〉』『マルチチュード』に次いで、マイケル・ハートと『コモン』という本を執筆しています。今回来日の際に3回の講演を行いますが、だいたいこの本のダイジェストになるんじゃないかな。3回のうち、東大では「新たなるコモンウェルスを求めて」という演題で、コモンつまり〈共〉という概念を中心に、時代認識や現状認識について話をする。ならば京大ではもう少し社会運動っぽい話にしよう、と。ポスドクなど、知識労働者もプレカリアート化している。そういった見通しの中で、知識労働と社会運動というものをどうつなげるかがテーマになると思います。

―ネグリの著作を読むための重要な概念として〈マルチチュード〉という言葉があります。ネグリはマルチチュードを現代の社会運動の主体としているものの、社会的地位や経済的地位によって規定されないと言っています。マルチチュードとはいったい何でしょうか。現代の文脈に即してご説明いただけますか。

マルチチュードはホッブスの言葉で、王的権力の側から見たとき「よく分からないやつら」という蔑称で使われた規定のない言葉です。社会的ポジションではくくれないところに意味があって、誰かわからないけれども騒いでいる人たち、だけれども危険な勢力として確かに存在している人たちのことです。彼らは広義の社会学的規定をはみ出してしまう。ネグリがそのマルチチュードを復権させたとき、「社会から規定されて主体であるのではなく自分たちで主体になる人々」と捉えかえしたのです。なので、社会的・経済的身分や国籍、性別などを叛乱へと向かう本質的規定としません。

先ほどのテーマでいえば、プレカリアートがわかりやすいかもしれません。例えば「フリーター」と呼ばれる非正規雇用者たちは、社会的アイデンティティを持っていないと言ってもよい。彼らが全員正規労働者になればよいかといえば、全員は不可能であるし、彼らも必ずしも正規労働者になりたいわけではないからフリーターでいたりする。「社会の一員でありながら、社会の一員ではない」という境界線上に存在している。マルチチュード的なものの目に見えるかたちといえるかもしれませんね。

―それは現代において、マルチチュード的な人たちが増加しているということですか。

マルチチュードの多寡を論ずること自体、マルチチュードを捉え損なっています。

〈帝国〉的状況では、(これはイタリアなどでよく言われたことですが)「社会の工場化」が起きる。生産の現場が社会のなかにどんどん拡散していく。ソフトウエア的知識の「工場」っていったいどこ?というわけです。また地理的に見ても、例えば、中東でパイプライン建設をしているのは、中東の人たちではない。東南アジアの人たちが労働者としてやってきている、そんな状況が生まれている。そんな状況では、誰が何を作っているのかもはや判然としない、全員が「全員として」何か作っているような状況と言えるかもしれません。その点ではマルチチュードは目に見えやすくなっているのですが、そのアイディアはそもそも主権論に由来しつつ、そこからはみ出たものです。

近代の歴史のなかでわれわれが「国家」と呼んでいるものは、ヨーロッパの18世紀で形が整えられて全世界に広まったものです。共和制では、社会契約論的に主権のすべてが国家に委譲されている。とにかく共同性の政治的な総括としては国家しかないとわれわれは考えている。ネグリは、国家は一種のフィクションであり、そもそも限定されたものだろうという。社会契約論では、「人民は国家に主権を譲渡する」としているけど、そんな契約を実際にしているかといわれたら、していない。国家に主権を譲渡せず、変革の可能性を捨てない、それがマルチチュードです。このマルチチュードに宿ったままの力を、ネグリは「構成的権力」と呼び、「憲法を構成し、憲法を超える力」があるとしています。

―ネグリは国家というものを非常に疑ってかかっていますね。一方でもっと国家を強くしようという流れもあります。

グローバル市場の暴力に対抗するうえで、スティグリッツなどの現在の主流派はむしろ、健全な国民国家の復権をしようとしています。超国家的枠組みであるEU憲法はフランスで批准されなかったのですが、そのとき主流派には「福祉国家システムがつぶれる」という危機感があった。極右と左翼がそういう危機感で手を組んだ。それに対して、ネグリはEU憲法に賛成しました。EUそれ自体は〈帝国〉に対する反動でしかありませんが、〈帝国〉のリアリティが強すぎる以上、EUが〈帝国〉の防波堤となり、各国の抵抗運動を横断して手を結べるのではないかと考えたんですね。

―EUの話もそうですが、欧米中心に〈帝国〉が描かれ、社会運動が起こるのも欧米。アジアやアフリカといった第三世界について顧みられていない、という批判もあります。

社会運動の文脈から見ればわかりやすいかもしれません。簡単にいうと、歴史的にはソ連派左翼と第三世界主義という2つの流れがありました。ソ連派左翼は、一度資本主義を進めきってからその国の政権を取って企業を国有化、社会主義国を目指す。これは資本主義の発展した国での方法論。その一方で、第三世界など資本主義の未発達な国家を、資本主義の発達を経ずに社会主義化する。この第三世界の革命が世界革命を主導するという議論が第三世界主義です。

ネグリの議論は、『帝国』で提示された現状認識のもと、どちらの方法論もとらない。ソ連派左翼に対しては、多国籍企業が強大な力を持つ現代において国家にそれほど重要性はない、という。第三世界主義に対しては、資本主義の外はない、という。その点で新しいものを打ち出したと見るべきでしょう。

―〈帝国〉〈マルチチュード〉と概念を提出していますが、ネグリは自著を「哲学の本」と位置付け、「新たな世界の構築に向けてどうすべきか」についてはあまり語られてはいません。これをどう考えたらよいのでしょう。

ここ数十年、社会運動はどんどんオタク化して、「大きな問題よりシングルイシューをやろう」というのが共通の現象として出てきた。水問題に関してだけやけに詳しい、みたいにね。それぞれが差異を強調して、タコ壺化してしまった。 でも、現代では誰もが負け組的になる可能性がある。それなら差異より共通性を考えよう。共通性を探り当てる最大公約の言葉、それが「マルチチュード」で、そういう社会的スローガンとして言ったわけです。

―最後に、この講演の受けとめ方について一言お願いします。

人それぞれでいいと思うけど、大学生なら自分はプレカリアート予備軍だ、ぐらいに思って聞いてほしいですね。それと、半生のすべてを革命に捧げ、いわば「負けて」刑務所暮らしや亡命生活をしてもいっさいシニカルにならずに、新しい地平に立とうとしている人の迫力は、ライブでこそ実感してほしい。

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