文化

書評 高野文子『ドミトリーともきんす』

2014.11.16

科学と詩の結節点を読む

『絶対安全剃刀』『棒がいっぽん』『黄色い本』エトセトラ。高野文子は友情物語とか恋愛物語とか、あるいは自己実現の物語だとか、そういう大仰なスペクタクルを描かなかった。高野文子が目を向けるのは、わたしたちの日常生活そのものである。読者に伝わるか伝わらないか、その瀬戸際のメタファーで再構築された日常風景。それを表現するために、ち密に構成された一コマ、一コマ。それを可能にしている画力。その徹底ぶりは正直に言って、他の同系等の作家と比べても傑出していると思う。

紋切り型で語られない日常は、もはやわたしたちの知っている日常ではない。高野文子の作品を読むと、何度も反復する同質な毎日という意味での日常の成り立ち難さを思う。わたしたちの生活は日々、喜びや悩みの種に満ちているのに、それを語る言葉を知らず、気付かない、ないしは忘れてしまう。日常は、世界は、人生は、気付かないだけで本当はもっと味わい深く、面白い。巧みなメタファーと計算された視覚効果によって日常の再発見を促すこと、それは間違いなく高野作品の真骨頂である。

そんな高野文子が12年ぶりに新刊をだした。『ドミトリーともきんす』。朝永振一郎・湯川秀樹・中谷宇吉郎・牧野富太郎、4人の科学者が、もし主人公・とも子さんの営む下宿で生活をしていたらという設定で、11の短編のなかで彼らの残した言葉を紹介していく。

最初、高名な科学者の紹介と聞いて、高野文子も路線を変更するのだろうかと訝しんだ。自己実現の物語として説教臭く語られがちな伝記を、あの高野文子が描いてしまうのか。高野文子がいま描きたいのは、もはや誰とも知れないひとの日常ではなく、武勇伝なのか。もやもやを抱えながら最後まで読んでみて、それは杞憂だったと感じた。

はっきり『ドミトリーともきんす』は武勇伝ではない。どんな幼少時代を過ごし、どんな業績を残したのか、そんなことはほとんど描かれていない。そうではなく『ドミトリーともきんす』は、日常世界をどう語るのかという、まさに高野文子が自身の作品のなかで実践してきた問題をテーマにしている。

『ドミトリーともきんす』の最後に湯川秀樹の「詩と科学」という文章が引用される。「詩と科学遠いようで近い。〈中略〉出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。バラの花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、花の形状をしらべようとする気持ちのあいだには、大きなへだたりはない。(「詩と科学――こどもたちのために――」)」。科学者は数式や言葉によって世界を整理してきた。それはまた、日常を言葉や視覚イメージによって再記述しようと、つまり詩人たらんとする高野文子と根っこでつながっている。『ドミトリーともきんす』で紹介される言葉は、科学者が世界を観察したときの、しかしまだ科学になりきるまえの言葉の数々である。それらが高野作品とも通底する詩情を感じさせるのは、なんとも不思議で面白い。

高野文子の作品のなかで『ドミトリーともきんす』は異質である。高野文子自身があとがきに記しているように、今作ではいかにも高野文子らしい描写は影をひそめ、淡々と科学者の紹介が展開される。そういう意味では物足りない感もないではないが、その分、日常を語ることに対する高野文子のこだわりが先鋭化されている。毎作進化を遂げる高野文子が今作でもやはり仕掛けてきた、そんな印象の作品である。(羊)

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