文化

[京大あれこれ]吉田構内に謎の建物!? その驚きの正体とは

2014.10.16

吉田キャンパス本部構内の東端、総合研究7号館の南側に隣接している謎の建物を皆さんはご存じだろうか。表札などは一切なく、扉も施錠されている2階建ての建物だ。京大の地図を見ても名前までは記載されていない。「京大あれこれ」連載2回目となる今回はこの謎の建物の正体に迫った。

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謎の建物の外観。それほど古いものには見えない。

手がかりを求めて

この建物は総合研究7号館と中央変電所に挟まれたところに存在する。外見は白色のコンクリート造り、2階建てだ。それほど古いものではなさそうだ。友人にも見てもらったが1980年くらいに建てられたのではないかという意見で一致した。建物の名前や管理する部局を示すものは一切なく、まさに謎の建物である。

建物の裏には空調の室外機が4つ並んでおり、それぞれに「研究室1」から「研究室4」の文字が書かれている。現地調査では何の手がかりも得られそうにないので、とりあえず私は図書館へ向かった。

旧施設部電気掛事務室

図書館でいろいろ資料を漁っていると、『京大百年史』(910ページ)にキャンパス内の建物を建設時期で色分けした図があるのを見つけた。これによると、「謎の建物」は「大正8年~昭和4年」、つまり1919年から1929年の間に竣工されている。まさか、そんなわけがあるまい。どう見ても、あれはもっと新しい建物だ。きっと誤植に違いない。

さらに『京大百年史写真集』(158ページ)を見ると「謎の建物」の写真の下に「旧施設部電気掛事務室(1925年竣工、武田五一・永瀬狂三設計)」とある。つまり、先ほどの資料の図は間違いではなく、「謎の建物」は1925年に作られたかなり古い建物だったのだ。私が1980年頃竣工と予想したのは大外れだったようだ。しかしそれにしてはきれいすぎるので、最近修復工事でも行われたのだろうか。

市川記念館

現在どこが管理していて、どういう経緯をたどってきたのかが気になる。そろそろ人に訊いてみるしかない。ということで渉外部広報・社会連携推進室に問い合わせてみた。すると「施設部に聞いてください」との返答。なるほど。確かに言われてみればそうだ。そこで、施設部に電話してみると「わかりません」との答え。しかし「旧施設部電気掛事務室」という名前なのだから、なんとか調べてもらえないかお願いした。するとしばらくして回答があり、情報学研究科の所有で「市川記念館」という名称であるという。

「旧施設部電気掛事務室」が情報学研究科の所有?予想外の部局だ。さらに「市川記念館」という謎の名称も飛び出した。

こういう時こそインターネット。「京大 情報学研究科 市川記念館」で検索すると『平成25年度 情報学広報』が見つかった。この中には情報学研究科の高木直史教授の寄稿があり、市川記念館が2013年に改修され、「1階に資料保管室と閲覧室、2階に客員教員用の教員室と会議室が整備された」と書いてある。

現在の様子

情報学研究科総務掛によると、この建物の内部には研究室がある。この研究室は特定の教員のためではなく、外部から期間限定で教員を呼んだ際に使ってもらうような、臨時の研究室である。掛員の方の記憶では、おそらく一度も使用されたことはなく、それは水道が無いためだろうとのこと。『情報学広報』に記載があった資料保管室や閲覧室について尋ねても、「それについては聞いたことがない」という。そこで、寄稿を執筆した高木教授に直接連絡を取ることにした。

高木教授によると、1階には情報学研究科図書室の資料保管室や閲覧室が設けられ、また将来水道を引いた時のために給湯室の準備工事が行われた部屋があるという。そして、2階には研究室が3部屋、ミーティングルームが1部屋整備された。いつから市川記念館と呼ばれていたのかを尋ねると、少なくとも30年以上前からそう呼ばれていたが、由来まではわからないという。そしていくつかの参考資料を教えてもらった。

むかしの様子

さっそく参考資料の一つ『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年)を開いてみると、記念館のデザインについて、「武田五一らしいゼツェッシォン的意匠を四隅上部に施し」(55ページ)と説明されているが、建築に疎い私にはサッパリわからない。また「発電所に付随した建物で、近年、情報工学教室の新築に伴い、現在地に移築されている」とも書かれている。ここでいう「発電所」は現在総合研究6号館で、市川記念館は現在の総合研究7号館と重なる位置、建築学教室本館の斜め向かいに建っていたようだ。このことは時計台の歴史展示室にある1939年当時の京大を再現した模型からもわかる。

ただ、2つの疑問が残った。1つはなぜこの建物には名前を示す看板がないのか。そして、「市川記念館」という名称の由来だ。高木教授もこれについてはわからないということで、改修工事にも携わったという施設部の増池氏を紹介してもらった。

増池氏もそこまではわからないとのことだった。まず、建物に看板が無いことについて、単に取り付けるのを忘れられていただけではないかという。吉田キャンパスの建物に共通のデザインのプレートが付けられた頃、改修前で、窓ガラスは割れ、雨漏りもしていた市川記念館は、取り付け対象から外されたということだろうか。

名前の由来について、市川克彦という工学部元教授にちなんだものではないかと増池氏は推測する。市川氏は1958年に大阪府立大学から転任して化学研究所で石油化学部門を、1967年から1981年の退官までは石油化学加工学講座を担当していた。『京都大学工学部燃料化学・石油化学教室五十年史』(1991年)の76ページには市川記念館の写真があり、「合成石油試験工場事務室、化学研究所兒玉研究室、その後市川研究室として使用された建物」と書かれている。次に『京都大学施設部のあゆみ』の68ページのキャプションには「旧施設部電気掛事務室(現工学部石油化学教室)」と書かれている。これらを見る限り、市川克彦氏が「市川記念館」という名称の元となったという増池氏の推測はほぼ間違いないのではないだろうか。

まとめ

この建物は1925年に施設部電気掛事務室として建てられ、その後合成石油試験工場事務室、化学研究所兒玉研究室、市川研究室と使用されてきたようだ。いつから市川記念館になったのかは不明で、研究室が移転してから2年前までのことはよくわからなかった。

現在の時計台(旧本部本館)や保険診療所(旧電話拡張交換室)は歴史的建築物として取り上げられるが、市川記念館も同い年。こんな歴史的建築物が、表札もなくキャンパスの隅っこにひっそりと存在していて、学生も教職員もほとんどがその存在すら知らないという状況にはたいそう驚かされた。説明看板くらいあってもよさそうなものである。京大の歴史的建築物を紹介する地図でも市川記念館は触れられていない。せっかくだから、この忘れられた歴史的建築物を是非一度見に行ってほしい。(通)