インタビュー

山極寿一 新総長 「権限集中より合意形成を」

2014.10.01

[編集部まえがき]

「大学改革」はいつまで続き、どこに行きつくのか。この終わりなき改革は、一体誰のために行われているのか。政府の主導する改革は、大学ひいては国家の国際的地位の向上という目的に終始しており、そこにあるのは国家の従属物としての大学である。国家への包摂が強まるなか、対して大学は自らのあり方を構想できているのだろうか。残念ながら、まかれた餌に飛びつくことしかできない大学がほとんどのようである。

京大も例外ではない。松本前総長の下で京大はありとあらゆる餌に飛びついてきた。その松本氏はお上の意向にそって教授会の権限にも手をつけた。対しては教授会自治の擁護が叫ばれる。それが大学改革の対抗軸であるかのように。しかし一方で、大学改革の一端である「単位の実質化」は、まさにその教授会の下で進められている。たとえ本意でなくとも、それが事実である。教授会自治とは、一体誰のためにあるのか。

さて、このたび山極寿一氏が京都大学総長に就任する。山極総長という選任はどのような意味を持つのか。山極氏自身はいかなる考えを抱いているのか。京大の改革を詳細に追ってきた本紙によるインタビューが、京都大学の今後を見据える礎となることを願う。

やまぎわ・じゅいち (略歴) 1952年東京生まれ。 京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士課程修了。 理学博士。 カリソケ研究センター客員研究員、(財)日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手を経て、京都大学大学院理学研究科教授。2011、12年度は理学部・理学研究科長を務めた。2014年10月1日より京都大学総長。『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル)など著書多数。

―総長に選ばれて今の気持ちを簡単に教えてください。

選ばれてからこの一カ月半ばかしいろいろと情勢を勉強するとですね、これはなかなか大変だなあという気持ちと一緒に、面白くしてみたいなあという気持ちがありますね。いろんな意味で過度期なのかもしれないなと思います。

1.総長選考

今回の総長選考はその方法をめぐって荒れましたが、選考後も選考会議議長の安西氏が不服を漏らすということがあり、選考方法については今後も議論が続くかもしれません。山極先生は総長選考についてどのようにお考えですか。

安西さんが申し出た改革というのはそれなりに意味があると思います。これまで京都大学内部で、事務職員から教員まで全て含んだ形で意向投票をしてその結果をもとに総長を選んでいたわけですけれど、外部の意見をきちんと反映させる形で京大総長を選ぶというのがグローバル時代の新しい方法なんじゃないかというものですね。京大総長に京大の教職員がならなくたっていいわけだし、もっといい人がいれば日本人である必要すらないでしょう。

しかし京都大学が長年ですね、京都大学の中で京都大学を支えてきた人たちの意向をきちんと反映させた形で総長を選んできたという伝統はやはり重要なものであると私は思っているので、それを完全に安西さんの申し出た方法に変えるという気持ちはありません。京都大学の長い歴史、それから今京都大学が目指している方向性というものを考えると、大学経営のプロで名を馳せた国際人が京都大学に乗り込んでくるというのはちょっといただけないな、というのが私の心境としてあります。両方をうまい形で反映できないかと思いますね。

最近は総長の権限が非常に変わってきています。総長の権力を大きくするというのと、総長の権限を少し分割するという二つの方向があって、リーダーシップを重視して総長の権限を大きくする代わりに、総長の権限をもったプロボスト、つまり副総長とかね、そういう立場も新設していこうという動きがあります。そういう中の一人に外部の人が入るというのは十分考えられるし、外国人が入るというのも考えられると思います。

ただ総長はやっぱり象徴みたいなもので、京都大学の中身を表す顔だから、私がそうだと言っているわけではないけど、やっぱり京都大学のことをよく知って、京都大学のことを愛している人でないと務まらないのではないのかなという気がします。それだけ京都大学に対する世間の期待は大きいだろうと思うからなんですけどね。

―今回の選考方法を国際性という点ではどう思いますか。

まだいろいろ意見を聞いてみないといけない。もちろん今回の方法でも学外からの推薦をきちんと受け付けているわけですから、それなりの検討期間とそれなりの検討内容が含まれていれば十分効力を発揮すると思います。

―山極先生はリコール制があった方が良いと自身でおっしゃっていますね。

僕はリコール制をきちんと定めたいと思いますよ。これは京大総長の選挙だけじゃなくて日本の選挙がそうなんだけれど、一旦選挙で選んだ人を、選んだってことを理由に何もかも任せてしまうのではなくて、京大教職員の意向を反映して選んだ総長なんだから、京大教職員の意向が総長を降ろしたいということであれば、当然それは反映されるべきだよね。リコール制度も選挙を重視することと一緒に考えなくてはいけない、リコール制度が無ければ選挙制度そのものの意味がないと僕は思います。

あとは任期の問題もありますね。今の6年というのは果たしてそれでいいのか。所信表明でも書いたけど、できれば4年+2年ぐらいにして、総長が旗を振っている方向性が正しいのかどうかを全教職員に問う機会が途中で一度あってもいいのかなと思います。

―選考会議はこれまで、総長選のたびに召集されては終わったら解散という流れが続いていました。しかしリコール制は法律上総長選考会議が文部科学大臣に申し出なければならず、そのためには選考会議が常設されている必要があります。今の選考会議のあり方は変えられるのでしょうか。

総長選考会議はこれから制度がちょっと変わるんですよね。

経営協議会というのがありまして、現在では13人の学外有識者が委員として選ばれます。また学内からも総長、理事、副学長、そして部局長から何人かが選ばれて、学外13人と学内13人で経営協議会が構成されます。その中から総長選考会議のメンバーが選ばれるわけですね。

総長選考会議はこれまでは6人対6人で学内と学外とが同一人数だった。ところが学外有識者の方が多くなければならない、過半数を占めなければならないという新しい法律ができて、そのために内規の変更を来年3月までにやらなければならないんです。それは早急にやります。

新しい経営協議会が立ち上がったらすぐに総長選考会議を招集して、その中でいろんなことを検討し始めてもらおうと思っていますので、リコール制も早く決められると思います。

―今回の意向投票に際して山極先生の研究室の学生院生らが山極先生への投票を避けるよう訴えていました。そのうちの一人は、立候補したわけでもない人物が総長に祭り上げられることに疑問を感じると話しています。しかし一方で、学内には総長に意欲的な人物が忌避される傾向もあると思います。こういう状況に対して何か思うところはありますか。

今日の日経新聞のコラムに出ていたらしいんですけど、そこにこう書いてあるんですね。会社の組織で言えば、会社の技術者を長らく勤めた人が並みいる専務や常務や役員を飛び越えて社長になったようなものだと。まさしくそう思います。私は理事とか副学長とかの経験がなくて、学部長・研究科長を2年間やっただけだしね。評議員も4年間しかない。そういう中ですぐに総長にさせられるというのはたいへん遺憾だと思っています。準備期間なくして飛べって言われるようなものです。

ただ、意向投票が2回あって、私は立候補も何もしていないけども、最初の投票で2番目に得票数が多かったということでいろんな人から働きかけを受けました。山極さん、この票は無視できませんよと。何でゴリラしか知らない人間が、総長みたいな役に就いて政治ができると思うんですかという気持ちでしたけれど。

今思えば、半分以上は現執行部に対する批判票だったと思います。それは最初の意向投票で現理事が10位以内にほとんど入らなかったということに現れていますよね。他の部局長だって理事を経験していない人が選ばれている。ということは僕と立場はほとんど一緒なわけです。つまりこれは、意向投票で得票数の多い人たちが集まって、ひとりだけではなくていろんな部局の知恵を反映した執行部をつくることが今求められているんだろう。私だけに何かしてくれと言っているわけではないんだ、ということをやっと理解しましたね。時間がかかりましたけど。

私は第一回目の意向投票の後、総長選に所信表明を書くことはお断りしますと、つまり白紙で出すと言っていたんですけれどね、現研究科長に「山極さん、そんなこと言っていたら構内は歩けなくなりますよ」と脅されてですな、それで書きました。総長になったら何をしますという公約ではなくて、新しい執行部ができたらこういうことをしてほしいということを書きました。だから私は総長になったら、当然それを第一に実行したいと思います。

ただし、先ほど言ったように、私一人の意見で決めるのではなくて、多くの付託を受けて票をもらった人たち全員の意思統一を図るということでやっていきたい。私は言うなれば意見調整役です。

最初の記者会見の時にも言ったんだけどね、京大っていうのは猛獣ぞろいです。この猛獣というのは、それぞれ世界の最先端に立って活躍している人達のことです。そういった人たちに適材適所で働いてもらいながら京大の良さをつくり上げていくっていうのが総長の役割だとすれば、要するに私には猛獣使いの能力が求められているのだと思います。私は人間よりもよっぽど力の強いゴリラを相手にやってきましたから、それは出来るんじゃないかという考えに至ったわけです。

2.ガバナンス

―しばらく前に学校教育法と国立大学法人法が改定されました。世間では学長の権限強化、教授会の役割縮小としてよく語られますが、実際には教授会の役割も学長次第だというふうに読むこともできます。山極先生は教授会との関係をどのようにされるのでしょうか。

前の法律でも、様々なことについて最終的には総長が決定するとなっていたわけです。新しい法律は教授会からいろんな決定権を取り上げて、執行部に集中させるというふうに世間では言っているけれども、実際のところ、それは使い方次第、見え方次第だと思います。我々にとって大事なのは、もちろん見え方も大事かもしれないけれど、やっぱり内実ですね。

人事の話で言えば、本当にミッションに合った人を採っているのか、外も内も納得できればよいわけです。私は現場に長くいましたから、大体どういう人事が行われているのか、問題点は何なのかということはよくわかっているつもりです。確かに人事が停滞すると、どうしても義理人情で採ってしまうことがあり得ます。それを公明正大に、きちんと人物判断をして、業績判断をして、本当に京都大学のミッションに合うかどうか判断できているかということが問題なわけで、その権限がどこにあるかとかいう話ではないと私は思います。私はきちんと現場を尊重してやっていきたい。ガバナンスというのはそういうものだと思う。

どこかの権限を強化するのではなくて、合意形成が図れれば物事はスムーズに進むわけです。その合意形成がきちんと図られていなかったからこそ問題なのであって、それをきちんと図れるようにしましょうということです。

―松本総長の任期中、国際高等教育院の設立に際しては人間・環境学研究科教授会から反対決議が上がったり、学域・学系制の導入の際にも多くの部局から対案が提出されるということがありました。ガバナンスという点で山極先生は松本総長の改革をどう評価されますか。

松本さんは教育現場から少し離れすぎたと思う。理事になられて、総長の期間を合わせれば、相当の期間教育現場から離れられていたわけです。

国際高等教育院をつくるという話は、私が研究科長の時代に突如として出てきた。全学共通科目の設計に関してより良い方向を、という議論はもう十数年続いていたわけだけれども、その中で結局形になったのが国際高等教育院だった。しかも国際高等教育院という名のもとに、文科省からある程度の助成金をとった。そのために見え方があまりよくなかったと私は思います。

人環の先生方が主張していたことはずっと昔からよくわかっていることです。つまり多様性を重視するという方向性、これは人文系がそうです。一方で自然科学系は、やはり積み上げ方式の基礎教育をきちんとやっていかなくてはならない。そのための科目設計をどうするか、あるいはカリキュラムをどう組み立てていくかということが重要なわけで、科目数が何百と多すぎて学生たちがそれをコースとして履修しなくなっているということが問題になったわけです。どの程度の単位数、あるいはどの程度の学識を備えて2回生を修了し、専門課程へと進行していくか、そういうことがきちんと考えられていないという反省があった。

それをどうするかという問題だったはずなのに、いつの間にか国際高等教育院という組織の問題になってしまった。教養部解体に伴って、総合人間学部と理学部で何人もの先生とポストを受け入れて、全学共通教育を担当しますという体制をつくったわけだけれど、そのシステムをいったん白紙に戻して新しい部局を立ち上げますよという話になったから問題になった。その改変をあまりにも急激にしすぎた。

全学共通教育の改革を2、3年でやってしまおう、しかも組織改革まで一緒にやろうというのは土台無理な話です。かつては同じようなことを5年もかけてやったわけでしょう。これは松本さんが任期中にやっておきたかったために急ぎすぎたのだと思う。私は今でも、もっと時間をかけるべきだと思っています。私が研究科長時代に物申したのは、もっと時間をかけてください、そんなに簡単にはいきませんよということです。だから今時間をかけているんです。

しかも今の学生たちが履修しているという問題もあるわけです。履修科目が急激に変わっていくと困るのは学生たちなんです。これから入ってくる学生と、旧方式で履修している学生との間にどういう差ができて、どういう困難が生じるのかということを、きちんと見通した上で改革を進めないといけない。

この一年、国際高等教育院がやってきた議論というのはこれですよ。やっとここまで来た。だけどそれは、松本さんが考えたほど簡単ではなかったわけです。これからも大変だと思いますけどね。良い方向に向かっていることは確かです。

しかし悪い方向に向かっていることもあります。例えば外国人教員問題なんかはね、言語道断という話も随分あると思います。文科省の言う金とポストの問題をまさに先取りして、そういう自主改革を京都大学がやった。外国人教員100人を、ただ数という点から持ち出して、そのための改革をやろうとした。だけど本来は中身が先でしょう。こういうことを外国語で、あるいは英語できちんと教える必要があるから、外国人教員を採らなければいけないという話になるのであって、外国人教員を100人採るから、英語でできる科目を選んでくださいって言われたって困るでしょう。順序が逆ですよね。そういう議論をきちんとしないといけない。

何をどれだけ教えなくてはならないということを誰がどういう要請に基づいて決めるのか、そういうことがきちんと議論されてこなかった。その反省の上に立って今京都大学が教えようとしているものは何なのか。その理念と内容ですよ。そして学生が何を求めて京都大学に入ってきているのかということをきちんと踏まえた上で、科目設計や科目提供というのをしなくてはいけないのだろうと思います。

そういうことは国際高等教育院の前から議論していたにも関わらず、なかなか上手く実を結ばなかったというのが現状なのです。それが国際高等教育院で一気に加速した。それは決して悪いことではない。だけどその加速したきっかけというのが金やポストに絡んだ話だったというのが私は気に入らないわけです。もっと実質的な議論が踏まえられてしかるべきだったと今でも思っています。

―松本総長はいろいろと率先して文科省の事業に応募してきました。その中には、松本総長は枠組みを決めただけで、特にSGU事業がそうですが、実行は山極先生に任されているというものが結構あると思います。そうした事業についてはどうお考えですか。

そういう道をつくってくださったことは大変ありがたいとまずは思ってます。松本さんの構想はすごく大きくてね、京都大学がまずは率先して、白眉プロジェクトもそうだし、WPI(iCeMS、物質―細胞統合システム拠点)もそうだし、思修館も、いろいろと先駆けてやっていただいた。それをどういう形にするのかっていうのが僕に任されていると思う。今度のスーパーグローバル大学(SGU)構想っていうのは、そういうものを全部まとめてより良い形にしていこうという構想なんですね。

正直言ってね、まだどういう風に具体化できるかわかりません。文科省がこれからどういうお金をつけてくれるかによって、これまで別個に走っていたプロジェクトの将来構想が大きな影響を受けると思うんですね。どこかを縮小しつつどこかを拡大するってことをやっていかなくちゃいけないし、また新しい構想を付け加えていかなくちゃいけないと思う。

基本的に大きなミッションは二つあると思います。一つは、国際的に最先端の研究事業を推進すること。要するに京都大学を卒業したポスドクを受け入れて優秀な研究者に育てるっていうことですね。もう一つは、京都大学は研究型大学と言われているけれども、その研究という狭い範囲だけでなくて、いろんなことで国際的に活躍できる人材を育てるっていうこと。これは一筋縄ではいかない。しかも各学部でミッションが違うわけだから、それぞれのミッションに応じてどれだけそういう人材を育てられるのか。一部でもそれに合う人材が育てられればいいと思います。初年次教育から大学院まで、いろいろ散らばりながらも一つの核としてまとまったものとしてミッションを構想できないかなというのが私の考えです。

SGU構想はいろいろな数値目標があるけれども、例えば国際ランキングで10位以内に入るとか、そういうのはあまり好きじゃない。目標として持っていることは悪くないんでしょうが、それを達成できないとペナルティーがくるとか、脅されるという構図は好きじゃない。まあ一つの旗として考えていますね。成果を数で判断することが大切なのではない。こういうことができたというのを、数以外で判断するための評価基準を同時につくりたいと思っています。

3.情報開示

―記者会見の際に山極先生は情報の開示が必要だと訴えておられました。実際、本部の用意した改革案が突然浮上するということはよくあると思います。山極先生はどこまで事前に情報を開示すべきだと考えていますか。

現在、部局長会議というのを毎月一回やっています。それは本来、ほとんど全ての部局長が集まって大学で行われてきたこと、これから行われようとしていることを議論する場だったわけです。ただ今は議論の場になっていない。「こういうことをしますよ、お認めください」という感じで、議論の時間すらほとんどないんですよね。予め議論すべき内容が提示されているわけでもない。それでは困るわけです。予算とかは特にそうですよね。やっぱり各部局の事情をきちんと踏まえた上で、どういう理由で予算が立てられたのか、きちんと説明されなければいけない。予め必要な情報を各部局が知った上で議論に臨まないといけない。そういうことがずっと部局長会議の問題になってきたから、もう少し早く情報を部局に下ろして実質的な議論ができるように改善しましょうということなのです。

それから文科省がいろいろな外部資金や競争的資金を用意しますけれど、今は特にそのための準備期間が非常に短くなっていますよね。しかも突然来る話が多い。それを予め各部局に投げてまた本部に上げるとなると、もう何か月もかかるわけです。それではとても間に合わない。だから部局を飛び越えて関係者に声をかけながら本部で素案をつくっているわけです。それがほとんど見えなくなっているのが現状ですね。今何がどういう形で誰によって行われているのかということを一応全教職員が知り得るようにしておかないと、やっぱり口を出せない。それで執行部が独自にやっているように見えてしまうわけですね。ひとつひとつのことは部局に聞いたり関係者に聞いたりしてやっているのだけれど、他の部局から見ると何をしているのか分からない。それをどこかできちんと見られるようにしておくということが必要なんじゃないかと思います。

ただ情報開示の問題というのは難しい面もあります。色んな情報をオープンにすると、学生や教職員の個人情報なども流出してしまう危険が伴うわけですよね。どういうことをどういう形で誰に伝えたらいいのか、それを誰が判断するのか、もし漏えいしてしまった場合誰が責任を取るのか、そういうことが事細かに決められていないと情報開示はできません。今後、情報環境機構長の美濃先生にご相談しながらいろいろと改革していくつもりです。大学で起こっていることはみな知る権利があるというのが基本路線です。

4.自己資金

―山極先生は自己資金の重要性も訴えておられました。これは運営費交付金に代わる別の財源を自らつくるということですよね。

そうです。アメリカの大学は膨大な自己資金を持っていますよね。それは基本的に税率控除の問題なんです。企業が大学に投資するお金に対する税金控除の措置が日本はまだまだ遅れているんですよ。だから各大学ともなかなか自己資金を集められないでいる。

アメリカの州立大学は授業料と寄付でなんとかやっているわけだけれど、日本の国立大学は授業料をなかなか操作できない。そして授業料を上げたとしても、おそらくそれは国庫に入るわけで、大学が自ら使えるお金にはならないわけですよ。授業料は全部国庫に入って、その上で運営費交付金として送られてくるわけですから。やっぱり一番重要なのは寄付なんですね。もうちょっと寄付を集めたいと思います。

財源難で僕が一番恐れているのは、研究者の数の減少と学生へのサービス低下です。これを避けなくてはいけない。むしろ向上していかなければいけないと思っています。教育研究環境の劣化を避け、人員をきちんと確保するために、資金を潤沢にしたい。まだ実現するかわからないけれども、企業からの寄付、卒業生からの寄付、そして学生の親からの寄付、そういうのを自己資金に取り込めないかなと思っています。

今は大学がベンチャー企業を立ち上げて利益を得る時代です。産学官連携で新会社を立ち上げてそこで資金を増やしなさいと文科省自らが言ってきている時代ですから、大学が自己資金を持つことは可能だし、むしろ奨励されていることなんですよ。ただそのお金はきちんと教育研究に使って行かなくちゃいけないわけで、その目的をはっきりさせれば寄付は受けられるでしょう。

松本総長が同窓会を増やしましたから、京都大学に関心を持ってくれる卒業生が今続々と増えています。そういう方々を中心に、京都大学に自己資金で何か面白い活動をしてほしい、あるいはいい学生を育ててほしいという希望が強ければ、それを次々に実施する時代になっていくと思います。そのための努力をしていきたいと私は思っていますよ。文科省の意向に縛られない大学運営・経営のためには、絶対に自己資金が必要です。

5.教育研究組織再編

―昨年度末に学域・学系制の導入が決まりました。これは将来の教育研究組織再編を見据えた下準備のようなものです。教育研究組織を再編するということは、部局がなくなる、あるいは新しくつくられるということもあるのでしょうか。

あり得る話だと思いますね。学域・学系制はもう教育研究評議会で決定したことなので、私自身がそれを元に戻すということはできません。議論はいま学域・学系をどう組織するかという段階にありますので、その中で新しい改革を進めていこうと思います。

私はそもそもこの制度には反対していた。学部というのは、それぞれの学部によって教育の仕方も違うし、将来の方向性も違うし、そして理念も違うわけですよ。それをばらばらにして教員はこっちの学部にも行き、あっちの学部にも行きっていうのではまずいんじゃないかと思う。あるいは学部を解体して、自然科学をやっている人は工学系も理学系もあるから、どっちでもいいよ、なんてことを言われたら困るよなあと。それは京都大学が引き継いできた伝統でもあるんですよね。

私は理学研究科を卒業して理学研究科の教員になりましたが、京大に限らず理学というのはやっぱり基礎学問なんですよ。東大の理学とも北大の理学とも東北大の理学とも通じるところがある。国立10大学理学部長会議というのがあって、そこで理学を発展させるための議論をずっと続けています。工学と理学は、サイエンスとしては一緒かもしれないけれど、教育の方向性は明らかに違う。あるいは農学と理学は明らかに違う。そこは教員自身が身をもって考えなくてはいけないし、身をもって示さなくてはいけないわけです。それができなくなったら困るじゃないかと思う。

一方で研究者は何らかの学会に属していますよね。研究者のコミュニティがあるわけです。そこで研究発表をするでしょう。研究者はすでに、学会では学部の域を超えて交流しているし、研究成果を競っている。だから、学部を超えることも当然できるわけです。

教育に関してはやはり譲れないところがある。だから学部は動かさない。ただし、再編計画では教員組織が学部ときちんと連結してるわけじゃない。私の主張は、教員組織はゆるやかにつながることがありえていいかもしれないけれども、学部に関するミッションは変えないでほしい、というものです。

ただ研究科あるいは研究所・センター群に関しては、ある程度研究者交流がしやすくなる利点を取り入れていくべきなのかもしれません。特に研究所やセンターというのは、それぞれの研究者コミュニティからの要望で作られたものですから、外と非常につながりが強いわけですよね。京大の教員というより、あるコミュニティの一員という意識の強い人だっているかもしれない。それが別に悪いことではないんだけれど。でも京都大学としてのまとまりを持つ上では、ある程度研究者交流をしながら京都大学の可能性を延ばす道を模索したいという気持ちもあります。それができるような人事異動をすることも一つのやり方かなと思います。

―学域・学系に所属をまとまめられると、それを定員削減に都合よく使われるのではないかという声を聞きます。

定削の問題についてはね、組織の問題とは別にいま新しい方策を探っているところなんですよ。私はずっと思っているんですが、文科省はポストの削減まで求めているわけではないんです。運営費交付金を毎年削減していくだけで、それに見合うように教員組織をおつくりになったらどうですかっていう話であってね。それを京都大学は定員削減という形で対応しようとしているんですよ。もっとやり方があるんじゃないかな。

例えばクロス・アポイントメントとかスプリット・アポイントメントとかね。もうすでに東大が始めてますけれど。東大と他大学や企業の両方で職を持って70%東大、30%他の組織っていう職の就き方もあり得る。実際、京都大学でも非常勤っていう形でそういうことをやってる教員はいっぱいいるわけだよね。でもそれは給与に加算されても反映されてもいない。今は兼業という形で、週8時間以内で自分の給料を超えない範囲で行われているだけで、他の大学との間に協定が結ばれているわけではない。

あるいはアメリカの大学みたいに、一年のうち10カ月分だけ給料もらってあとの2カ月は自分で自由に稼ぎなさいということも可能です。例えば夏はどこか研修に行くとか、外部資金をとってきてその資金の中から自分の給料を出して研究をするということも可能です。そういうことをアメリカの大学はずいぶんやっているわけです。

いま年俸制というのを導入すると、ある程度のメリットを文科省は約束してくれていますが、それを使って色んなこともできるわけです。学部・大学院では講座制をとっているところが多いけれど、研究所・センター群では講座制をとってないところが多いですよね。教授の数、准教授の数、助教の数が講座制と同じように組まれる必要はないわけです。それをもっと柔軟に活用しながら、ポストを増やしていくことすら僕は可能だと思っています。

教授が一定の数必要なのか、あるいは助教を増やす方がいいのか、准教授を一番多くするのがいいのか、そういうことは研究所やセンターのミッションに従ってやっていけるわけです。もし多様性を増やそうと思ったら助教を増やす方がよく、まとまったチームで大きなことをやろうとするなら教授、准教授、助教が一つのチームを組んだ方がいい。それを長期的な視野で考えられる時期に来ていると思うんですよ。どういう将来構想を持っているかによって教員構成も変えられるようにしていけば、ポストの問題に必ずしもお金を絡める必要はないはずです。

―文科省は最近、教員養成系や人文社会科学系について組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換をするようほのめかしています。このように自然科学、特に実用的なものを偏重していく傾向に対してはどうお考えですか。

学問の一番大きな魅力というのはね、今まったく役に立たないかもしれないものが残っていることだと僕は思うんです。たとえばいまラテン語なんて誰も使わないけれど、ラテン語をしっかり勉強してラテン語の書籍を読むなんてすごく面白いじゃないですか。そこから何が出てくるかわからないし、何も出てこないかもしれないけれど。でもそういう学問を持っているのが総合大学の強みです。

社会の要請によって大学はつくられるというのが文科省の今の考え方かもしれないけれど、実はそうじゃなくて、大学が社会をつくっていくんですよ。20年後の社会っていうのは、今の社会の要請によってでは分からない部分が多い。そういうものを今の大学にいる自由人が構想し、つくっていくことができるっていうのが大学の強みであるし、大学の存在価値だと思う。社会の要請がこうだから削るっていう思想には明らかに私は反対ですね。そうじゃない大学独自の考え方があっていいと思います。

大学は自律的な組織です。他から強制されたりはしないというのが、大学の与えられた利点なんですね。だからこそ大学には社会をつくっていく力があると私は思ってます。もちろんまったく社会の要請を拒めって話じゃないけれど、大学自身が大学の組織運営および将来のあり方を決めていくべきであって、私は近視眼的に社会の情勢を反映させるべきではないと思います。

6.国際戦略

―記者会見で国際戦略を推進していきたいとおっしゃっていました。山極先生は国際戦略を今の通り進めていくのでしょうか。

私は私なりの味付けをしたいと思っています。それはね、あまりにも英語偏重主義だから。アメリカとイギリスの英語化戦略に乗りすぎちゃっているんじゃないのかという気がするんです。

もちろん僕も自然科学系にいるから、ほとんど英語の論文ばっかりです。英語化が世界でどんどん浸透しつつあるっていうことは強く感じているし、それに遅れると世界で活躍できなくなるなっていう気持ちもあります。でもね、実際私はアフリカで長いこと仕事をしてきて、スワヒリ語っていう共通語やフランス語の両方を習得して、その言葉で地元の人たちとお話してきたんです。英語だけ学べば世界で活躍できるって話じゃないでしょう。

言語は一つの文化ですから、日本のことを考えるには日本語である方がいい。でも日本人だけがコミュニケーションの相手というわけではないですよね。そのときにどんな言語を用いるか。中国人もいれば韓国人もいるし、フィリピン人やアフリカ人、ブラジル人もいる。そういう人たちに自分の考えを伝えなければいけないわけですから、英語化だけを目指したら失敗します。

今のグローバル化の時代というのは、世界のさまざまな文化を知りそれを考慮に入れながら人間や世界を考えていくことが求められている時代、また英語だけではなくて様々な言語できちんと自分の見方を構築していくことが求められる時代です。われわれは京大生に、やっぱり国際的に活躍してほしいと思っているけれど、それはいろんな国のいろんな立場の人たちと自分を高めるために、あるいは相手を高めるために討論できる人がほしいということです。全部英語化したら、それは全然多様化ではなくて真の国際化ではないですよね。もっといろんな言語を学んでもいいし、そのためにいろんな国にきちんと拠点をつくりたいと思っています。

いまハイデルベルクやロンドン、タイなどにいくつか京都大学の拠点を作りつつありますけれども、私はそれを使って双方向的な国際交流をしたいと考えています。海外からの留学生、京大から送り出す学生、そして外国の教員、日本から行く教員、いまこれはそれぞれ単独の事業として行われていますが、それぞれが別々の事業として行われるのではなくて、いくつか関連をもった事業として行われるようにしたいわけです。例えば、日本の先生が2、3か月向こうの大学に行って講義をして、その講義を聞いて興味を持った学生たちが今度は京都大学に他の先生の講義を受けにくるということがあってもいいんじゃないかな。あるいは短期でいいから外国の先生が京都大学に来て講義をして、それを聞いた学生が今度は向こうに行って他の先生の授業を受ける。外国の先生が自分の学生を日本に連れてきて、京都大学で講義を受けさせる。こういうふうに関連付けてやっていけば、もっと実のある国際化ができると思うんですよ。

そういう国際交流の内容についての討論が今は全然できてない。他の大学でもできてませんね。数ばかりが問題で、何人留学生を受け入れたとか、何人の学生をどこの大学に送り出したとか、そんな話ばっかりなんです。それではいけない。

なぜ僕がそう言うかっていったらね、京都大学の多くの先生は海外の大学に仲の良い知人を持っています。学問の交流があるわけですよ。そういう資産を、これを僕は京都大学の財産だと思うんだけれども、これまで京都大学として利用していない。個人的な交流にとどまっていて、きちんとした公的なルートができていない。それが残念でしょうがないんですよ。そういうことが実質的にできるようになればいいなあと思っています。

―国際戦略の中で特に「英語で授業」については、今後どうされますか。

ただ英語で授業すればいいってもんじゃないだろうとは思っていますよ。その内容ですよね。英語での授業を増やしてどういう利点があるのかを、まずきちんと考えなければいけない。

実を言えば私は、外国人教員を長期に雇うよりも、短期でも来てもらって講義をしてもらうことの方が大切だと思っています。日本の各大学が外国人教員を募っても、いい先生が来てくれるかなんてわからない。数合わせのために質の高くない先生をとることになると、かえって研究現場は劣化してしまうことになる。それなら短期で来てもらった方がいいし、あるいは逆に日本から英語の経験が少ない先生を送り込んで、向こうの教育現場を体験してもらって、日本に戻ってきてそれを生かしてもらうということもあり得る。その方が若いポスドクに効果があるかもしれないし、助教や准教授の先生、あるいは教授でも、英語がまだ堪能ではない先生にとってはいい体験になるかもしれない。

事務職員もそうですよね。事務職員だから関係ないって話ではなくて、いま英語のできる事務職員が非常にほしいわけですよ。でも現場の人たちは英語を学ぶ機会がなかなかない。それなら海外拠点のオフィスに行ってもらって、実際に英語しか通じない現場で2、3カ月働くことによって英語能力がすごく向上するかもしれないじゃないですか。

そういうことを積極的にやって、英語化だけでない国際化を進めたい。単に外国人教員を雇うとかの方法じゃなくて、相互交流としてやっていくのが僕の味ですね。事務の国際化、教職員の国際化、学生の国際化、それを双方向でやりたい。そういうふうに思っております。

7.結び

―記者会見では自由の学風、創造の精神を大切にしたいとおっしゃっていました。そうした伝統を守り発展させていくために、何か考えていることはありますか。

自由の学風のためにはもっと自由じゃないとまずいと思うんだよね。

今はシラバスを書かされてその通りに講義するっていうのがカリキュラムのあり方になっている。でも、たとえば対話形式の講義をしていくのであれば、知識ではなく考えを伝える必要がある。実際に講義で話したいこと、聞きたいことをその場で展開すればいいこともある。それを下支えするような仕組みを、つくっていかなければいけないんじゃないかな。

それから、やっぱり多様性も重要だと思います。つまり、役に立つ学問ばかり用意するんじゃなくて、全く未知数な分野のものも置いておく必要があると思うんですよ。例えば、履修生が一人しかいなくても必要な学問っていうのはあると思う。一方で千人以上履修するから、これは必要な講義でしょうという考え方もあるんだろうし、予算上仕方がないっていうことはあるかもしれない。でも履修生が極端に少ないからこれは切りましょう、少ないものから順番に切っていきましょうっていうのはしたくない。

それは、こういう多様な学問があるからこそ大学には存在価値があるというふうに考えているからなんですけどね。それが自由の学風を育てる基礎的な仕組みだと思っている。要するに、役に立つ学問ばかり用意していたら自由な発想もできないということです。それから学生を引きつけるために教員がサービス精神を発揮して講義を組み立てるっていうのも僕はあんまり好きじゃない。学生をたくさん集めるためではなくて、伝えたいことをきちんと伝えるために講義はつくるものなんですよ。それは学生が何人いようと同じであるはずです。それでこそ学生は教員と一対一で話ができる。そこで自由の学風が育っていくんだと思う。

我々は学問の意欲を持った学生とは対等の態度で接するのがモットーだと思っています。それは京大が長らく培ってきた伝統です。高校の教育に慣れた学生たちにも、はやく京都大学の学風に馴染んでほしいですね。どの先生にでも話を聞きにいって、講義でも質問してほしい。そして講義っていうのは講義を受けるためにあるのではなくて、自分が考える材料としてあるのだから、自学自習のために生かしてほしい。そういう意味では今の15週を必ず守らなくてはならない単位制度って僕はあんまり好きじゃない。講義がだんだんと形から変わっていくような気がしてちょっと残念に思っています。でもそれも何とか工夫をしながら京大の伝統である自学自習を生かせるようにしていきたい。多様性と自由な発想、この2つが重要だと思います。

―ここまでいくつかテーマごとに話を伺ってきました。最後になりますが、ほかに任期中にやりたいことはありますか。山極先生の考える大学の理想像を交えながらお願いします。

そうですね。今10学部、あるいは18大学院があるわけですが、学部間交流や大学院間交流をやりたいと思っているんです。せっかく国際高等教育院ができて、全共通教育でいろんな学部の人が交流するわけじゃないですか。でもそれは講義の中で一緒になるだけ。あるいは講義でも一緒でない場合もあるよね、クラス指定科目とか。そこをもうちょっと垣根を越えて交流するようなことができないかな。その仕組みを考えたい。

もう一つ、英語化が進んで英語だけで卒業できるっていう時期にあって外国人の留学生も増えているんだけども、もっと日本の学生と交流できないかなと。そのための仕組みが何か必要だと思うんですよ。もちろんクラブ活動とか、いろんなサークル活動があるから、そこで交流できるかもしれないのだけど。でもなんとなくね、日本人の学生だけとか外国人の学生だけで固まって歩いていたりするような気がして。交流の場としては時計台を使えないかなと思っています。生活レベルの話から研究レベルの話まで対話ができるような場としてね。例えばテレビ番組で「ここがヘンだよ日本人」っていうのがあるじゃないですか。外国人がしゃべりまくるやつ。ああいう日常的な話から、研究レベルの分野越境的な話まで。あるいは宗教の問題や戦争の問題もそうですよね。いろんな討論の場として時計台が使えないかなと思っています。

それから総長としてだけではなくて単に一教員としていろんな学生を見ていて思うのは、何かこう、社会に対する、あるいは世界に対する発言が少ない。京大新聞もそうなんだけど。やっぱり京大の学生の主張とか考えだとかをきちんと展開し発信してほしいんですよ。そのためにも時計台が学生に使えるような方式を整えてもいいと思っているんです。こういう大学の学生とここで討論したいとか、フロアからのいろんな意見を聞きたいとか、あるいは一週間にわたっていろんな問題を論じ合いたいとか、そういう京大生の主張を出したいというのは歓迎します。『ゆとり京大生の大学論』ってあったじゃないですか。ああいうのもいいと思うんです。どんどん教員を巻き込んで、学生の本音を語り合ってほしい。

学生諸君も数年後には京大の教職員になったり、社会に出て何か意見を言う立場になると思うんで、それは学生のうちから主張を述べても構わない。我々は学生から頼まれれば受けざるを得ません。研究科長時代に思っていたんだけれども、学生からの要望とか依頼ってなかなか断りきれないんですよ。それは決して嫌なことではないし、学生がリクエストしてくれればそれに何らかの対応をします。教員を巻き込んで面白いことができるのであればどんどん取り入れていきますので、11月祭だけでなくて、日常的に世界で起こっているいろんなことに反応して、催しをやってもらって構わない。政治的な発言をするといろいろあるでしょうけれど、それもそれで対応しますので。教員と学生が組んで何かやるっていうことを私が総長の時に盛り上げたい、そのための具体的なアイデアがほしい、そう呼びかけたいと思います。

去年マンチェスター大学で国際人類学・民族学会連合大会があって、そこでディベートに参加しました。20世紀の前半に活躍したスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットが言った格言で「人に自然はない、あるのは歴史だけだ」というのがある。我々人間というのは歴史によって積み重ねられた知識で身体をも変えているわけで、我々の心も身体も自然に属していない、それが動物と違うところだと言ったんですね。その格言をめぐって、人文系の学者二人、自然科学系の学者二人が選ばれて、演壇に立ってそれぞれの主張を述べて、最後は聴衆がどっちがよいと思うか挙手で決をとるっていうもので、とても面白かった。

私は自然科学者だから、人間の身体も社会もまだ自然に大きな影響を受けているっていう話をしたんですよ。もう一人アメリカから進化人類学者が出てきて女性の身体を支配している自然の話をして、人文系の二人は、二人とも歴史の話をした。人類学会・民族学会というのは主に人文系の人が会員だから、我々自然科学系は結局二対一で負けたんですけどね。でも三分の一の票を取ったっていうのは、後ですごく賞賛されて、君の演説すごくよかったって言われて嬉しかった。こういうのってすごくわくわくして面白い。

誰か代表して話をさせて、英語でもドイツ語でもいいですよ、それを聞いた聴衆はただ聞いているだけでなくて、何らかの意思表示をする。そういう形式の討論もありだと思います。テーマは、我々が普段疑問に思うことがいっぱい有るじゃないですか。京大の学生、教職員だけでなくて、一般の社会人、あるいは外国の学者、学生が何を考えているのか、疑問に思っていることがテーマになりますよね。そういうことをテーマに討論会を催して、そこに希望者ですけど学生を参加させて、どの意見が正しいかを挙手させる。聴衆はそれなりの意識を持って参加せよという意味であるし、そのためには語学ができなくてはいけないじゃないですか。あるいはそのテーマについて勉強しなくてはいけないじゃないですか。そういうことをやった上で真剣に対談したり討論したりするのもいいんじゃないかと思うんですよ。そういうことを企画したいと思っているし、そういうアイデアがほしいと思っています。

(8月26日、山極氏の研究室にて)

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