秋津元輝 農学研究科准教授 「食選択考:タコツボ化から社会変革の手段へ」(2014.04.16)

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何を食べるかという問い


皆さんは日頃、どれほど食のことを意識して暮らしているだろうか。多くの新入生諸氏の場合、これまでは実家で提供される食事を、たまには文句を言いながらも、さして考えることなく口に運んできたことだろう。しかし、これからは違う。実家を離れて一人暮らしを始めると、途端に今夜、明日朝に何を食べるかという選択に迫られる。自炊するにせよ外食するにせよ、どこで、どのようなものを買って調理し、あるいは注文して食べるのか、それらがすべて自分の意思決定に委ねられる。しかも、待ったができない。人間は常に水や食物を摂取し、かの福岡伸一博士のいう動的平衡状態を維持しないと我慢できない仕組みになっている。若者であればなおさら、すぐに「腹がへる」のだ。

自宅通学の学生は、入学と同時にそこまで切羽詰まることはない。しかし、就職や結婚というライフイベントを契機として、早晩、その時はやってくる。結婚するまでは母親に、結婚すれば配偶者に任せればいいや、と考えている脳天気な男子学生もいるかもしれないが、それは危ない橋である。単身赴任したり、そもそも相手に愛想を尽かされたりすることもある。自分の身体の源となる食をすべて他者に任せて一生を終わる者は、今後ますます減少するだろう。

タコツボ化する食


身体と食との関係を考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは健康である。そこには身体にプラスになる意味で食の栄養が、マイナスを避ける意味で食の安全が関心の的となる。たとえば、先進諸国に蔓延する成人病は、運動不足の生活に加えて、不適切な食生活に起因するところが大きいといわれている。そうした食生活を見直すことを目的に、2005年には「食育基本法」も制定された。何をどのように食べればよいかについて、個人が備える食のリテラシー(操作能力)を高めることによって、正しい選択ができるように教育しようというのである。

しかし、食によって身体をコントロールするのは思ったほど簡単ではない。食べ物は薬とは違って、摂取してもすぐに効果が現れないからだ。したがって、自分の身体を対象化して食べ物によって制御しようとすると、容易にフードファディズムに陥る。フードファディズムとは「食べものや栄養が健康や病気へ与える影響を過大に信奉したり評価すること」(高橋久仁子『フードファディズム―メディアに惑わされない食生活』中央法規出版、2007年、20頁)をさす。TVなどのメディアによってバナナが健康によいと言われればバナナを、納豆がよいと言われれば納豆を買いに走る行動がそれである。食を考えるとき、私たちは自らの身体という直接的にはコントロールできない対象を抱えているのである。

他方、健康への配慮は最小限にして、生きてきた食経験にさして疑問を挟まずに、安さや満腹感を求めるという食選択もある。この場合は、生まれ育った家庭などにおける食環境や、メディアなどから流される「安い・うまい」の情報がその人の食選択を決定することになる。かつて地域における人間関係が濃密であり、食の選択肢も地域ごとに限定されていた時代には、ご近所の誰もが同じような食生活を営んでいた。しかし、家庭の自立性や独立性が高くなり、手に入る食材の種類も豊富になってくると、食選択は各家庭のなかで独自に進化していくことになる。個食化が言われる現代においては、家庭を飛び越えて、個人単位で食選択の独自進化が進んでいる。その結果、個人や家庭は食選択に関してその周囲に高い壁をつくり、自らの習慣の中に閉じこもっているようにみえる。ただし、その壁は氾濫するメディアの方向には開かれていて、盛んに情報を摂取する。この状況はまるで、ツボの中に閉じこもって、一方向からのみ海水の出し入れをするタコにそっくりだ。私は、こうした様子を食選択の「タコツボ化(compartmentalization)」と呼んでいる。

社会へと広がる関心


このタコツボから脱出するにはどうすればよいのか。そもそも、タコツボから脱出するとはどのような意味を持つのだろうか。

食選択は、食べ物を摂取する人間のみに影響を与えるのかというとそうではない。購入し摂取することは、当然ながら食べ物の生産や製造にも影響を与える。私は農学を社会科学的に研究する立場から、長らく農業の生産場面に注目してきた。今、産業としての日本農業はたくさんの課題を抱えている。貿易自由化によって国内農産物は国際的な価格競争に曝され、生産者価格は低迷、あるいは下落してきた。土地条件や風土に規定される農業という業種は、どこでもが新大陸型の大規模農業になれるわけではないが、自由貿易の論理はそんなことにお構いなしである。行く先に光の見えない農業に諦念して、後継者を育成する努力を怠ってきた農業者たちにも責任はある。その結果、日本農業は就業者の減少と高齢化、耕作放棄地の増大という困難に陥っている。

一言でいって、日本農業の低迷の原因は、農業者が儲からないからである。農業者がまっとうに努力して農産物を生産し、それに相応しい価格で販売して自らの生活が成り立つならば、農業での生活が成り立ち、農業の後退も自然と収まる。その実現のためには多くのハードルがあるが、最終の消費段階に注目すれば、「相応しい価格」で購入する食消費行動が必要になる。しかし、たんに日本の農業者が救えれば、私たちは将来も安心して食生活を営み、生存できるというわけではない。そこには、より広い視野から社会とつながる食選択の規準が求められる。

食選択の三つの規準


目標を大きく、持続可能な食と農として設定すると、食選択の基準は環境、社会的公正、地域経済の3つの要素に分解できる。

環境負荷の軽減が持続可能な食と農に必須であることは自明である。生産、加工、流通、調理、廃棄の各段階にわたるトータルな配慮が必要になる。例として、水や土壌、生物多様性に配慮した農法や、加温などの人工的エネルギー投入のない農法によって栽培された農産物(たとえば有機栽培や旬の農産物)を選ぶこと、輸送エネルギーや長いコールドチェーン(低温流通)維持のエネルギーを軽減するために、地場生産の食品を選ぶことなどがある。

社会的公正とは、人権や動物の福祉に関わる規準である。食と農で働く人々の食べて暮らせる権利が保証されなければ、システムとして持続可能でなくなる。先にふれた農業者を支える食選択はこの規準にかかわる。ただし、途上国の産品を公正な価格で購入しようとするフェアトレードの例に見るように、人権への配慮は国内に限られたものではない。動物の福祉は、欧州で盛んに議論される規準である。

地域経済は、私たちの生活を支える地域を経済的に成り立たせることによって、私たちの暮らしと、食と農の持続性を確保することを意味する。グローバリゼーションが進むほど、一定の地域のなかで食べ物を確保することが、実感の持てる生存保障となる。それが成り立つためには、確実に食べ物が供給される経済循環が条件となる。地産地消がその典型となる。

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とはいえ、食選択の問題が単純でないことは確かだ。規準に沿って選ぼうとしても、加工や流通過程にその配慮がないため、求める食べ物が身近で手に入らないことがある。表示もないのにどうやって判断するのかということもある。腹が減っていて、ぐだぐだと考えられない場合もある。しかし、食選択が社会につながることを自覚しながら暮らすことによって、少しでも持続可能な食と農の実現へと転轍させていこうではないか。これは万人が参加できる食からの社会改革である。(本コラムについて詳しくは、拙稿「食と農をつなぐ倫理を問い直す」桝潟ほか編『食と農の社会学』ミネルヴァ書房、2014年4月下旬刊行予定、を参照されたい。)

(あきつ・もとき 農学研究科准教授。専攻は農業・食料社会学、農学原論)

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