年間ルネベスト2013―京大生の読書傾向を徹底分析―(2014.03.16)

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京大生は普段どのような本を読んでいるのだろうか。ルネ・ブックショップの2013年の年間売上データを元に、京大生の読書傾向を探ってみる。100位以内にランクインした3冊の書評もあわせて読んでほしい。(編集部)

《本紙に2013年のルネ売上げ100位を掲載》

2013年 総評

案外、平凡……。

ルネ・ブックショップの年間売上ランキングは左の通りである(注:本紙に掲載)。対象期間は2013年1月から12月。

第1位は、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。前著『1Q84』から3年ぶりの長編小説となった本作はテレビ、新聞などで大きくとり上げられた。刊行直後に時計台で催された河合準雄財団主催のイベント「村上春樹公開インタビュー in 京都―魂を観る、魂を書く―」も売上増に一役買ったのかもしれない。このイベントの効果か、河合準雄『こころの最終講義』も81位につけた。

小説を眺めてみると、2012年のランキングでは一作も入っていなかった百田尚樹の著作が、『永遠の0』(第2位)を始めとする3作品のランクインという躍進ぶりを見せた。池井戸潤の『オレたちバブル入行組』(11位)がランキングに入ったのは高視聴率をとったテレビドラマ『半沢直樹』の影響だろう。

そして、森見登美彦、万城目学という京大出身作家二氏の小説は毎年ランクインしており、人気のほどがうかがえる。同じく京大出身の瀧羽麻子による小説『左京区七夕通東入ル』(46位)も2年連続で入っており、森見、万城目に続く定番化が目される。
他には、瀧本哲史、佐伯啓思、鎌田浩毅といった京大教員の本が人気であることがわかる。また伊藤邦武、藤田正勝、伊勢田哲治という哲学系教員による本もランクインした。

「古典」でいえば、西田幾多郎『善の研究』(88位)、和辻哲郎『風土』(82位)、ヴェーバー『職業としての学問』(94位)の他に、ハイデッガー『存在と時間 第1巻』(64位)がランクインしている。『存在と時間』は昨年4月に岩波文庫で新訳が出たのが目を引いたのかもしれない。全4巻の『存在と時間』であるが、2巻から4巻がランキング圏外であるところを見ると、購入者の多くは第1巻を読んだ(買った)だけで満足したようである。

皆さんはこのランキングを見てどんな感想を持っただろうか。ルネの売上げを見る限りでは、京大出身の作家や京大教員による本が売れるというほかは、「京大生ならでは」という興味深い特徴を挙げるのは難しい。世間で話題になって良く売れる本が、ルネでもまた良く売れるのである。(築)

書評

ベストセラーの戦争物語を読む

■2位 『永遠のゼロ 百田尚樹 講談社文庫/2009年

この本を読み終わった瞬間から、モヤモヤした感覚が頭の中から離れなかった。表題のとおり、私が読んだ本は百田尚樹著「永遠の0」。ご存じの読者もおられると思うが、国内で400万部以上を売り上げる大ベストセラーである。京大でもその勢いは強く、2013年のルネベストで同著は売上部数第3位に輝いた。同著は同名で映画化もされているが、動員数670万人を越えているとのことであり、また2013年度文部科学省選定映画にも選ばれている。しかし、少し立ち止まってよく考えてみると、ある本が「よく売れている」からといって、それが「良い」という保証はどこにもない。冒頭に述べたとおり、この本を読んだ後、私はモヤモヤした感覚にさいなまれた。それをここで、書評というかたちで、読者のみなさんと共有できたらと思う。

「永遠の0」のあらすじは次のとおりだ。26歳の司法浪人である主人公の宮部健太郎と姉の慶子が、主人公と同じ26歳のとき第二次世界大戦で特攻死した、母方の祖母の前夫、つまり実の祖父である宮部久蔵について知るために、久蔵とともに戦争を戦った老人のもとを訪ねる。老人たちは各々、自分の覚えている久蔵にかんするエピソードを話す。エピソードを聞くなかで分かりはじめたことは、(ゼロ戦を用いた)飛行戦で死ぬことが本望とされていた当時の海軍にあって、同僚から「臆病者」とさげずまれるほど、久蔵が死ぬのを忌避し、「生」に執着していたということだった(久蔵はゼロ戦の最高峰のパイロットだった)。死ぬことをあれほど忌避していた久蔵がどうして終戦間際に特攻に行き、死ぬことになったのか。この謎をめぐって、さらに健太郎と慶子は聞き取り調査を進める。その末にあきらかになったこととは……。

仄聞するところだが、この本を「反戦」の本として捉える傾向もあるらしい。しかしそれにはだいぶ心もとないと私は思う。作品の冒頭、反戦論(非戦論)を唱える慶子に対して、登場人物である元特攻隊員の長谷川は、世界の歴史を「戦争の歴史」だとしたうえで、「戦争をなくす方法を見つけたら、それを本にして各国の首脳に送ればいい」とする。そしてさらに「あの戦争(※アジア・太平洋戦争)が侵略だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない。戦場に出れば目の前の敵を討つ」と言う。そこでは、戦争が世界の必要悪として肯定されていると言っても過言ではない。そしてひとたび戦争になったときには、その目的に「関係な」く、兵士は「目の前の敵を討つ」ことが義務付けられるのである。ここには、自分が戦う(ことになる)戦争を、相対化して批判的に捉える姿勢は見られない。このような思考において、戦争という状況は無限の妥協によって許容されていくだろう。

このような点が指摘できるほか、作中において先の戦争は「真珠湾攻撃直前のアメリカのミスのせい」だとか、「愚鈍な上官のせい」だとか、「新聞社のせい」だとかいうように責任転嫁されるばかりである。登場人物の元特攻隊員は、戦争やそれがもたらした惨禍の責任を自らの手に引き受けようとしない。たしかに、アメリカの対日制裁や日本の軍部の暴走、新聞社の「追従報道」(それは非常に強い言論統制化のもとにおかれていたうえでのことだったが)が戦争を泥沼化させていったということは無くはないだろうし、それぞれで取るべき責任のかたちはある。しかし作中の登場人物のように戦争の責任を他者になすりつけ、それで事足れりとすることは、自己満足(自己免責)にしかならないのではないか。

こうした戦争への態度に加え、この本では全体的に見て、太平洋戦争にかんして以下のような世界観が強調されている。

・軍上層部の愚鈍さ、その手足として容赦なく死に追いやられた兵隊の健気さ、それにもかかわらずあった(時に敵味方を越えた)兵隊同士の友情的交流。
・アメリカ合衆国の海軍力の強さ、それに対してゼロ戦などを用い、華麗に戦った日本(海)軍の兵隊の強さ、賢さ、素晴らしさ。

このような戦争観に対しては、一般紙への元特攻隊員(海軍予科練習生)からの寄稿では「上官の暴力により海軍飛行隊の人々は心と思想を抜かれ、消耗品として扱われていた」とか「特攻隊員には太鼓をたたき、念仏を唱え周回するものもいた」というような指摘がされている。要は「永遠の0」が描いている世界はあまりにも美化されすぎており、実際の兵隊が経験した地獄のような世界とはかけ離れているということだろう。こうした元特攻隊員による指摘をもってこの著作を批判することもできるが、著者はそういう指摘(事実)がありうることはおそらく了解のうえで、この本を書いたに違いなかろう。なので、そちら方面の指摘(批判)については元特攻隊員とその周辺の人々にひとまず任せておいて、ここで私は私自身の立場からこの本に「あえて」描かれている世界をもう少し書評(批評)していきたいと思う。

ひとつに、この世界には東アジアの諸国・地域がほとんど描かれない。それがよくわかるのは、「特攻隊員は一種のテロリストだった」という登場人物のセリフをめぐるやりとりである。このセリフは、大手新聞社社員(おそらくA新聞社。ちなみにA新聞社は「永遠の0」映画版の作成に協力している)で慶子に求愛中の高山という人物が発した言葉だが、これに対して元特攻隊員の武田は以下のように反論する。「自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対象にしたものだ」「無辜の民の命を狙ったものだ」「我々が特攻で狙ったのは爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ」「米空母は我が国土を空襲し、一般市民を無差別に爆撃した」。だから「無防備の貿易センタービルに突っ込んだ奴らとは断じて同じではない」と。だが、日本軍は1937年、当時国民政府の首都があった重慶に対し、幾度にもわたって空からの無差別爆撃を行い、多くの「無辜の民」を殺害している。アメリカの日本本土への空襲に先駆けてのことだ。この爆撃は多くの日本人が知らないことだと思うが、少しでも東アジアの歴史に目を向ければわかることである。ちなみに久蔵は昭和12年(1937年)の支那事変に参加したという設定になっている。久蔵も少しばかりはこの重慶爆撃のことを知っていたのではないかと思われるが、そんなことは作中では一切触れられず、ただ本土爆撃によって日本人の「無辜の民」「一般市民」が殺害されたことが言われるのみである。なぜ対アメリカ戦だけに限定して書かれているのか、と問うたときに、「太平洋戦争」を扱った作品だから当然、と言われればそうなのかもしれないが、こうした対アメリカ的「被害者性」を主張するだけの戦争物語は、アジア諸国・地域の人々に対して行った戦争の「加害者性」を薄めることになりはしないか、と私は思う(このように二分すること自体どうかとも思うが)。

また、東アジアの諸国・地域だけでなく、この著作にはアジア全域への侵攻の象徴となったと言える天皇(が先の戦争に与えた影響)もあまり出てこない。昔を語る作中の登場人物は口をそろえたように「天皇が神だと学校教育では習ったがだれもそれが本当だと思っていなかった」「特攻隊員は国のため、愛する人のために死んだ」というようなことを言う。しかし戦前、天皇を中心とした国家として大日本帝国が作られ、教育の場でそれが教えられ、戦争での死者は英霊=神として靖国神社に祀られ、そこに天皇が参拝していたというのは紛れもない事実であり、天皇が神でありそれに奉仕することが至高の価値であることを信じたまま死を向かえた(非)戦闘員は計り知れない。でなければ、多くの戦争小説・映画・マンガに書かれているような、「天皇陛下万歳」と言って死んでいった人たちは、まったくの虚作か、愚か者であるというのか。そしてこのような「永遠の0」の天皇観は、天皇の戦争責任を免責する主張にもつながるということは言を待たない。

愛する人のために死ぬことと、国(日本ではそれに天皇も加わる)のために死ぬことがなんのためらいも無く繋がっていることもまた怪しい。日本では国を国「家」と記すことが多いが、天皇を(父長であると同時にすべてを包み込む母)頂点とした国という「家族」と個々人のつくる「家族」とを安易に重ねあわせることで、近代日本社会の支配者は国民を動員しやすくしようと努力した。そして、戦死者をその家族を含めて顕彰することで、男である兵隊は銃後の愛する女たちに見守られて、安らかに国のために死ねる、というのが、近代国家が用意した巧妙なカラクリだった。そしてその構造は現代日本においても本質的には変わっていないように思う。いわゆる「企業戦士」というやつである。作中で武田は「戦後の民主主義と繁栄」の中で日本人が「変わって」しまい「道徳」が無くなったと言っているが、男が何か(お金・家族など)のために進んで身を投げ出し、女はその背後でそれを支える、という点において、戦時中と戦後日本の高度経済成長の間で考え方に大差はないのではないか。ただ何よりもまず、ここで言う「道徳」が何を指しているのか、いまいち分からないのだが。

同作は、フィクション小説という形式を取りながら、さらにその中に「エピソード集」を混ぜる体裁をとっている。なので、どこまでが著者の考えであるのかは分からない。ただ全体的にこの本を評するとすれば、先のアジア・太平洋戦争を一側面からかなり穿って捉えただけの非常に不満が残る作品であるといえる。こうした戦争物語が日本で市民権を持つことに対して私は非常に不安が残る。それが私のモヤモヤの正体なのだと思う。(穣)

〈すれ違う〉ことで見えるもの

■68位 『科学を語るとはどういうことか』 須藤靖×伊勢田哲治 河出ブックス/2013年

――科学哲学は、鳥類学が鳥の役に立っている程度にしか科学者の役に立っていない。

物理学者のリチャード・ファインマンは科学哲学と科学者の関係を喩えて、このように語ったという。科学哲学という学問領域は、どうも科学者から十分にその価値が理解されないきらいがあるようだ。科学者と科学哲学の間に横たわるこの奇妙な「断絶」。この「断絶」はいったい何なのだろうか。なぜその「断絶」を埋めることができないのだろうか。本書はこの因縁の「断絶」をめぐって、物理学者と科学哲学者がガチンコで対話をするという、稀代の対談本に仕上がっている。

ことは、物理学者の須藤氏による科学哲学への攻撃的な発言を、哲学者である伊勢田氏がネット上で知った事にはじまる。「これはぜんぜん科学哲学と関係ない話だな」「ここは実際の科学哲学とも関わるかもしれない」。そう感じた伊勢田氏のもちかけによって、対談が実現したという。したがって対談と言っても、もっぱら須藤氏の歯に衣着せぬ問いかけに、伊勢田氏が科学哲学を擁護する立場から答えるという格好で進行する。テーマは科学哲学の方法論といった初歩的な話から、実在論や因果論といったテクニカルな話まで様々だ。

この対談は「予定調和的めでたしめでたし」では終わらない。結局、両者は一歩も譲らないまま、徹底的に「すれ違った」まま最後を迎えてしまう。ただ、対談を通じて両者が「すれ違い」続ける事によって、「学問とはこうあるべき」というような学問観の違いが徐々に浮かび上がって来るのは面白い。「哲学に志向性が感じられない」「目的が階層的に整理されていない」という須藤氏の意見。「科学哲学者は科学者によく思われたいと思って科学哲学をやってはいない」「知的好奇心に従って自分のやりたい研究をやっている」と話す伊勢田氏。なるほど、両者はすれ違うべくしてすれ違っているのである。頑として両者譲らないこの価値観の「すれ違い」こそが、この対談の魅力にもなっている。

かつて、C・P・スノーは人文科学と自然科学のディスコミュニケーションについて警鐘を鳴らした。それから50年余がたった現在、学問領域はますます細分化され、しかし一方で「学際」「文理融合」といった言葉がもて囃されるようになった。だが「学際」「文理融合」とは何なのだろうか、それは安易に自然科学/人文科学の知見を取り入れることなのだろうか、それはスノーの言う意味でのコミュニケーションなのだろうか。本書の対談を読むにつけ「2つの文化」の「断絶」はそう簡単に埋まるようなものではないのだとつくづく思わされる。学問領域に固有の価値観に基づいて議論をしている限り、当然すれ違いは生じるのだ。肝心なのは、こうした相手の価値観を理解した上で、いかにすれ違うか、いかに批判をするのかという事である。伊勢田氏があとがきに記すように、これは「気の長い対話」である。だが、それこそが、スノーの言うコミュニケーションなのではないかとも思うのだ。(羊)

誰を超え、どこへ向かうか

■96位 『物語 哲学の歴史 自分と世界を考えるために』 伊藤邦武 中公新書/2012年

哲学史を一つの物語としてとらえる営み。本書が目指すところはそのように概略できる。著者は京大文学研究科の教授で、本書では一般読者に哲学史を理解してもらうだけでなく、専門的に哲学を学ぶ者の意欲を満たすことも目指している。つまり、哲学史をできるかぎりわかりやすくしかし質を落とさずに説明することを心がけているわけで、それ自体非常に難しい試みだ。

本書では、哲学の誕生から現代に至るまでの哲学史を古代・中世、近代、20世紀、21世紀へ向けてのスパンに分け、それぞれを魂の哲学、意識の哲学、言語の哲学、生命の哲学と名付けて、一連の物語として論じる。この通史では、西洋哲学が対象となり、「心」つまり「人間の精神」の存在論という分野に焦点をあてて記述されている。物語の大筋を描けばおおよそ次のようになる。人間の精神活動の探求が始まり、精神の持つ機能が様々な方法で分類され、その能力がそれぞれ評価されていく。時代が進むにつれて、理性の能力が重要視されていくが、近代哲学で非理性的といわれる感性や意志などの能力が再評価され、生き生きとした人間精神の発現が目指される。

さて、哲学で現在何が問題とされているかを理解するのは非常に難しい。用語の難しさはさることながらなぜそのような議論がなされているのか、その議論はどういった意義があるのかはっきりしない。本書ではそのような困難を克服する示唆を与えてくれるに違いない。日本思想史の大家である丸山真男が『「文明論之概略」を読む』(1986年、岩波新書)で「思想史というのはすべて、従来の思想を読み替え、読み替えしてゆく歴史」であると述べているが、哲学史もそのような歴史だと思われる。読み替えの対象となるのは、主にプラトン、アリストテレス、デカルト、そしてカントである。これは本書の傾向にとどまらず、他の哲学書にも似たような見解が見受けられる。この点を考慮すれば、哲学史とは彼らの思想を中心として創り上げられる歴史であるといえるかもしれない。

本書は彼らの影響力の大きさを多くの箇所で指摘する。イデア論を初めとして理性の能力を徹底したプラトンと感性に即した経験を認識の根拠としたアリストテレスとの対立する思想は、合理論と経験論の相克など、その後繰り返される思想上の対立の原型をなすものである。さらにデカルトは認識の確実な根拠を「コギト・エルゴ・スム」に求め、近代哲学の基礎を打ち立てたが、その後の哲学者は、例えば心身問題といった、彼の思想が残した問題を解決するために尽力したと考えられる。そして、言語の哲学の時代は、デカルトやカントが残した独我論の克服を目指して始まったとの見方がなされる。続く生命の時代には、カント哲学の課題である物自体と現象に関する矛盾を乗り越えるために思想が構想されたといえる。

哲学の営為を少数の哲学の巨人が織りなすようにとらえていくことは一種の単純化にも受け取られかねない。しかし、それは現在問題とされている事柄がどの哲学者が残した課題への回答であるのか理解するには有効である。そして、彼らの思想を理解することで難解かつ無機質に思われがちな哲学の流れがダイナミックにとらえられるはずだ。本書は、哲学史を理解する手がかりとして誰のどのような思想にどのようにアプローチしていけばよいかを教えてくれる。人間の知の営みの歴史を理解する視座を求めて本書を手に取ってみてはいかがだろうか。(千)

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