企画

〈特集〉高畑勲とその時代 ~『かぐや姫』を噛みしめるために~

2013.12.01

先月23日に高畑勲の新作『かぐや姫の物語』が公開された。7月に公開された宮崎駿の『風立ちぬ』と合わせ、宮崎・高畑というスタジオジブリの二大巨頭が揃い踏みすることになった2013年という年は、アニメ史の中でも特別な1年として後世に記憶されるかもしれない。この偉大なる歴史的瞬間に立ち会わない手はない。『かぐや姫』はいうに及ばず、未だにロングラン中の『風立ちぬ』も、合わせて必見である。

連載第2回目となる今回は、高畑勲と宮崎駿が共にアニメを制作していた最後の時代である1970年代後半から1980年代前半までの「高畑アニメ」を取り上げ、合わせて『かぐや姫の物語』の作品評を行う。(編集部)

連載第一回を見る 連載第三回を見る

作品評 『かぐや姫の物語』

Ⅰ 女性映画としての『かぐや姫』

先月の23日から劇場公開が始まったスタジオジブリの新作『かぐや姫の物語』だが、スタジオジブリは今年夏にも新作を公開しており、これを観た人は多いだろう。そう、宮崎駿の『風立ちぬ』である。

空への憧れという「呪われた夢」を追い求め、ついにはゼロ戦開発を成功させた男、堀越二郎の人生が綴られるこの映画に対しては、しかし女性キャラクターの描き方、具体的にはヒロイン、菜穂子の描写への批判が散見される。二郎に短い人生の全てを捧げ、最後は結核で死んでいく菜穂子の造形について、社会学者の宮台真司は「男性視点から見た、セカイ系(※)的、妄想的女性像」、「キャラクターとしてあまりに薄い」、「全く魅力がない」と非難し、評論家の宇野常寛に至っては、二郎―菜穂子の関係性を根拠に、宮崎駿の本質にあるのは「近代日本のロマン主義の中核をなしている歪んだマッチョイズム(男根主義)」であるとまで言い切っている。菜穂子の描写に関連する部分だけを理由に『風立ちぬ』という作品自体を否定してかかる彼らの言説が適切であるかはわからないが、『風立ちぬ』に少なからず「男性の映画」という側面があることも否定できない。

前置きが長くなったが『かぐや姫』の話を始めよう。『風立ちぬ』が一種の「男性映画」であるとするならば、『かぐや姫の物語』は明らかに女性映画だといっていい。

かぐや姫の地球での生涯は、自分を所有しようと企む男たちや、女性を人間扱いしない貴族社会との絶えざる闘争の連続であった。本作に登場する男性キャラクターは、幼馴染の捨丸を除く全員が醜悪で愚鈍な女性差別者として描かれる。まるで珍しい品物でも取り合うかのようにかぐや姫を巡って争う貴公子たち、御簾の中の彼女に心無い言葉を吐きかける男、そして驕りの塊である最高権力者、御門。育ての親である竹取の翁ですら、都への移住以降はこれら「愚かな男たち」の仲間入りをしてしまう。かぐや姫に望まぬ結婚や宮中への出仕などを強制し続けた翁は、結果的に彼女を最も苦しめた男の一人だろう。

女童や育ての母である媼など、作中におけるかぐや姫の数少ない理解者が全員女性である点も注目に値する。性差別的な抑圧によって人間性を破壊されていく女の苦悩や絶望を本当の意味で汲み取れるのは同じ被抑圧者である女性だけなのだ、という内容は溝口健二の『西鶴一代女』の時代から存在する主張ではあるが、『かぐや姫』でもこの伝統的な技法によって、男の醜さ、愚かさがいっそう際立つようになっている。

極めつけは最後にかぐや姫を迎えにくる月の世界の人間たちの描写だ。雲に乗ってやってくる月世界の住人には、観音様のような姿をした「月の王」からその家来に至るまで、男性らしき姿の者が誰一人として含まれていない(観音菩薩を女性であると断言してよいかは微妙なところだが、少なくとも一般の認識における「観音様」は女性であろう)。穢れも悲しみもなく、心静かに過ごすことのできる月の世界には当然男などいません、ということなのだろう。

こうして考えていくと、本作はもはや女性映画を通り越し、「男性敵視映画」であるようにさえ思えてくるが、これらの徹底した描写の数々によって、かぐや姫の「私は誰の物にもならない」という強靭な婚姻拒絶の意志はいよいよ輝きを増してみえてくる。作中で強調される男の醜さ、愚かさはかぐや姫の気高さを際立たせるための「ダシ」に使われていた面も、多少あるのかもしれない。

いずれにせよ本作は男性の欲望を醜く、女性が持つ自由への意思を美しく描いた女性映画なのだ、という解釈は充分に成立し得る。思えばかぐや姫が地球での生を否定し、月世界への帰還をとっさに望んでしまったのも、御門に抱きすくめられた瞬間であった。彼女にとり、我が身を男性の欲望に曝されるのは、地球まるごと呪うに足るほどの不快感なのだ。

社会的な性(Gender)としての「女」の鋳型に収まることを生涯拒み続けたかぐや姫は、女性映画の主役にふさわしい極めて現代的な女性である。今井正の『青い山脈』や黒澤明の『我が青春に悔なし』といった戦後民主主義映画に登場する啓蒙的女性像にも通じるこのリベラルなお姫様は、筋金入りの革新主義者である高畑勲の、まぎれもなく「愛娘」だといっていいだろう。

※セカイ系……評論家、東浩紀の定義によれば、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」、「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」である。新海誠監督によるアニメ作品『ほしのこえ』、高橋しんによるマンガ『最終兵器彼女』などが代表例として挙げられる。

Ⅱ 「共感」を拒絶する彼女

かぐや姫は清浄な光あふれる月の王の娘である。一切の穢れのない月の世界で永遠に生き続ける彼女は、かつて地球を訪れたことがあるという女(羽衣伝説の一人)から地球の話を聞かされ、強い感銘を受ける。色のない月世界と違い、地球には草、木、花、青い空、流れる水などの彩りが満ちている。そこに住む人々の命は短く、しかもその限りある「生」の時間内ですら喜怒哀楽の感情に翻弄され、決して心穏やかではいられない。

その話を聞き、地球にどうしても行ってみたくなるかぐや姫だが、月の王は許さない。そればかりか、王は地球に憧れるかぐや姫の想いを「罪」であると断じ、その「罰」として彼女を地球に落とすというが、それは彼女にとって願ってもないことだった。かぐや姫は地球にだけあるという「生」の感触を思うさま味わうために地球にやってきたのだった……

高畑勲が書き下ろした『かぐや姫の物語』の企画案によれば、本作のキャッチコピーである「姫の犯した罪と罰」の具体的内容と経緯は概ね以上のようなものだ。本作の後半でかぐや姫自身も言っているように、彼女はこの地球に「生きるために生まれてきた」のである。

永遠を生きることができるかぐや姫が、なぜ地球での限りある「生」に憧れたのか。この「なぜ」にこそ、本作の魅力は隠されている。「不老不死の人ならざるヒロインが、人間の『生』の有限であるがゆえの美しさに心打たれ、ついには永遠の命を投げ打って人間として生きる」という物語自体は、高畑勲の初監督作品である『太陽の王子ホルスの大冒険』や、戦後初の本格的アニメーション映画としてアニメ史にその名を残す傑作『白蛇伝』(ただしこれは高畑作品ではない)にも共通して見られるものであり、その限りでは『かぐや姫』の構造も『ホルス』や『白蛇伝』のそれを反復しただけと言えなくはない。だが、『ホルス』や『白蛇伝』を参照するだけでは、かぐや姫が有限の「生」を賛美する動機が見つからないのだ。

例えば『ホルス』のヒロインである「悪魔の妹」ヒルダ。彼女はホルスたち人間が織りなす美しい村の共同性と人々の温かさに心を動かされた結果、永遠の命を捨てて人間に戻り、ホルスらと有限の「生」を生きることを選ぶ。同じく『白蛇伝』のヒロインである妖精、白娘は、恋する男、許仙を救うために自らの不老不死の能力を捨て、人間として彼と結ばれる。

しかし、かぐや姫はヒルダのように人間の共同体の素晴らしさを体験したわけでもないし、白娘のように一人の男を真剣に愛したこともない(彼女の捨丸への感情を「恋」だと強弁するのはさすがに無理がある)。かぐや姫は人間の作る共同体や人間への恋よりも、鳥、虫、けもの、草、木、花など、地上の生きとし生けるものたちの、あるがままの姿を愛した。「○○だから~」、「××であるならば~」といった理由づけや留保を抜きに世界そのものを「美しい」と全肯定してみせるかぐや姫の態度は、歴代の「高畑ヒロイン」や「ジブリヒロイン」の中でも非常に特殊であり、また難解ですらある。高畑勲は先述の企画書の中で、本作の狙いについて「かぐや姫に感情移入できるアニメーション映画をつくりたい」と書いているが、率直に言って本作で高畑のこの「狙い」が達成されたとは到底思えない。

考えてみてほしい。普段、我々は道端に生える雑草を見て「美しい」と興奮するだろうか。足元を蠢く虫の一匹一匹を愛でることができるだろうか。かぐや姫のこのような「世界」との向き合い方は、死期の迫った老人のそれに近く、今現在死にかけているわけでもない多くの観客にとっては全く共感不能なものだというのが私の考えである。
だが、かぐや姫が我々観客の共感を拒むキャラクターであるからといって、彼女の魅力はいささかも損なわれない。むしろ逆で、彼女はその共感不能性ゆえに魅力的なのだ。

月の王に導かれ、地球の記憶を失う寸前、かぐや姫は月の住人らに決然として言い放つ。「喜びも悲しみも、この地に生きる者はみんな彩りに満ちて……鳥、虫、けもの、草、木、花、人の情けを……」。「喜び」や「人の情け」はともかく、「草」や「虫」さらには「悲しみ」までをも慈しむというかぐや姫の激烈な愛情は、常人には到底達することのできない境地にまで及んでおり、もはや我々観客の「共感」ごときが追いつくような代物ではない。

かぐや姫は、スクリーンの前の観客に「理解してもらう」気など毛頭なく、そればかりか我々に安易な形で「共感」されることを全力で拒絶しているようにさえ見える。もしも我々があのラストシーンに感動できるならば、それはかぐや姫への共感などではなく、圧倒的な高位にまでその感情を到達させた彼女のおぞましいまでの迫力に、成すすべもなく打ちのめされることによってのみ可能になるだろう。

Ⅲ おわりに~彼女の「疾走」を目撃せよ~

最後に少しだけ個人的な話をしよう。

私がこの記事を書き、そして高畑勲の特集を組んだのは、7月に観た『かぐや姫の物語』予告編がきっかけである。『風立ちぬ』上映直前に流れた約70秒間のその映像は、まさに衝撃的の一言であった。屋敷の廊下を、路上を、山中を、泥まみれになりながら死にもの狂いで疾走する一人の女性の姿に、私はただ唖然とさせられた。彼女に何があったのか。なぜ走っているのか。そもそも彼女は本当にかぐや姫なのか。何もわからない意味不明な映像でありながら、あの70秒は私の脳裏に焼きつき、いつまでも離れなかった。あれほど印象に残った予告編はなかった。

あれから4か月、待ちわびた『かぐや姫』本編を観た私の胸に残ったものは、結局のところ、予告編に度肝をぬかれたあの日抱いた想いと大差ないのかもしれない。すなわち、「共感などできない。だが凄い」である。

「高貴の姫君」たることを拒み、男性を拒み、観客の共感までをも拒絶して、一人己の「生」を疾走する孤高のヒロインを、私はただ固唾をのんで見守ることしかできなかった。それが正直な感想だ。

かぐや姫は我々を振り向いてはくれない。だが鑑賞料を支払った我々には、銀幕を通して僅かに彼女を「目撃」する資格はある。まだ観ていない人は今すぐ観るべきだ。(47)

『かぐや姫の物語』(2013年)
原案・脚本/高畑勲
脚本/坂口理子
音楽/久石穣
人物造形・作画設計/田辺修
美術/男鹿和雄
作画監督/小西賢一
制作/スタジオジブリ


高畑勲の歩み② 1975~1981年

新しい主人公像を求めて~『母をたずねて三千里』~

視聴率25%超を記録した大ヒット作、『アルプスの少女ハイジ』を作り上げたズイヨー映像の制作陣は、『ハイジ』終了直後に多くが新設の日本アニメーション株式会社に移籍し、当時ズイヨー映像で制作途中であった『フランダースの犬』を引き継いだ。この『フランダースの犬』は、20年以上続いた「世界名作劇場」アニメシリーズの第一作であり、高畑も第15話の絵コンテ担当としてこの作品に参加しているが、彼は後年自著で『フランダースの犬』に触れ、自分は本作の主人公、ネロが「嫌い」だったと告白している。高畑は『ハイジ』を通しての反省として主人公のハイジを理想的な「良い子」に描きすぎたことを挙げており、その意味でハイジと同じ「欠点」を持つネロの主人公像は当時の高畑にとって大いに不満が残るものだったようだ。

さて、1975年の末に『フランダースの犬』が最終回を迎えると、高畑は続く「世界名作劇場」第二作『母をたずねて三千里』の監督として再び一年間のテレビシリーズという長丁場に挑戦することとなる。『三千里』はイタリアの作家、エドモンド・デ・アミーチスによる小説を原作としていたため、高畑はここでも『ハイジ』制作時と同じく現地へのロケハンを敢行していた。

およそ三週間のイタリア滞在を経て、現地の街並みや遺跡、美術や文献に触れた『三千里』メインスタッフ(高畑勲、宮崎駿、深沢一夫、椋尾篁)の費やした支出の総額は約4000ドル(当時の1ドルは約300円である)にのぼったが、高畑は当時「この旅行が、作品の出来に及ぼす力は絶大」、「このような旅行がなかったら現在の(自然主義的傾向をもった)世界名作児童文学のアニメーション化は不可能に近い」と発言している。

ロケハンで得た多くの資料を生かし、『三千里』は『ハイジ』にひけをとらないリアルなビジュアルを獲得する。しかし、『三千里』の真骨頂は『ハイジ』で達成できなかった主人公の造形におけるリアリズムの「リベンジ」的達成にこそあるといっていいだろう。高畑は自作『三千里』を振り返り、「私たちはここでおそらくはじめて主人公たる資格に欠けた“人物”と“社会”を主人公に据えたアニメーションを作り上げた」と語るなど、新たな主人公像を作り上げたことへの満足を隠そうとしていない。

高畑曰く「可愛げに欠けて」いた主人公マルコの人物造形は、初監督作品である『ホルス』のヒロイン、ヒルダ以来となる久しぶりの「嫌らしさをもったメインキャラクター」であり、その視聴者に媚びないキャラクター像はくしくも次の『赤毛のアン』に引き継がれることとなる。

高畑・宮崎のコンビの決別~『赤毛のアン』から『じゃりン子チエ』へ~

『ホルス』制作時から常に高畑をサポートし続け、関った作品全てにおいて獅子奮迅の活躍を見せていた宮崎駿であるが、1978年の『未来少年コナン』で彼はついに監督デビューを果たす。驚異的な肉体を持つ野生児コナンが謎の少女ラナを守って大活躍するこのテレビアニメシリーズは、後の『ルパン三世カリオストロの城』、『天空の城ラピュタ』などにも連なる宮崎駿の冒険活劇路線の原点であり、その垢ぬけた派手な作風は、静かな日常芝居を中心とした作劇を志向する高畑勲の路線とは大きく異なるものであった。

目指す表現の方向性がすでにバラバラになり始めていた二人だが、それでも高畑は初監督で苦しむ宮崎を助けて『コナン』の絵コンテを手伝い、宮崎はその恩に報いて高畑の次なる監督作品『赤毛のアン』の場面設定を担当することになる。

『赤毛のアン』はカナダの作家、モンゴメリによる同名原作のアニメ化作品であるが、ここでも主人公、アン・シャーリーの扱いをめぐって高畑と宮崎はすれ違う。

まず原作版『赤毛のアン』で描かれるアンの心情については当初、高畑、宮崎共にわからない、共感できないという感想を持ったらしい。そこで高畑はアンを「わからないまま」描こうと決める。必ずしも主人公と自己の心情を同一化しなくとも、登場人物に一定の距離を持ち、原作通りに作品を作るという道もありだと考えたのだ。しかし、それは宮崎にとって承服しかねるやり方だった。高畑曰く宮崎は「(登場人物への)思い入れをやらないと駄目」、「人物にのめり込まないと作れない」クリエイターであり、作中の人間に距離を取る作品作りなど、彼の信条が許さなかったのだ。

結局宮崎は15話まで場面構成を担当した後、「アンは嫌いだ」と言い残して『ルパン三世カリオストロの城』のために降板する。結局これが実制作の現場で高畑と宮崎が組んだ最後となった。

宮崎が去った後も残された高畑は客観的描写に徹して『赤毛のアン』を描き切り、高い評価を受ける。中盤以降の『アン』は、宮崎駿という強烈な個性を失ったことでかえって「高畑純度」の高い仕上がりになっているかもしれない。

冒険活劇志向の宮崎と決別した高畑は、次の『じゃりン子チエ』で大阪市西成区に暮らす人々の日常を描くことになる。本作でも相変わらず高畑のリアリズム志向は健在で、キャスティングの際、高畑はプロの声優を使わず、ナチュナルな大阪弁を喋ることのできる関西の俳優や吉本の芸人などを起用するという試みを行った。はるき悦巳による漫画版原作では、決闘シーンでドラ猫(小鉄、アントニオJr.など)が通常では考えられないほどの大きさになるなど、それまで高畑が手掛けた『ハイジ』、『三千里』、『アン』といったテレビシリーズとは毛並みの違いもあったが、高畑は「そのほうが心理的にリアリティがある」という理由で原作通りに小鉄らを大きく描いてみせた。「リアリティ」という言葉を杓子定規に振りかざすことない高畑の柔軟な演出によって、『チエ』は時に誇張を挟みながらも全体として驚くほどの生活感をアニメで描写することに成功している。本作は、高畑勲が監督を務めた最後のテレビシリーズとなった。(47)

作品紹介②

母をたずねて三千里

19世紀後半のイタリア・ジェノバに暮らすロッシ一家。主人公・マルコの母であるアンナは夫のピエトロが営む診療所の経営を助けるため、アルゼンチンへ出稼ぎに行く。それから1年が経過し、父と共に健気に暮らすマルコだったが、楽しみにしていた母からの手紙が届かなくなる。心配になったマルコは母の元へ行くことを望むが、学校での勉強を続けて医者になってほしいピエトロは反対する。ある日、快速船・フォルゴーレ号の乗組員と知り合ったマルコは、その船がリオディジャネイロに行くことを知る。最終的に父を説得したマルコは、フォルゴーレ号に乗り込みアルゼンチンへの旅を開始した――。

『母をたずねて三千里』は、『フランダースの犬』に続く世界名作劇場の一つとして1976年1月から12月にかけて放送された。高畑勲監督のもと、キャラクターデザインを小田部羊一が、場面設定を宮崎駿が担当している。22日間にわたるロケハンにより描かれたイタリア・アルゼンチンの風俗や宮崎駿の卓越した画面構成でも評価が高い。

一方、その高い知名度の割には全52話を通して観たという人の数はそれほど多くないのではないだろうか。名作と言われているし、めでたくマルコが母との再会を果たすというハッピーエンドを迎えるのだろうと想像がつく。それで何となくわかったつもりになって観ない人もいるかもしれない。しかしそれでは余りにも勿体ない。本作品の良さは母に辿り着くまでの過程にある。酒場に居合わせた人々がみんなで歌を歌いながらマルコに汽車の切符を買わせるべく次々とお金を渡す場面など、旅の途中で出会う人々との間で紡がれる印象深いエピソードの数々は観る者をあたたかい感動に包んでくれる。一方で私たちはマルコが抱える不安を共有し、母の状態がわからないマルコに付き添って絶望を振り払いながら歩みを進めていかざるを得ない。母さんはアルゼンチンで元気に働いているのだろうか。それとも体調を崩しているのか。それとも、もう既に……。高畑によると悪夢が続くことに耐えられず途中で視聴するのをやめてしまった人も多かったという。

本作で高畑が目指しているものは「主人公の資格がない」少年としてマルコを描くことだ。「可愛げのある」主人公である『フランダースの犬』のネロ少年を高畑は嫌う。そして自身の『アルプスの少女ハイジ』でもハイジを良い子として描いたことを反省点として挙げている。リアリズムを追及する高畑にとって、いつも元気で明るい「良い主人公」というのは乗り越えなければならないものなのだ。母に会えないかもしれないという不安に押しつぶされそうになって親切に接してくれる人を邪険に扱うマルコ。子ども扱いされるとムキになり怒ってしまうマルコ。高畑はマルコを人間くさいものとして映しだすことに成功している。

『三千里』以降、『太陽の王子ホルス』からタッグを組み続けてきた高畑・宮崎の二人はそれぞれの道を歩みだす。映像評論家の叶精二が語るように「地味な日常描写に傾く」高畑と「冒険活劇路線に惹かれる」宮崎の方向性の違いが顕著になってくる時期に製作された『母をたずねて三千里』は、二人の分岐点ともいえる作品なのだ。(築)

赤毛のアン

カナダ・プリンスエドワード島、アヴォンリーのグリーンゲイブルズ(緑の切妻屋根)に住むマシュウとマリラの老兄妹は孤児院から男の子を引き取ろうと考える。しかし手違いでやって来たのは、痩せっぽちでお喋りな赤毛の女の子、アン・シャーリーだった。 『赤毛のアン』と言えば、誰もが知る世界中の少女達のバイブルである。そのモンゴメリの原作を『世界名作劇場』の枠でアニメ化したのが本作だ。

アンは、持ち前の明るさと大人びたお喋りでマシュウとマリラの心を動かし、グリーンゲイブルズに引き取られることとなる。そして自然の中で情操を育み、あらゆるものに対してロマンチックな想像を膨らませ、ドラマを見出し、しばしば自らの想像に熱中しすぎて失敗もする。少々激情家のトラブルメーカーではあるものの利発で素直な彼女は、様々な人々に愛されながら大人の女性になってゆく。本作はそんな5年間の成長物語である。

そもそもアニメが非現実・ファンタジーの「実現」を得意とする表現手段であるのに対し、『赤毛のアン』という物語の要は、アンが非日常を夢想しながら過ごす日常、現実だ。決してアニメとの親和性が高い原作ではなかったと考えられるが、このジレンマは乗り越えられたのか。

女児向けアニメの主人公としては珍しく、アンは「普通の女の子」を自称することは無い。日本のアニメにおいて、得てして「普通の女の子」達は実のところ華やかで可愛らしく、けっして普通でない特別なキラキラした秘密を持っている。視聴者である「文字通り普通の」「特別でない」――しかしそうありたくは無い――女の子達はそれをテレビの前から覗き見しつつ、彼女らに憧れ、同じ舞台に立つことを夢見るのである。一方でアンは、容姿にコンプレックスを持ち、煌びやかな流行の服を着ることもなく、周りの子供達とは少し違う価値観を持つ。つまり、むしろ強調されるのは幼い女の子達が羨ましがる物を何も持たない姿だ。そして代わりに彼女は自らの想像力によって「持たない」ことを前向きに捉え、時には頭の中で補完してゆく。袖の膨らんだ服、妖精の鏡、柔らかいソファ、近所のお気に入りの場所につけるオリジナルの名前……。ファンタジーを可視化して表現し得るアニメに於いて、そばかすの女の子が芝居掛かった口調で夢物語を語る姿を忠実に描くと、少なからず滑稽さが際立つことは否めない。(文学作品となると微笑ましいものだが。)しかしその姿は、アニメの世界に胸をときめかせ、ごっこ遊びに夢中になる幼い女の子のそれと限りなく近い。

また、アニメ版『赤毛のアン』は、展開のみならず細部のセリフ等に至るまで原作をなぞっており、脚色は少ない。第三者視点から描写された日常芝居が、遠景と近景を効果的に使い分けた美しいアヴォンリーの自然や異国情緒溢れるカントリー調の家々の中で淡々と続くのは、あたかも実写作品のようである。しかし、派手でドラマチックな所謂アニメ的演出が用いられるシーンが一つある。アンの空想だ。単調とも言える日常芝居に、彼女の心象が異質な映像として挟まれることで一気に物語は色づき、ひいては空想から現実への揺り戻しが際立つようになる。

さらに、アンが作中で大人になってしまうことがこの物語の大きな特徴の一つだ。最終的に彼女は分別を得て空想を語らなくなるし、現実においては勉学面で才能を発揮する。かつて夢見たロマンスを経験することはないが、容姿のコンプレックスとは折り合いをつける。女の子としての挫折を経験した彼女にとって、過去の自分は懐かしくも恥ずかしい思い出であろう。この年齢になって視聴した私としても、同じく夢に浸った少女時代を客観視しているようで、気恥ずかしさは拭えなかった。いや、当時アンと同世代であった幼い視聴者にとっても同様だったのではないだろうか。

だが、この作品を単なる共感、はたまた同族嫌悪、もしくは「あの頃は幼かったから」の一言で切り捨てることはできない。私達は丁寧に描かれる日常とその中で花開く自我を、『アン』を通じて改めて俯瞰することで、照れ臭さを感じるとともに日常が湛える目に見えない要素を再発見する。そして、マシュウやマリラの深い愛、ダイアナとの打算の無い友情、そういったものに満たされる日々においてこそ空想の世界は鮮やかだった、と気づくのである。そして、マシュウが成長したアンに「1ダースの男の子より」「わしの自慢の女の子」と語ったように、「特別」でありたかった自分は、平凡な日常の中でこそ誰かにとって特別な女の子なのだと肯定される。『アン』はまさに「特別でない」女の子の人生賛歌だ。 (易)

じゃりン子チエ(劇場版)

大阪市西成区に暮らす元気な小学5年生竹本チエは、博打に明け暮れ、ろくに働かない父のテツに代わってホルモン屋を切り盛りしている。父は無職、母のヨシ江は別居中と、家庭崩壊気味の竹本家であるが、チエは個性豊かな近所の仲間に囲まれて毎日を楽しく過ごしている……。

はるき悦巳による同名の原作漫画をアニメ化した本作は、小鉄、アントニオJr.、花井親子の登場、ヨシ江の帰宅など、『じゃりン子チエ』の世界を二時間に詰め込んだイントロダクション的な作品で、後に制作されたテレビアニメ版を見ると、第1話~第10話付近の大部分がこの『劇場版チエ』の流用であることがわかる。

ナチュラルな大阪弁の演技を求めた高畑監督の意向で、キャストにはプロの声優ではなく関西で活躍する俳優や芸能人らが多く起用されており、西川きよしや横山やすし、島田紳助などの吉本芸人も多数出演している。彼らの秀逸な演技も相まって、本作では大阪の市井の人々の暮らしが力強くリアルに描かれる。優しく思いやりに満ち、時におせっかいなこともあるチエの隣人たちは、しかしそのやかましさでチエの生活を支え、怠け者の小鉄を見守り、ついにはヨシ江を家に戻して竹本家の家庭を復活させてしまうのである。

理想的な共同体を軸に据え、生きる喜びを高らかに描くという、『ホルス』以来の高畑の手法はここでも存分に発揮されているが、『じゃりン子チエ』が『ホルス』や『ハイジ』と異なり、日本を舞台に据えた作品である点は注目されてよいだろう。高畑は本作で初めて理想的な「日本の」共同体を描いたのだ。

1970年代後半の大阪の風景を知るうえでも有用な本作。テレビ版と合わせて是非一度観てみてはどうだろうか。(47)