11月祭講演会連動企画 円城塔を読む①(2013.10.16)

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京都大学新聞社は今年度の11月祭で作家の円城塔氏をお招きし、「アンドロイドは二つの文化の夢を見るか」と題する講演をしていただく予定だ。本紙では講演に先がけ、記者の視点から円城氏の作品を3回に渡り紹介する。
連載の第1回では、第146回芥川賞に輝いた「道化師の蝶」(講談社)を取り上げる。不思議な魅力に満ちた円城氏の小説世界を知ってもらう足がかりとなれば幸いである。(編集部)

①“旅”の間にしか読めない小説―「道化師の蝶」



「さて、そういうわけあいのものだとして、次に不機嫌な読者が陽の光あたる快い小説に直面したとき、いったい心はいかように働くのか、その問題を考えてみなければならない。まずは不機嫌な気分が霧消する、よかれあしかれ、読者は遊びの精神の世界に入るのである。(中略)芸術の達人は彼の作品を創造するのに想像力を使ったのであるから、本の消費者も自分の想像力を使うというのが、当然であり、公平でもあるだろう。」(野島秀勝訳)

さてこそ以上、ディティール(細部)に対する強烈な意識において同時代人の追随を許さなかった多言語作家ウラジーミル・ナボコフが、「良き読者と良き作家」と題するエッセイに記した一節である。

ナボコフにとって良き読者とは謂わば戯れる人、「遊び」の味を知っている人にほかならなかった。彼は感情移入に走る「自称読者」をたしなめ、「遊びの精神の世界(”the spirit of the game”)」への耽溺を推奨する。これは翻って、誰よりもディティールに拘泥したナボコフの作家としての態度と伎倆にも顕れている。


円環のごとく蝶が配列された表紙。それはまた美麗な織物のようだ。じっさい、本作「道化師の蝶」は第一に蝶(或いは着想)と織物(或いは言語)をめぐる非常に精緻な小説である。蝶の形をした「着想」を捕虫網で採取するA・A・エイブラムスなる人物に関する第1章に始まり、続く第2章では第1章全体が「友幸友幸」なる多言語作家によって書かれた無活用ラテン語小説の翻訳であったことがその翻訳者によって明かされる。第3章では「友幸友幸」その人に語り手が替わり、……という具合に、全5章から成るこの小説は、謎を解き明かすどころか増幅させながらその歩みを進めて行く。そして、その入れ子のような構造は実は円環になっていることが頓(やが)て判明する。

果たして小説はどこから始まるのか、どこからどこまでが虚構の次元なのか、遂に明瞭(はっき)りはしない。而して作者の緻密な計算の上に成り立つ数々の矛盾は、一筋縄では解消しえない。読者はナボコフ――この小説の要となる人物であるが―の呼ぶ“ゲーム”、或いは“旅”の中に身を置くことになる。「旅の間にしか読めない本があるとよい」という冒頭の不可解な一文は、したがってすぐれて自己言及的なのである。


「道化師の蝶」の芥川賞選考にあたり、選考委員の一人であった石原慎太郎はこう言及している――「最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。」

成程、「道化師の蝶」には従来の意味での魅力的な「人間」は殆ど描かれていない。これを読んで「人生観が変わりました」と断言できる人は皆無であるに相違あるまい。然るに芸術観の対立という多分に個人的な問題を含んではいるものの、ここには小説の存在意義をめぐるきわめて重大な論点がある。小説が“ゲーム”であってはならないのか。そもそもわたしたち「読者」は何故小説を読むのだろうか。そもそも小説の役割とは何か、云々。

さてこそ「道化師の蝶」の冒頭の一節を借りれば、屹度(きっと)この小説にも「適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない」。良き読者は繰り返し「道化師の蝶」という小説の「適した時と場所」を探しに行かねばならない、いや、探しに行くことができるのだ。

それは畢竟、着想即ち「道化師の蝶」を追い求める“旅”であり、“ゲーム”なのかも知れない。この「蝶」は、やがてあるロシア人青年のもとに飛来し、彼を20世紀に屹立する文学的巨匠にならしめる。彼は作家であるとともに、また一人の卓越した読者でもあった。(薮)

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