文化

新刊書評 辺見庸『青い花』(角川書店)

2013.07.16

傷ついた被災者の心の闇に迫る

2011年3月11日、日本列島で東日本大震災が起こり、多くの人命が失われ、また家を失っていまだに苦しい生活を強いられている人が数多くいる。震災から2年以上経った今、震災が人々の意識からしだいに遠のいている。筆者はこういった悲惨な事実に目を背けず、むしろ苦しみに苛まれている一被災者の主観に入っていくことで、震災とは何なのかについて考えようとしている。

主人公の男は線路を歩いている。この記述は場面が変わるごとに登場する。彼はこの小説の中でひたすら歩き続ける。その中で彼は震災や戦争といった今おかれている状況について考える。また亡くなった妻、子供たち、親、犬について思いを馳せ、悲しみのふちに落ちる。そして彼には属する組織がない。以前にはあったが些細なことが気に入らず、抜け出してしまった。人とすれ違えば怒りや不満、恨みをぶつける。孤独は感じずに、当てもない考えにとらわれながらただ歩き続ける。

彼の半生については特に触れない。というのはこの小説は物語を追っていくことよりも彼の陥っている絶望、そしてそこから生じたゆがんだものの見方を感じ取ることに意味があると思うからだ。

彼のいわば虚構は、ジャーナリストとして現代のメディアに通じた筆者の広範な知識によって表現される。AKBから麻生太郎までが一緒くたにされて彼の幻想を構成する。また筆者の言葉に対する敏感さが発揮され、助詞や副詞の考察にまで話は及ぶ。お祭りで使われるだろう意味不明な掛け声や呪文がしばしば繰り返される。それほど彼は錯綜している。

だが彼はまだ理性を失っていない。彼は薬物を求めながら、それが戦争で将兵たちの戦意を高揚させるために使われたこと、そしてそれによって産業界は莫大な利益をあげたことに気づく。また叔父の残した「人間に最期の最期まで残された尊厳というものがあるとすれば、それは現に目の前に見えていることを疑うことだ。」という言葉の意味を理解し噛み締める。ファシズムは自分たちの行っていることの正当性について、人民が疑うことを禁じないが、軽侮と嘲笑のうちに人民が懐疑し続けることに疲れるようになる。彼はファシズムの形成についてこのように分析する。

途方もない絶望に陥った人は自己の主観で世界を把握しようとする。またそのことを通して外部の出来事や自己の絶望に対抗しようとする。彼もその一人である。そして震災や戦争にさらされた人々は皆彼のようになる可能性があるのだ。そしてその被害を免れた人々は彼らを同情の目で見る、ひどいときは狂人として扱う。そうではなく彼らを自分の生に対して一生懸命に戦っている私たちと同じ存在であることを認識すべきではないか。この小説はこう訴えかけているように思われる。(千)

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