〈連載企画〉台湾逗留記~第三回~ 過ぎ去らない過去(2013.01.16)

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1月6日、わたしは台北市内の中心部から1時間半ほど離れた新荘市へ、「楽生園」を訪ねた。ここに住むお年寄りを支援する学生団体「青年楽生連盟」が、簡単なガイド企画をするという情報を手に入れたのだ。

楽生は、台湾総督府が1930年につくった台湾唯一のハンセン病患者療養施設だ。「他人への伝染を防ぐ」という名目のもと、患者をここに「強 制隔離」したのだ。隔離政策は、第二次大戦後日本が撤退し、ハンセン病に伝染性のないことが明らかになった後も続けられた。1960年代から外来治療が主 流になるも、もはや戻る場所のない入所者の多くは、ここを終の棲家とするしかなかった。今も180名ほどの元患者が入所している。

療養施設というと監獄のようなものを想像してしまうが、楽生は小高い丘陵の上に天井の高い煉瓦づくり平屋建てが、木々に囲まれ立ち並ぶ牧歌的な空間だ。植民地時代に建造されたものが、改修を経ながら今に至るまで使用されている。

いまその隣では斜面の一部を削り取りながら、MRT停車場の造成工事が進められている。じつはこの工事に乗じて、地元当局は当初楽生の建物す べてを取り壊す計画だった。しかし入所者や学生らが2005年以降、デモなど活発な反対活動を展開した結果、40棟の建物が残されることに2007年決 まった。

しかし、造成工事の影響による地割れが起こり、このままだと地盤崩壊の危険性があることから、青年連盟の学生はいま地盤保全を当局に求める取り組みを行っているそうだ。

この日のガイドは、まずこの反対運動を記録したフィルムの上映、次に学生による園内の案内と続いたのだが、言語の壁が立ちはだかり、私はせっ かくの案内もほとんど理解できなかった。そして、この日のメインである今も入所するお年寄りとの対話へ。ここでも聞き取りができないだろうな、と思ってい たところ、受付の学生が話分かるかと聞いてくる。受付名簿に記入した名前から、日本人だとバレてしまったのだ。

マゴマゴしていると、その学生は前に座るお年寄りの一人と相談を始める。するとそのお爺さん、李さんに、「故郷はどこですか?」と日本語で話しかけられた。

李さんは今年で78歳。台湾東部花蓮の出身だったが14歳の時ハンセン病を発症し、官憲に「無理やり」楽生へ連れてこられたという。 「64年間ねえ、ここに住んでいますよ」そう語る李さんの表情は穏やかなものだった。しかし、そのたった一言に含まれた「64年間」という途方もない時間の重みの前に、そしてそれを日本語で話すという行為の前に、わたしは沈黙してしまう。 64年前なら日本は既に「引き揚げた」あとだ。では国民党政府によって隔離されたということなのか。日本人相手だからと「気を遣って」いるのでは…色々なモヤモヤが浮かんでは消える。

ほかのお年寄りも話をする。李さんは私に「通訳」してくれる。オウさんというお爺さんは「官憲は本当に横暴で、私を殴る蹴るして無理 やりここに連れてきた」「その頃は、患者が吐いた唾からニワトリに菌が移り、そこからまた人に感染するといって人を脅した」と、壮絶な証言をする。お婆さ んが「私がここに連れてこられたときの気持ち」に自作の節をつけて歌う。 「今はただここで安らかに暮らしていきたい」そう語る彼らの願いが全うされることをただ祈るしかなかった。と同時にもし総督府当局に連れられてきたと言われたら、わたしは彼・彼女を直視できただろうかと思う。  

楽生を取り巻く現在の状況、開発優先の政策が、弱い立場の人たちの生活を脅かす、のは台湾社会が 随所で抱える問題だ。しかし同時にこの問題の根が、日本の植民地統治(1895―1945年)に行き着くもの、ということを忘れてはならない。

ハンセン病患者の隔離は、1930年代に大日本帝国「内地」ー「外地」を問わず推進された政策だが、とりわけ台湾や朝鮮半島では、植民地統治の安定を脅かす異物を管理するという植民地支配者の論理が用いられたことが、指摘されている。

この楽生のように日本の植民地統治(1895―1945年)の経験はまだ完全に「過去」のものになっていない。そろそろ、台湾に未だ跡を残す植民地の問題を、避けることができなくなってきた。そのためにも一旦眼を台北の外に向けなければ。 (魚)

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