池田浩士講演会録「ニッポン、ハシシタ、シシュウカン 〜グローバル・リーダーってなんなんだ!?〜」(前編)(2012.12.01)

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日本語ってファジーな言語で、ある意味それが魅力だと思う。だけどことさら歯切れの悪い、馬鹿げた造語が今の日本には氾濫している。数年前なら人間力。「自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力(内閣府)」って何だそりゃ。この頃だとグローバルリーダーもそんな珍語の1つ。思修館で、維新の会で大人気。いやはや訳が分からないこの国を文学者・池田浩士にバッサリ斬っていただこう。

なお講演者の意志を尊重して差別的な表現をそのまま掲載していますが、差別を是認する意図は一切ありません。予めご了承の上、お読み頂くようにお願いします。(編集部)



きょうはこの青空講演会と銘打った寒空の下での屋外集会で、「ニッポン、ハシシタ、シシュウカン――グローバル・リーダーってなんなんだ!?」という、カタカナばかりが目につく題目で話をさせていただくわけですが、どのカタカナもそれぞれ現在の現実の姿を如実に反映しており、私たちの「いま」と「これから」を考えるうえで重要な手がかりを与えてくれる、文字通りこんにちのキーワードです。それらのうち特に「ハシシタ」というカタカナについては、なぜ「ハシモト」ではないのかと疑問を持っておられるかたもいらっしゃるでしょうね。それについてはのちほど詳しく述べることにして、まず「ニッポン」から考えていきたいと思います。


「国語」という言葉の違和感


私が去年の3月11日以後、なんかこの社会は生きているのが面白くないなあと感じてきたことの一つは、やれ「絆」だのやれ「頑張ろうニッポン」だのといったそういう言葉が、さも立派なこと、誇るべきことのように一人歩きしてこの社会の中にあふれていることです。本当にこれはなんなんだろう。そこで私も今日はそれに唱和して「頑張れニッポン」と、そういうところから話を始めてみることにしました。愛国者でもないのに愛国者のフリをしたがる人が、日本というのは世界に類を見ないような長い歴史と独自の文化を持っている、とよく言います。それから例えば、日本人というのはとても勤勉で手先が器用で、町工場のオヤジさん達は世界のトップ企業といわれるものも技術開発できないような独自の技術を開発しているではないかということも、よく聞きますね。これは、私もとても良いことだともちろん思うのですけれども、そういうふうに日本の優れた独自性というものを主張する人々がありますよね。じつは私もやはり世界に誇るニッポンの独自性というものがあると思っています。

その一つとしてまず、ニッポンには「国語、国史、国文学」というものがあるんですね。これは本当に世界に誇るべきニッポンの独自性だと思います。なんで紫式部が国文学なのか? それから私が今しゃべっている言葉がなんで国語なのか? それから大学の文学部には国史学科というものがありました。今はほとんどの大学でもうないのかもしれませんが、つい最近までありました。歴史というものは民衆の歴史ではなくて国の歴史なのですね、ニッポンでは。特に私はことばに関心がありますので、国語っていう言葉に前からずっと違和感を持っているんですけれども、例えばEnglishっていうのがありますよね。これは「国語」を英訳したものなんですかね? 逆にEnglishを邦訳すると「国語」になるんでしょうかね? どういうことかというと――言語っていうのは国の言葉ではないでしょう。百歩譲っても民族の言葉だと思うんですね。それが、この日本という国家では「国語」といわれているわけです。世界中で自分たちの言語を「国語」と呼んでいる国家は、多分三つだけだと思います。それは日本と韓国と台湾です。つまり日本の植民地だったときに日本語を押し付けられてそれを国語と呼ばされたのですが、いまでも台湾、韓国では――韓国では近年減っているようですけれども――自分たちの言語を国語と呼んでいます。1970年代に或るドイツの作家が書いた小説が日本語に翻訳されまして、その小説の日本語訳の題名が『国語の時間』でした。ドイツ語の原題は『Deutschstunde』(ドイッチュシュトゥンデ)です。Deutschというのはドイツ語のこと。Stundeというのは時間のことです。だから『ドイツ語の時間』という題名の小説なんだけど、訳者はそれを見事に「国語の時間」と訳したんですね。しかしこれは、現在の私たちの言語が国語と呼ばれている現実からすれば正しい訳だろう、と言わざるを得ないですね。ただ、ドイツ語というのはドイツ語であり、日本語というのは日本語です。その日本語を国語と言うのは、世界に誇るニッポンの独自性だろうと思います。


日本独自の歴史観


世界に誇るニッポンの優れた独自性の第二点、これは歴史にしっかりと現われています。「無かったことがあった」――この国の歴史では。そして「あったことが無かった」んです。日本の歴史というのは、そういうものなのです。つまり今年は紀元2672年です。そんなこといっても若い人は全然分からないでしょうね。今年は2672年なんです。これは何かというと、今から2672年前の2月11日に神武天皇という人物、「カムヤマトイワレヒコノミコト」という人物が、大和橿原で大和朝廷を開いたのが今から2672年前の2月11日であったということです。そういうことがあったんですね。日本の歴史ではそうなっている。その神武天皇から125代目の明仁という人物は天照大神という女神の直系の子孫なんですね。つまり神様の子孫。現人神(あらひとがみ)、人の姿をとった神様。これが日本の歴史ですね。さらに言うと初代の天皇、人間になってから初代の天皇とされている、2600年前に大和朝廷を開いた神武天皇は日本書紀やなんかによると、おばあさんが鰐鮫だったんですよね。つまりそういう歴史を持っている類まれな国なんですね。無かったことがあったことになっている。逆にあったことは無かったことになるという非常に珍しい国です。南京大虐殺はなかった。これがこの国の歴史です。それから従軍慰安婦と一般に言われている人は、従軍慰安婦などではなかった。職業として売春婦を選んだ女性であった。これが日本の正史、正しい歴史です。それから沖縄はこの国の県の一つである、というような歴史観。そんなことは無かったのに、あったことになっている。これには二つの意味があります。つまり、琉球王朝によって統治されていた琉球を日本が併合したというか、むしろ吸収してしまったという歴史の事実と同時に、もしも他の県と同じように日本の県の一つであれば沖縄があのような現実の中に置かれることなどあり得ないだろう。それなのに日本の県の一つだと言われている――というようにですね、無かったことがあることになっています。

さらに国の名前がわからない国というのは、私は他にはあまり知らないんですけれど(笑)、日本の場合――いま私はニホンと言いましたけれど「非国民!」と誰かに言われそうですね。「ニッポンだ! ニホンではない!」と――特にここ数年、色々なところで意図的にニホンではなくてニッポンと発音しているケースを耳にすることが多くなったように思います。調べてみると、NHKでは国号として言うときにはニッポンと言い、その他は慣習を考慮してニホンという場合がある、という指示がアナウンサーに対してあるようです。ですから国の名前として言うときにはNHKはニッポンと言います。だけど例えば静岡県の日本平という地名を「ニッポンダイラ」とは読まなくてもいいらしいです。最近、私がびっくりしたのは、橋下という人物が大阪で始めた「維新の会」という政治結社を全国化するときの名称として、NHKのニュースは最初、大阪維新の会を「ニホンイシンノカイ」にすると言っていました。「そうか! 橋下さんいいなあ。ニッポンイシンじゃなくてニホンイシンなんだ」と思っていたら、次に聴いたときからもうニュースでもアナウンサーは「ニッポンイシンノカイ」と読んでいました。なんでこのごろ、ニホンでは悪くて、ニッポンでないといけないというようになっているんだろうか? このことが実はきょうの話と関係があるのではないかと思っています。


「ニホン」か、「ニッポン」か


ご存じのとおり、このごろでは、ニッポン大好きでニホンがダメ、という風潮になっているんですけれど、ニホンとニッポンの間の揺れについては、もう多くの方が気づいておられるどころか、その理由もご存知かもしれません。明治維新以前の段階では東日本ではニホンという読み方が一般的で、西日本、特に九州ではニッポンと発音していた、というのが通説です。「お江戸ニホンバシ」で、大阪では「ニッポンバシ筋」というのにも、東西の違いが反映されていますね。明治維新を担った元・下級武士たちは多く西日本の出身であった。とくに薩摩、長州、それから肥前という薩長土肥の内の3つは九州の藩の出身だったんですね。ですから明治維新後に彼らの発音がそのまま公式に転用されてニッポンというのが一般的になったんだ、というのが通説です。最初に紙幣に国号としてローマ字表記で「NIPPON」という字が書かれたのも、明治維新後ほぼ10年くらいたったときだと言われています。

ところが、そのころから60年近くも後の1934年3月22日に、文部省国語調査会が国号の読みかたについての審議を重ねた末、政府に対してニッポンという表記を国号にすべきであるという提言をしたのです。これを受けた政府は、一概に決めて良いかどうか決めかねて、結局うやむやになってしまった、という記録があります。この事実から、紙幣にローマ字でニッポンと表記したにもかかわらず依然としてニホンとニッポンの共存が続いていたことがわかります。ではなぜ、この時期になって国語調査会が「ニッポン」とする提言を行なったのか。それを考えるために、国語調査会がこういう提言をするに至る数年間に日本という国家・社会でどういうことが起こっていたかを見てみると良いと思います。

1931年9月18日に、中国では「9・18事件」と呼んでいる「満洲事変」を日本は勃発させます。そして翌年3月1日に偽「満州国」を「建国」しました。戦後民主主義の中でつくられてきた「15年戦争」という概念に従うと、ここでその「15年戦争」を日本は始めていくわけですね。私自身は「18年戦争」論者で、1927年5月の第一次山東出兵――1926年12月25日に天皇となった昭和天皇・裕仁の対外的な初仕事である中国大陸に対する武力侵攻――が、1945年の敗戦に至る「18年戦争」の始まりだと思っていますが、非常にポピュラーな歴史観で言えば31年9月18日から日本は15年戦争の時代に足を踏み入れていくことになります。それから1933年3月27日には、この年の1月末に政権を掌握したヒトラーのナチス・ドイツと呼応するようにして国際連盟から脱退します。つまりここで世界を、ある意味で言うと、仮想敵にしていく時代が始まります。1933年4月22日、国際連盟を脱退してから1ヶ月たらずの後に、京大で滝川事件が始まります。4月22日に文部省が滝川教授に対する弾圧を開始したのに対して京大の中で揉めて、最終的に1ヶ月半余りで滝川氏その他が職を退くというものです。その年の暮れの33年12月23日には皇太子明仁が生まれます。これは明治維新以後、皇太子が誕生したという稀有なケースです。つまりどういうことかというと、天皇に長男が生まれた。例えば現在の皇太子には、男ではないけれどまだ皇太子の時に子供が生まれていますよね。父親が天皇になってから長男が生まれる、皇太子が生まれるということは、少なくとも明治以後の近代天皇制では1回だけで、昭和天皇・裕仁に長男の皇太子・明仁、つまり現在の天皇である明仁が誕生しました。だから国内が祝賀ムードで大騒ぎになった。例えばいま、皇太子に息子が生まれたとしよう。それでも大騒ぎになるよね。でもその頃は、もう天皇になっているのに跡継ぎの男の子がいないんだから、文字通り天皇制の危機だったんですね。その天皇に息子が生まれた。つまり皇太子が生まれた。後継ぎができた。天皇制はそこで、少なくとも彼までは保たれることになったんです。おりから、外国との関係が非常に険悪になっている。国際連盟も脱退した。一方では満洲事変によって侵略国家としての道を確実に歩み始めている。そのために世界でますます孤立していくこととなった。日本国内ではプロレタリア文化運動の高揚を始めとして反体制運動が力を持ち、国民の団結は弱まっている、と国家の中枢部は危惧せざるを得なかった。対外的な危機に対応するのに不可欠な「結集軸」が危なかったわけです。それがようやく皇太子が生まれた。これはものすごく明るいニュースだったようです。だから、「やっていける」って。アジアへの進出をいよいよ本格化する方向に進み、大東亜共栄圏のイメージもだんだんこれから始まっていくわけですね。一方ではそういう時代だからこそ、国内の引き締めというのが非常に重要になって、滝川事件に引き続いて文部省が今度は学生部を拡充していって、その中に思想局と呼ばれる部局を設置します。これによって大学生、それから旧制の高校生という超エリートの思想統制に本腰を入れていく。思想弾圧は政治や労働者運動の分野でも激しくなり、「転向」の時代がすでに始まっていた。このあと、日本におけるいわゆるボランティア運動の最初である東大のセツルメントが解散を強制されていくという時代になっていく、そういう一時期です。そういう時期に国語調査会はニッポンという国号をちゃんと法律で決めようという提言をしたわけです。つまりこういう時代に「ニッポン」というのが浮上してきた。それが私たちの過去の歴史です。


国難と「ニッポン」


その歴史を振り返ってみると、いま私たちの周りでニホンではなくニッポンと声高に発語され、わざわざ力を込めてニッポンを語る風潮が私たちの無意識の間にじわじわと、この社会を埋め尽くしつつあるというのが、私はとても嫌な気分がいたします。なぜかというと、ちょうど国語調査会が政府に提言した時とどこか似たような「国難」の時代、世界の動き全体が日本という国家にとって好意的どころか敵対的に感じられ、だからこそその国難を何とか逆転させて世界のリーダーとしての国になっていこうという、国家権力の担い手たちの思惑があるのではないだろうかと思うからです。そう言われてみるとまさに国難の時代だというふうに考える人がいるというのは、納得できますよね。皆さんの中にも、今はとても大変な時代だ、危機の時代だということを感じておられる方は沢山いらっしゃると思うんです。当たり前ですが、歴史の転換点としての「3・11」がますますその危機の意味を大きくしているな、という思いが私にもあります。それはなにも核エネルギーの保有か廃絶かという非常に重要な一つのテーマだけに関わることではなくて、そのテーマが大事であるがゆえに、例えば私たち自身の生き方も――「原発をやめよう」というと「じゃあお前は冷蔵庫なんか使うなよ!」という人がいますよね。とすると、私たちが今まで便利だということで追及してきた生き方を変えなければいけないということは、ここにおられる皆さん考えておられることだと思うんですね。個人の生き方と直結している問題ですが、それを本当に解決しようとすれば、やはり社会構造を根本的に変える闘争を私たちは続けていかなければならない。もちろん、個人のことを抜きにするということはできないわけですが、現在の社会の構造というものがある。それをどう変えていくのか?

「元に戻すのか」ということ、これは本当にあってはならないと思います。そんなことを民主党に言われたくはないのですが、やはり自民党のあの権力構造が私たちを再び捕らえるなどということはあってはなりません。要するに、社会構造の根本的変革をめぐる闘争の真っ只中に私たちはいる。やはりそれは民主党がチョンボをした、というよりは元々出来なかったために、巨大な利権構造の巻き返しに至ってしまいました。彼らは、権力の奪還とはいわなくても、挙国一致で国難に立ち向かうためには自分たちしかいないという言い方をしているわけです。


「ニッポン人」のリーダーを求める世論


そういうことを踏まえた上で、今日のテーマである「グローバル・リーダー」の問題も考えていきたいと思います。そのような「国難」の時代に、「国民」という名を与えられてしまっている私たちには何が求められているのか。とりわけ、ここに多くおられる「若者」――私が「国民」と呼ばれたくはないのと同じように、「若者」などと言われたくはない、と思っている方もたくさんおられるかと思いますが――に、何が求められているのか。権力を担う人々は一生懸命これを考え、かつ説得しようとしている。それと同時に、私たちもしっかりと考えなければいけないだろう、と思います。

ここで、たまたま目についたもののうちから、現在のキーワードともいうべき4つの課題、あるいは目標を並べておきます。いずれも国民とりわけ若者に求められている事柄なのですが、(1)「地域や個人の創意工夫によって社会全体を活性化」していく (2)「グローバルな競争力を持つ経済を再構築」する (3)「自立する国家、自立する経済を担う自立する個人を育てる」 (4)「基礎学力を底上げしグローバル人材を育成」する、というものです。

例えば「地域や個人の創意工夫によって社会全体を活性化」する――。「地域や個人の創意工夫」を、一体誰が社会全体に活かしてゆくのか、どのようにしてそういう政治を行うのか、ということが問題になるはずですが、この目標を掲げた人々によってそういうことは全く問題にされておらず、どうなのだろうかと思います。また、「グローバルな競争力を持つ経済を再構築する」というのですが、この目標を追求するとき国内におけるいわゆる弱小企業、あるいは日本の農業・林業・漁業、そういったものがどうなるのだろうか、ということは素人でも考えざるを得ません。それから、「自立する国家、自立する地域を支える自立する個人を育てる」ということについてですが、これはものすごく単純です。「俺はそんなことのために自立するのではない」という思いが私にはあるのです。地域のために自立しなければいけないのか。国家の自立のために自立する個人でなければいけないのか。最後に「基礎学力を底上げしグローバル人材を育成」するという標語に関してですが、これがこれから考える直接的なテーマとなります。

ここで言われている事をもう一度整理しますと、この国難の時代においては強いリーダー、グローバル・リーダーを育てなければいけない。そして、グローバル・リーダーは「ニッポン人」でなければならない。権力の側が持つのは、そういった思いが見え見えになっているリーダー待望論なのではないか、と思います。なんでグローバル・リーダーは「ニッポン人」でなければならないのか。なぜ、韓国人なり、モンゴル人なりではダメなのか。モンゴルにはグローバル・リーダーがいると私は思っています。今のモンゴルの女性大統領なのですが、3年前、彼女は就任するとともに、「モンゴルはこれから人間の生命を大切にする国、社会を作っていこう。そのためには人間の生命を国が奪うことを止めよう」と呼びかけました。そのことによって、生命がそれほど大事であることを国民の心に根付かせようとした。そして、実際に死刑制度をやめたのです。そういう人がグローバル・リーダーになればよいのであって、何も「ニッポン人」がなる必要はないのです――もちろん、グローバル・リーダーなどというもの自体が要らないと私は思っているのですが。

ところが、お気づきの方もおられると思いますが、先ほど述べた4項目は全て大阪維新の会のいわばマニフェストである「維新八策」から引用したものです。大阪維新の会と日本維新の会の元代表であり現・代表代行の橋下徹という戸籍名を持つ政治家が、この国家・社会の中で、非常に大きな発言力をマスコミによって与えられ、様々な演技を続けているという状況が、強いリーダー、グローバル・リーダー、それも「ニッポン人」のリーダーを求める風潮を最も典型的に象徴しています。ですので、しばらくは維新の会、そして橋下という政治家に、皆さんと一緒に向き合ってみたいと思います。


「ハシシタ」問題の本質


きょうのこの集まりを予告した『京都大学新聞』と、ここで皆さんにお配りしている私のレジュメを対照しますと、「ニッポン・ハシシタ・シシュウカン」というのが私のつけたタイトルとなっていますが、京大新聞の告知では「ニッポン・ハシモト・シシュウカン」になっています。私は意図的に、今日のタイトルで「ハシシタ」という表記を使いました。なぜかというと、社会的、及び人間的な差別の現実を私も自分なりに見つめなおす必要に迫られていると思うからです。私は以前から、彼の名前を「ハシシタ」というカタカナで表記をしてきました。いま販売中の京大新聞に寄稿した2500号記念の文章の中でも、確か「ハシシタ」と書いていたと思います。この寄稿を書いたのは『週刊朝日』が例の記事を載せる前ですから、私が『週刊朝日』を倣って「ハシシタ」と書いたのではありません。

彼の場合、たまたま一人の弁護士を自称する政治家が、ハシモトという名前で登場した。それも橋「本」や橋「元」ではなく、「下」という字であった。私は彼自身が被差別部落出身であるとカムアウトした時から、この名前はとても気になっていました。『週刊朝日』のコメントによると、彼のお父さんの代で「ハシシタ」と呼んできた戸籍名を、字を変えることなく「ハシモト」と呼び替えるようにしたということです。私たちがよく目にする「橋本」ではなく、彼の家族は「橋下」という字を使ってきた。これは被差別部落に対する差別の現実と無関係ではないだろう、と私は思います。

ただし『週刊朝日』の記事は、許してはならないと断言してもよいくらいにどうしようもないものだと思います。著者である佐野さんというルポルタージュ・ノンフィクション作家は、十回程度の連載の中で、最終的には決してこの記事が差別を助長、容認するものではないということを読者に分かってもらえるような連載記事にするつもりだったと言っています。したがって彼なりに、ある意味でのショックを読者に与えて、最終的には被差別部落に対する厳然たる差別、抑圧の現実を叩く意図が最終的にはあったのかもしれません。ただ、差別の現実というのは、差別する側に身を置いている人間の良心や良き意図だけでは処理できません。

恥ずかしいことをお話します。35年ほど前になりますが、私は大学教員たちの仲間で出していた同人雑誌にノンフィクション的な文章を書いたことがありました。それは滋賀県の北部に住んでいた時の日常を綴ったものでした。そこで、私が非常に嫌いだった人物に「この、どつんぼ!」という台詞を語らせました。前後を読んでもらえば、書き手である私がそのような台詞を語った人物に対して否定的であるに違いない、と読者が分かってくれると確信した上で書いたのです。ひどい人物のひどさを表現するために、その人物が「この、どつんぼ!」と他人を罵るシーンを入れたということです。ところが、まったく思いがけなく、聴覚障害を持つこの大学の女子学生から私は抗議を受けました。その時にも私は今のような説明をしたのですが、彼女は「それはそうでしょう。だけれども自分は、読んでいるものの中にそういう言葉が出てくると身がすくんで、周りが見えなくなるくらいにショックを受けてしまうのです」と言いました。私にはそれが分かっていなかった。いかに自分は差別の現実を否定すべく差別的な言葉を使っているのだと書き手は思っていても、今まで常に差別されてきた人から見れば、その言葉そのものが凶器であり暴力なのです。

ですから、「ハシシタ」、「奴の本性」などという言葉を、ずっと差別を受けて苦しんできた人々に対して使うことは致命的でしょう。もっとも、このような見出しを付けたのは佐野さんではなく『週刊朝日』の編集部なのだということですが、これは申し開きにはなりません。それなのに、全て読んでもらい、最後には差別と闘う意志が込められているのだと言われても、それはちょっとなぁ、と思います。それなのに、どうして私が「ハシシタ」という言葉を敢えて使うのか。そのことを皆さんとともに考えていくために、私自身の考えを述べさせていただきたいと思います。これは後の話とも密接に関連していきます。


独裁者・ヒトラーと橋下の戦略


橋下という政治家が「独裁者」という言葉を口にした時に、多くの人がヒトラーとの関連に目を向けました。私は橋下が出てきたはじめから、「ああ、ヒトラーと同じ成り上がりの道を辿っているなあ」と思ったのです。特徴的なのは、ヒトラーが中産階級の出身であり、第一次大戦時の軍隊でも下士官だったことです。陸軍では将校、下士官、兵という三つの大きな階級の区分があるわけですが、彼は現場のリーダーにあたる下士官という地位だった。彼は政治家になる決意をしましたが、様々なところで演説をする際に、必ず「自分は一兵卒として大戦(第一次世界大戦)を戦った」という言い方をした。管理職である下士官だとは決して言わなかったのです。ドイツ帝国の名のもとに生命を消耗させられた多くの一兵卒と同じ立ち位置に自分がいる、すなわち自分は被抑圧者・被支配者であり、社会の底辺の出身なのだと、事あるごとに言う。これは偽りですが、そういうことをヒトラーは語りました。

社会の中で抑圧、閉塞感が垂れこめ、多くの人にとって、本当に無念な生き方しか許されないような状況では、そこから成り上がっていくために、自分がその被抑圧者の一員であるというのを売り物にすることは定石手段です。そして、橋下はそれをやっている。私は、被差別民であるか、そうでないかを問わず、これは人間としての責任の問題ではないかと感じています。私は、自分が被差別民ではなく、差別者であるという立場に立った上で言います。彼は、彼の部落の同胞たちを踏み台にして成り上がっていくということです。
 ヒトラーはあっという間に権力の座につきました。ヴァイマル共和国が、世界史上最も民主的であるとされる憲法のもとで行なった選挙で、ナチスは次のようにぐんぐんと議席を伸ばしていきました。
 1928年5月10日の選挙でナチ党は491議席中12議席をとりました。ヴァイマル時代の国会選挙の投票率は、どの回も80%台の終わりから90%台のはじめときわめて高かった。ほぼ有権者の意思が反映されているとみられます。だからこそ怖いのです。ナチスはしっかりと民衆の支持を得て勝利しました。ところがよく見ると、政権を獲った後に行われた選挙での得票率は43.9%(1933年3月)で、その前は33・1%(1932年11月)です。投票者の3分の1の支持しか得ていないのに、ヒトラーは首相になったのです。そして、政権を握ったあとでも過半数には届かなかった。今度の12月の日本の選挙でもそういうのが見えていますね。過半数を取る政党はないかもしれない。しかしある政党に3分の1の得票しかなくても、そこから出た首相がどれだけ大きな権力を行使することができるようになるか。選挙を棄権してきた時代の長かった私が言うのもおかしいのですが(笑)、やはり今度の選挙には行かないといけないな、と思います。
 こうして、1928年の5月にはたった12議席しかなかった弱小政党は、次の1930年の選挙で107議席を得ました。その背景には、1929年10月24日、世界大恐慌の発端となるニューヨーク株式市場での大暴落があります。アメリカ、日本、ドイツがその不況の影響を最も大きく受けました。ヒトラーは「失業をなくす」と言いましたが、今日本で「デフレをなくす」「金融緩和をする」と言われているのと同じようなものです。それを目玉商品にして、ナチ党は大躍進を遂げました。1928年までは、ナチスが政権を獲るなど、ほとんど誰も思っていなかったのです。
 今、私たちの間でも「橋下人気」に陰りが出ている、有権者は彼のインチキを見抜くようになってきたという論調もありますが、それに騙されてはいけないと思います。このようにナチスが勢力を増やしていった時、初めは共産党も社会民主党も、そのうち皆ヒトラーに飽きるだろうと思っていました。1932年にいよいよナチスが第一党となった時、共産党と社会民主党がどういうスローガンを出したか。それは、「まず、やつらを来させよう。その後から我々が行く」というものでした。すぐに化けの皮が剥がれて、これでは駄目だと思われるようになるから、その時こそ第三党の共産党、第二党の社会民主党の出番だと。これが、13年間のナチス独裁の道を開くことになってしまいます。私たちも、橋下を中心とする政治集団に対して、すぐに化けの皮が剥がれるだろうと言っていてはならないのではないか、と思います。
 なぜ私が社会民主党と共産党について話したかというと、ナチ党の最大の敵が共産党だったからです。これは日本の共産党と公明党が最大の敵同士であったのと同じ理由です。つまり、この両党は支持基盤が同じ、社会の中で経済的にも職能的にも「底辺」に押し込められている人々の支持によって成り立っている政党だったからです。ヒトラーはそういう中で、先ほど言ったような、被差別者を売り物にするという演出をしたのでした。       (後編へ続く)


池田浩士講演会録「ニッポン、ハシシタ、シシュウカン 〜グローバル・リーダーってなんなんだ!?〜」(後編)(2012.12.16)

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