文化

新刊書評 東浩紀『日本2.0 思想地図β vol.3』(ゲンロン)

2012.11.01

新しい「日本」の姿を考える

「日本2・0」とは、2012年7月に株式会社ゲンロンより発行された、東浩紀らが編集を務める「思想地図」シリーズの最新刊である。ポストモダン研究で著名な東浩紀が編集長を務めるこの本では、政治・社会・経済・文化など様々なテーマが扱われ、閉塞感の漂う日本を変えようという問題意識のもとで、主に若手の思想家による論考や対談、インタビューなどを通した「新しい日本」像が提示されている。
なかでも読者の目を引くのは、憲法2・0と題された章だろう。ここには、東らからなる「ゲンロン憲法委員会」という組織が起草した、「新日本国憲法ゲンロン憲法案」という新憲法案が掲載されている。この新憲法案の起草にあたり東らは「フローとしての日本とストックとしての日本の両立」というコンセプトをもとにしている。東らは、現代社会においてネットワークが緊密化し金やモノ、人の行き来が活発になった結果、日本という国では「日本(人)」という枠組みが溶解しつつあると指摘。そういった「流れる日本」「解体する日本」=「フローとしての日本」を措定する一方で、「日本列島という土地に蓄積された膨大な記憶」という日本の中で消えてなくならないもの、具体的には、言語や文化、習俗の独自性などを挙げ、それらを「留まる日本」「抵抗する日本」=「ストックとしての日本」として、両者の止揚による新たな日本像の提示を図る。

東は「革新対保守」「護憲対改憲」などといった、いわゆる「政治的立場」からは距離を取り、その対立する双方の折衷案のような憲法を起草しているという、その独自性から、メディアの話題を呼んだ。「天皇と総理の国家元首規定」「自衛隊の合憲化かつ平和憲法の維持」「国民院と住民院の設置=在日外国人への参政権の一定の付与」といったものがその分かりやすい例だ。

東らの試みは、いわゆる「右翼」陣営ばかりから日本の改革(改悪)案が盛んに出され「左翼」陣営が口をふさぐばかりである現状において、「リベラル」の立場から一定の投げかけをした点で、一笑に付されてはならないものだとは思う。

しかし、この「憲法2・0」で提示されている「新しい日本」像に、私は違和感を覚えずにはいられない。確かに、いわゆる「グローバリゼージョン」の流れの中で日本国という国の境界は実質的に溶解しつつあるし、今後多種多様な人々が日本に居住していくことにり日本人が「日本人」たる根拠(もともとの境界自体にも問題はあるけれども)は次第に失われていくだろう。私たちはなにものなのか、なにものになるべきなのか。東もそのような問題提起を行っているし、世界の変容の中でそれを不安に思う日本人の読者の方々もいるだろう(その一方で、既得権益に安住し続ける人も一定数存在する)。たが、東の提案は、「私たち=日本人」という範疇に安息したいがあまり、「私たち」と「他者」の関係をあまりにも簡単に断絶してしまってはいないだろうか。

「フローとしての日本とストックとしての日本」という東らの挙げるコンセプトには、「日本の主たる私たち日本人」「変わらない私たち」と「従たる他者」「お客様としての他者」という構図が前提として組み込まれていると思う。この二つは、それぞれの立場を踏み越えることなく、いわば「中心と周縁」という構造を作りながら「新しい日本」を形成していくことになる。そこでは、「ストック」が「フロー」の立場になること (注)は無いに等しい。あくまで日本人中心の「日本」として、日本という国が運営されていくことになるだろう。だがしかし、日本国籍の有無を問わず、日本という国にいる人たち全てが(旅行者などは別としても)、お互いが対等な立場であることを理念として、さまざまな立場の違いを乗り越えつつ、未来をともに作っていく。そのことに一体何の問題があるのだろうか? (このような提言に対して「外国に日本が乗っ取られる」という主張も聞かれるが、見知らぬ他者に対するアレルギー的嫌悪から来る、排外主義的なものでしかないと思う。そもそもそのような「ゼロサム」で話をすること自体、行き過ぎな議論だと思うし、万が一乗っ取られそうになったら、その時に対応すれば良い話では。)

東らの提案には、見知らぬ他者との真の対話の姿勢が欠けている。自衛隊の合憲化というのも、「自衛」という「私たちは正義、あいつらは話の分からない他者」という思考構造のもとで、相手と真に分かり合うための努力を放棄して武力という暴力を行使することを正当化したものではないだろうか。

さらに指摘すると、この新憲法案は以上のように「他者」を排除するのみならず、彼らを傷つける結果にも陥っていると思う。

例えば、天皇を国家元首に据えるという提案は、天皇の名のもとで行われた「大東亜戦争」、つまりは大日本帝国が行った侵略によって苦しんだ国・地域の人々の記憶を呼び覚まし、彼らを再び苦しめてはいないだろうか。

東をはじめとしたポストモダン研究者は、盛んに「大きな物語消滅論」を唱える。社会が変容し国家や伝統がもたらす価値(大きな物語)が消失した結果、現在の日本社会において、人々は「究極的には無根拠である」「小さな物語」を「あえて」選択するようになったという。ここまで見てきた議論も「信じたいものを信じればよい」という東の態度にとっては虚ろに響くものかもしれない。しかし、その物語が現に人を排除し、さらには傷つけているという状況は決して看過されてよいものではない。

他者へ耳を傾けること。他者の痛みを感じること。他者との違いを乗り越えつつ、「ともに」日本という国を形作ること。そういった姿勢こそが、この「国難」の時代において、日本という国を生まれ変わらせるための新たな試みとして必要なのではないだろうか。(穣)

注  唯一、「日本国籍を取得すること」によって、「ストック」が「フロー」となれる道があるが、自国の国籍を離脱すること、つまりは自らのアイデンティティの一つを失うことが、どれだけの痛みを伴うのか。そしてそれを経なければ「私たち」と同等の者として認められ得ないということの不自然さを、東らは果たして想像しているのだろうか。

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