湯浅誠・阿部真大 対談抄録 <溜め>を剥がれる若者たち(2007.12.01)

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若年者の雇用が揺れている。非正規雇用の増加で、熟練度の低い仕事のなか使い捨てられる若者たち。「仕事のやりがい」が声高に叫ばれるなか、「これは私のやりたかった仕事ではない」と早期での離職をしてしまう。これらの雇用問題はいっぽうで、ニートやフリーターという言葉をもって自己責任論で片づけられることも多い。しかし、その生活世界を見たとき、「働く」ことを支える足場自体が崩壊してしまっているのに気づく。若年者の労働環境を現場で見つめる湯浅誠さんと阿部真大さんに「働く」ことを取りまく現状を聞くとともに、どのような手だてをなすべきかを聞いた。(11月25日の11月祭講演会企画の対談を収録)(編集部)

あたりまえのことが、あたりまえでなくなった世界で


司会 お二人がこれまでに行なってきた活動と現在の興味を聞かせてください。

湯浅 95年から野宿者支援に関わり始め、90年代は路上での炊き出しや夜回りをやっていました。01年には、野宿者の自立生活を支援するNPO「もやい」を立ち上げ、野宿者支援を続けていました。結果的には、ネットカフェ難民などの広義のホームレス状態にある人たちの支援を行なうようになっています。もやいに来る人で最近では、18歳や19歳の若者も来たりして、特にここ1、2年で誰が来てもおかしくなくなっています。これは広義のホームレスとしてもくくれないということで、「貧困」対策として活動しています。

また、日本の野宿者の特徴とは、失業を原因として野宿する人が多いことですね。これは世界的にも珍しいことですけれども。だから野宿者運動では雇用それならば仕事を作ろうということで、立ち上げたのが「あうん」という組織です。

そのほかには、東京で反貧困ネットワークというのをやっています。多重債務で苦しんでいる人はそもそも生活が成り立っていないということがある。他に印象的な話では、正規雇用の人でも団交にいく交通費がない、組合費が払えないという事態が起こっています。いろいろな問題に取り組んでいる人が貧困という問題にぶちあたっている。

最近では「反貧困たすけあいネットワーク」という、「ワーキング・プア」の互助組織を作って、無利子貸し付けなどを行っています。社会のセーフティネットの張り直すことをしています。

阿部 4年前に1年間、バイク便ライダーとして働き、3年前にはケアワーカーへの聞き取りを行ない、それら2つの調査をそれぞれ本にまとめました。現在はキャリアラダーをキーワードに考えています。

バイク便ライダーについての研究では、「好きを仕事にする」という趣味的な労働のもと、労働条件が見えにくくなる事態を指摘しました。これを「自己実現型ワーカホリック」と呼び、村上龍さんの『13歳のハローワーク』に反論するかたちで、仕事のやりがいや意義とともに、仕事のリスクも早いうちに教えるべきだと提言しました。

ケアワーカーになると状況が違ってきます。彼らのなかには「好きを仕事に」ではなく、生活が安定するのではとの期待をもって職場に入ってくる人もいる。国家資格もありますからね。しかし、介護士資格をとっても生活が安定するわけではない。介護士資格という「えさ」をみせて、ひっかかったらすぐに離す。そんなことを国家がやっていいのか。

そのような「生活を安定させたい」人たちが、頑張ればキャリアを上がって生活を安定させることのできる階段、キャリアラダーをどうやって作っていけばよいかということについて、いま研究しています。

司会 今、若者の労働環境はニートやフリーターという言葉で語られることが多いのですが、『「ニート」って言うな!』の著者である本田由紀さんによれば、失業者数と相関して増えているだけで、意欲の無いニートというカテゴリは、実はほとんど増えていないのだ、としています。そのへんも含めて、若者の労働環境が実際にどう変わっているのか、伺いたいと思います。

阿部 どちらが大きな問題かという話だと思います。好きなことがしたいから仕事がない、という人たちがいる。そういう「好きな仕事がしたい」人には「自己実現系ワーカホリック」の問題がある。その一方で、生活を安定させたいけどデッドエンドジョブに就かざるをえない、ケアワーカーのような人たちがいる。どちらも問題だがまずは後者の問題を重点的に取り組むべきだと思います。

湯浅 「超意欲的ニート」にしても「満喫!モラトリアム。」にしても、結局「俺ん家は金もってるぜ」ということでしょう。それを自覚しているならいいのだけれど。「ニート」は意欲が無いけれども、俺たちは意欲があるんだぜというと違う気もする。ただそれに対して「ニート」だって働きたいんだという反論がある。でも、みんなが本来生産したい、生産したい人を社会が受け入れる人べきだとすると、端的に働けない人が排除されてしまう。そういう違和感はあります。

司会 阿部さんの「資格を持っていても仕事が安定しない」とは具体的になぜなのでしょうか。また、湯浅さんのいう働けないで困っている人たちとは実際にどのように困っているのでしょう。

阿部 看護士の仕事はなかなかできませんが、ケアワーカーの仕事は熟練度が低い労働です。知識より経験がものをいう仕事場ですから、介護福祉士の資格をもっている25歳の女性よりも、介護経験のある50歳の主婦の方が評価されるということがざらにあります。要するに資格と収入が一致していない。さらに介護報酬が限られているのに、厚生労働省は個別ケアを行なえという。ユニットケアの推進です。すると削るところは人件費しかないということがある。社会的地位の低さと限られた介護報酬。この両者が合わさって介護士の賃金を押し下げています。

湯浅 意欲は人権とは違って誰にも単純に備わっているわけじゃない。意欲には出せる条件がある、とそういうことですね。意欲っていうのは、親御さんがお金を持っていて、塾に通わせてくれて成功体験をえる。そういうことを積み重ねて意欲はでてくるわけですね。

例えば、この前、19歳の男の子がもやいにやってきました。その子は両親が離婚していて、55歳のお父さんと一緒に暮らしている。その子は中二から学校にいかなくなって、今まさにニートなわけです。お父さんと一緒に暮らしていても、ほとんど家族といえる生活をしていなかった。ガスは通ってないし、布団は無くて、寝袋に入って生活していた。

お父さんは警備員の仕事をして、月に28万稼いでいたのだけれど、うつになってしまった。警備員で28万稼ぐというのはかなりきついことだと思います。ここまできて「死にたい」といって電話をかけてきた。現在、親と子別々に生活保護申請をして、男の子はもやいで引き取りました。彼ははなにがしたいかよくわからないというんですね。生活保護の手当てもパチスロで使ってしまったりする。こういう人をどう考えるか、ということになる。

あるいはネットカフェで暮らしていた人で、派遣で働いていた28歳の人が来たこともあります。彼は静岡にいって工場で派遣労働をしていました。そこで上司に「君は働きぶりがいいから、主任候補にして正規で雇いたい」と期待されたので、辞めてしまったというんですね。不当解雇や職場でのいじめでなくて、チャンスを提示されることでやめてしまう。そんな彼をのことはなかなか理解しにくいと思います。

そんな彼らにつき合うなかで、何となく分かってきたことがあります。彼らは、自分に立ち入ってきた人間はとりあえず拒絶する、という反応を見せるんですね。同じような境遇の人が「僕らは塹壕で暮らしているようなものだ」といったように、敵・味方わからないけど、ともかく人が来ると刺すといった具合に。

こう考えると、働く意欲をもって面接に行くとか、失業をしたらハローワークに行くとか、そういったことはある条件-僕らはあたりまえだと思っているし、あたりまえでなくてはならないもの-の上に存在していることがわかります。だから彼らは、あたりまえだとして自分たちを精神的に追いつめていくわけです。貧困の問題は、働くということにも前提となる条件があって、それがないと意欲もくそもないというのを知る、それが貧困を知るということなんだろうと思います。もちろん経済的条件を見過ごしてはいけませんが。

「働くことができる」文化的条件とは 社会化する集団の不在


司会 阿部さんのケアワーカーの話と。湯浅さんの貧困の話という、お互いの接点とはどこに見出せるでしょう。

湯浅 阿部さんは労働の話をしていて、私は労働の手前の話をしているから少しずれてしまっていますね。

例えば資料のところに、「普段は引きこもっているけど祭のときには爆発的なエネルギーを引き出す」というような話が書いてありますが、そういうエネルギーを出す条件ということですね。『若者の労働と生活世界』で書いたのは、働くというのは膨大なエネルギーが必要だということです。新しい職場に行くということは、会ったことのない人たちに会って、使ったことのない機械を使って、やったことのない作業をやらなくちゃならない。そこで「これならうまくやれる」と思えることに、実は根拠はない。しかし、多くの人は失敗して怒られながらも、徐々になじみながらなんとか仕事をこなしていく。

これももやいに来た人ですが、35歳の人で、職には就くのだけれども1日でどうしてもついていけないと思ってしまう。彼は配送の仕事や、産業廃棄物の処理など、四回就職していていずれも続かなかった。でも、仕事がないわけではない。彼に働く気がないかといえば、それは違うと思います。

それは、これまで小さな成功体験を積み重ねてきたか、だと思います。逆にそういう成功体験の無い人が職場で「とてもこれはできない」と思ったとしても、それは彼にとってはどうしようもないことだっただろう、と。ここで彼が気持ちの切り替えが出来なかったのは、その条件がなかったからだろうと思います。そういう状態を私は〈溜めがない〉と呼んでいます。金銭的な余裕だけでなく、精神的余裕も含めてです。そんな溜めのない状況に長期に渡っておかれれば、人間誰しもそうなってしまう、と私は思っています。それは強い弱いではなく、ある種の人間の条件だと考えています。

そういった条件ではなく、全ての人間に与えられているのが人権のすばらしいところで、意欲の有無といったものをサービス提供の条件にしてはならない。だから彼に意欲を持てと言っても難しいし、出せるなら彼がすでに出している。今の労働環境はそうした溜めを増やす方向からとても遠くなってきている。過労死か貧困かと私はいいますが。そうした働き方を要求する労働環境になってきている。ではどのような労働環境にしたらいいのか、ということでようやく阿部さんとつながってきます。

阿部 若年者の労働の問題においては、労働条件の問題をまず第一に考える必要がある。それは忘れてはいけません。それをふまえた上で、働く意欲が無い人の話を考えると、これは文化の問題だと思います。

湯浅さんのいう溜めのない状態とは、国家と個人の間にある中間集団の機能が衰退しているという社会学の古典的な問題でもあります。国家と個人の間にかつては中間集団があった。例えば町内会だったり、ヤンキー集団、暴走族集団だったりしました。しかし、近代以降、中間集団が衰退し、国家と個人が直接に結びやすくなる-これを学校化する社会と呼んでいます。僕が東京で塾講師をしていて感じるのは、ヤンキーが少なくなったということです。昔は塾の一番後ろに坐っているのは、勉強や運動は苦手だけれども度胸はある、ジャイアンみたいな奴だった。でも今は、出来杉くんが坐っている。ヤンキーはどこに行ってしまったのか。

学校や家族から排除された若者は、社会的肯定感を得るために、暴走族やヤンキーといった中間集団に向かいます。その中間集団が剥がれてしまう、すると個人しか残らない。これが引きこもりの生まれる社会的原因のひとつとして考えられます。

中間集団に入った若者は、そこで過ごすうちに結婚して家庭を持つ、例えばそういったかたちで社会にでていく。湯浅さんのいう溜めとは、学校と家以外に社会化を行なう場所と言い換えてもよいと思います。それがなくなったとき、中間集団をどう構築していくか。暴走族やヤンキーを推奨するわけにはいきませんし、これに行政も苦心しているわけです。

そこで中間集団を持たず、社会的肯定感を得られなかった人が、それこそ職場にのめり込むようになってしまう。この中間集団がないと社会は不健全な状態に陥ってしまう。ただ、文化の問題だけに注目しすぎると、労働経済的側面を見失ってしまう危険性もあるのですが。

湯浅 職場は中間集団に入らないの。

阿部 職場は中間集団に入ってもいいんだけど、それだけにならない方がいいですね。つまり、ひとりの個人がいくつかの中間集団に属している必要がある。

湯浅 「好きが仕事」になって燃え尽きちゃうってこと?

阿部 例えば、よくある居酒屋の風景を思い出してください。店の外に出て、「ありがとうございましたー」とでかい声で言ってしまうような。そういった職場に居場所を見出す人は経営者に搾取されやすい。

司会 先ほど湯浅さんが言った〈溜め〉とはこのような理解でよろしいですか。

湯浅 これだけではありませんが、一つの形態ですね。家族が〈溜め〉になることもありますし。経済的側面からみると決定的なものであったりします。

阿部 家族は微妙なところがあって、最小のユニットを個人ではなく家族とする見方もあります。ただ家族というのは閉じられた領域ですので、危険な部分もありますね。

湯浅 いろいろと煩わしい面があるのは確かで、家族が有り難いこともあれば、抑圧する方向にも働くときがある。そのように職場も両面持っているのだと思います。両面あるのは確かで、そのよい面で生きることができたところもあるでしょう。その〈溜め〉という機能を見逃してはならないと思います。

居心地がいい場所の確保 〈溜め〉をつくるために


司会 中間集団を具体的にどのように再興していくか、とは重要な問題だと思いますが。

阿部 いろいろな人がそれぞれの目的をもって中間集団を作りますが、その機能を見極めずに潰してしまってはいけないと思います。中間集団はどんなかたちであれ必要であるということをまず認識することが重要ですね。

湯浅 僕らの活動というのは結局、溜めを増やせるような場所をつくるということなんですね。その基本的な条件は、何かしていないといてはいけない場ではない場ということですね。

例えばもやいでも毎週土曜日に喫茶店をやっていますが、そこに毎週来て寝ている人がいる。何をするでもない空間ですね。それでもたないという人は、みんなでコーヒーの培煎をしています。

こんなふうにいろいろな機能をもつ場所を作っていくことです。ある一定以上の基準の労働力に満たない労働者は排除するという働き方ではない場所。これを市場ベースにしていくのはきついけれども、受け皿を増やしていかなくてはいけない。こういう居場所というのは質より量、数が重要です。100人も200人も居心地がいい場所とはありえないので、せいぜい20から30人が適正規模。こっちでだめならそっちというように転々とする人もいるでしょう。それがないと社会は煮詰まってしまう。そういう働き方を目指していきたい。

〈溜め〉の機能をもつ場所を増やすとともに、生活も改善していく。ときに闘わなくてはならないときもあるだろうし、ときにはこういう闘いでない闘いが必要なこともある。そういうところで、溜めを増やしていくのが現在の活動です。

司会 最後に一言お願いします。

阿部 全体的に見て、社会の問題を見ていくべきだなと思いました。社会は経済だけで成り立っているわけではない。どのように「社会」という視点からものを見ていくか、それを考えていきたいと思いました。

湯浅 いま私のなかで切迫した問題として、「生活保護切り下げ」の問題があります。新聞記事でも出ましたが、厚生労働省が現在、生活保護扶助の切り下げを検討しています。多くの人にとってはあまり興味が向かないテーマかもしれませんが、直結していますので問題点を指摘しておきます。

一つ目は、生活保護を受けている人の収入が減っていくということです。今回の厚労省の論理は、世の中には生活保護以下の水準で暮らしている人がいるのに、貰い過ぎであるとしています。しかし、改善すべきは食費一回200円で暮らしているような生活保護以下の暮らしをしている人たちではないのか、という点。

二つ目は、生活保護の基準は日本に置ける最低生活ラインですので、行政の低所得者対策の基準になります。すると、生活保護の基準が下がればその他の数値も一気に下がります。例えば、就学援助基準や国民保険料免除基準などによって、低所得者層にとっては負担増になります。この低所得者層が貧困になって、さらに生活保護基準が下がる。貧困スパイラルになるということです。

三つ目には、基準が下がれば下がるほど、国は生活保護を負担する必要がなくなって、国の免罪になっていく。今、ワーキング・プアと呼ばれる人は統計上いなくなります。

こうしたことをマスメディアもなかなかとりあげないまま、厚生省がこそこそと決めている。できれば多くの皆さんに興味を持ってもらって、国の土台である最低基準に関心を持ってもらえれば、と思います。

司会 ありがとうございました。

《本紙に写真掲載》

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