文化

京大で子供を育てる 第4回 保母病と一環保育

2007.12.01

70年代の国の福祉政策においては、認可保育園の増設が大きなテーマとなった。そのなかで認可保育園となり、財政面の安定・乳児保育が達成された京大保育所。しかし、全国に先駆けて行われた乳児保育の実践が進むにつれ、保育士の労働災害が社会問題化するようになってくる。理論ではなく実際の保育活動のなかで生まれてきたこの問題は、保育所の労働環境としての側面を浮き彫りにすることになる。今回は保育士の労災認定から、乳幼児一環保育への取り組みをみる。(ち)

〈保育士の職業病の勃発〉

「6月になった。なんとなく腕、足の筋肉が痛いような気がしたが、別に気にとめなかった。7月になり、プレハブ園舎は特有の暑さで、子どもたちも、あせもと暑さのためによく泣いた・・・10月になるとますます痛みがひどくなり、腕はしびれるような感じになり、身体全体がだるく、指がふるえだし、字を書くのが苦痛だった・・・「保母病」と診断された。「保母病」という職業病があることなど、私は知らなかった。毎日やめることばかり考えていた」(『朱い実の子どもたち』より)

このころから、乳児保育をする保育士の中に肩こり、腰痛などの症状を訴える人が出てきた。

原因には、子ども一人当たりの保育士の不足と保育労働の特殊性がある。多くの保育園で、0歳児6人につき保育士は1人(朱い実保育園ではは3人につき1人)、5歳児になると35人につき保育士1人。そのような人員配分のもと、常に全員の様子に目を配らなくてはならないため休憩がなく、9時間労働。いわゆる3Kの職場であった。幼い子どもを預かるという精神的緊張に加え、乳児を抱くために首・肩・腰を酷使する作業姿勢が、保育士の身体を蝕んでいた。

「保育へのニーズが増加するなか、腰痛やけい腕の痛みを個人の病気にしてしまうことが多かったですね」71年秋に朱い実で働き始め、現在も保育士として働く黒田百代さんは当時をこう振り返る。朱い実では1人の保育士がけい腕の痛みを訴え、後に保育病の労災認定訴訟の原告の1人として関わっていくことになる。

朱い実に子どもを預ける保護者や職員らは、当時労災認定されていなかった「保母病」を認定させる運動の一方で、職業病が起こらないような保育現場づくりに取り組むこととなった。朱い実ではともかく「休憩をとろう」とし、子どもから離れる時間をとることが意識的になされた。また、保護者が1時間早く迎えにきて、保育の手助けをした。「保護者と一緒にやってきたから、働きながら育児もしやすかった」と黒田さんは振り返る。

〈乳幼児一環保育へと〉

乳児保育を行っていた朱い実・風の子両保育園であったが、発足後3~4年すると新たな問題が生じてきた。

毎年、両保育園はあわせて40名ほどの卒園者を送り出す。その卒園者の受け入れ先となる保育園を探すのが年々困難となった。

保護者側からの「3歳以上になっても同じ保育園で」という要望もあり、両保育園では保育の対象を0歳児から就学前まで広げる乳幼児一環保育の計画がなされる。乳児と幼児、2つの異なる保育を扱うということで、単一の働き方を原因とする「保母病」の改善につながるのではという期待もあった。

はじめに京都市との折衝が行われ、乳幼児保育園の転換のためには社会福祉法人を設立し、両保育園の安定的な運営にあたることが条件とされた(当時、保育園の運営は社会福祉法人にしか許可されていなかった。その後の99年の児童福祉法の改正、03年の地方自治法の改正をへて、現在では民間企業やNPOでも運営できる)。

76年、京大職組は大学当局と協議を行った。そこでは、法人のための国有財産の無償貸付、従来の定員外職員派遣の見直しが焦点となった。結果、9項目の「申し合わせ」が結ばれ、大学側からの援助を引き続き取り付けた。学内共同保育所および両保育園への乳児保育部分への職員派遣は11人に削減されたものの、引き続き職員の派遣は継続された。

77年4月、社会福祉法人「樹々福祉会」が設立された。朱い実・風の子保育園の組織、運営の安定化が増した。市から援助をもらったとはいえ、園舎はお世辞にもよいとはいえない環境だった。このころ子どもを預けていた理学研究科職員の大槻義実さんは「(園舎は)プレハブのトタン張りで、夏の暑い日には屋根にスプリンクラーをつけていました」と語る。

すでに75年より大学側から土地が提供されなかった途中入所の0歳児については、運営委員会や入所希望者の会が協力し、共同保育所を維持してきた。早く生まれた0歳児2~3人は、「昼間里親」と呼ばれる個人宅に預けることになった。そのほか同年度に生まれた0歳児は、朱い実保育園の北部にある「梁山泊」の裏側の民家を利用して、共同保育所とした。そこには10人ほどの子どもが預けられた。

また、共同保育所で働く保育士を確保する策として、共同保育所と両保育園の間で保育士の融通がなされた。大学から派遣された職員は、まだ途中入所の少ない年度当初、ベテラン保育士の指導の下で両保育園で研修を行った。その経験を基に、年度後半は共同保育所で保育にあたった。また、共同保育所には両保育園から保育士の派遣も行われるなど、緊密な連携がなされていった。

〈福祉政策が進んだ70年代〉

70年代は日本全体が福祉国家に向けて舵を切った時代であった。67年に約1万200ヶ所だった保育所は、80年には約2万2000ヶ所に、定員は98万人から212万人へとそれぞれ2倍近く増大した。

児童福祉法が施行された48年には1476ヶ所だった保育所も、出生率の増加、共働き家庭や核家族化をうけ、80年には約13倍の2万2000ヶ所に増加したことを見てきた。少子化により、この増加は80年代に落ち着きをみる。一方で、朱い実保育園では毎日新聞の国費二重取り批判記事を受けて、大学との関係が徐々に変わりつつあった。次回は、80年頃の朱い実での保育活動をみるとともに、変わる京大との関係をみていく。

《本紙に写真掲載》