〈講演会録〉戦後日本のなかの沖縄―日米安保・密約とメディア 前編(2012.08.01)

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西山太吉(にしやま・たきち)氏
1931年山口県生まれ。慶應義塾大学大学院卒業後、1956年毎日新聞社入社。政治部記者として、外務省記者クラブキャップ等を務める。1972年沖縄返還に伴う日米間の密約に関する機密書類を違法に入手したとして、外務省事務官とともに国家公務員法違反で起訴。1974年一審は無罪判決を下したが、1976年二審で有罪、最高裁に上告するものの1978年上告棄却となり有罪(執行猶予)判決が確定。2005年国家賠償法に基づく賠償請求訴訟を起こすも、2007年東京地裁は「除斥期間」を理由に請求を棄却(2008年最高裁は上告を棄却)。2009年澤地久枝さんらとともに密約に関する情報公開の「不開示」決定の取り消しを求めて提訴。2010年一審は原告の訴えを認めたが、2011年二審は密約の存在を認定しながら「文書は存在しない」として原告敗訴の判決。原告側は判決を不服として現在最高裁に上告中。
主な著書に『沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟』(岩波書店、2007年)、『機密を開示せよ―裁かれる沖縄密約』(岩波書店、2010年)がある。
(シンポ資料より抜粋)


7月28・29日、同志社大学寒梅館ハーディホールにて、同大教授・浅野健一ゼミ企画によるシンポジウム「国策とメディア-沖縄と福島から」が開催された。28日にはシンポジウムに先立ち、沖縄返還協定における密約が白日の下にさらされるきっかけを作った「西山事件」で知られるジャーナリストの西山太吉氏が講演。今なお日本社会に大きな禍根を残している沖縄米軍基地問題の歴史的経緯と、現代日本メディア・政府が抱える構造的問題について語った。

今号では、西山氏の講演の前半部分をお伝えする。



はじめに

今日のテーマは「戦後日本の外交史」のようなもので、膨大でかつ深いものであります。これをみなさんにご理解いただくためには観念的・抽象的な話をしても面白くありません。戦後日本の中の沖縄はどのような存在だったのか、今それがどのような存在であり続けているのか。そして同時に、戦後日本がどのような国家として存立してきたのか、その影響を受けた今の日本がどのような国家であり続けているのか。そういったことについて、具体例をたくさん挙げながら、例証的にお話したいと思います。


沖縄の併合と戦後日本の独立

ご存知のように、サンフランシスコ平和条約によって、日本は一応「単独講和」という形で独立国家として国際社会に登場していきました。これとともに日米安全保障条約というものも成立します。同時スタートを切るわけですね。その時に、今日まで続く深刻な問題が芽生えてしまいました。というのは、沖縄だけが日本の施政権から除外されてしまう。沖縄だけ米軍の占領状態が継続してしまったのです。

沖縄は1879年に日本に強制的に併合されました。朝鮮の併合はそれよりもずっと後でした。沖縄のほうが併合の先輩なのですね。1879年という年は、日本の軍国主義の第1段階が始まる年でした。東京招魂社という神社があったのですが、それが靖国神社になったのがこの年です。それまで沖縄は琉球という国家でしたが、これを以て日本となりました。それが第1の琉球処分と言われています。では第2の琉球処分とは何か。ご存知の通り、徹底した皇民化教育が行われた沖縄が太平洋戦争における本土の犠牲となり、島民の過半数が戦死した沖縄戦のことです。

そのような歴史的な背景を見ると、戦後、日本は形の上では「単独講和」を結び独立国家としてスタートを切ったといえます。その時点での第一歩として、沖縄を日本国内に吸収し、本土以上に厚遇するべきでした。ところが、当時の日本は沖縄をまた差別してしまいました。それが今の日本の国家形成に重大な役割を果たすことになります。第二次琉球処分までで、本来は沖縄への差別を終わらせなければならないはずでした。ところが今度は、いわば第三次琉球処分、つまり施政権を手放してしまいます。そしてこのことが重要なファクターとなりました。なぜかというと、沖縄を「返してもらう」というテーマが残ってしまったからです。


独自路線だった日本の外交

ここでもうひとつ問題があるのですが、これについてはこれまであまり取り上げられてきませんでした。その問題というのは、1952年に平和条約が発効され、吉田茂内閣が退陣してからの数年間の日本の政治状況のことを指します。吉田内閣の退陣後、鳩山一郎内閣、石橋湛山内閣が誕生しました。この時どういう状況だったかと言いますと、事実上の占領のため在日米軍が駐留し、しかもソ連・米国を対極とする冷戦状態でした。また、右派社会党と左派社会党が一緒になったのを受け、自由党と民主党が組んで自由民主党になり、自民党対社会党の対立構図ができた。いわゆる55年体制です。そのスタートを切った時の政治状況は、その後のものと全然違っていました。今から考えれば「そんな日本があったのか」と思うような政治状況が展開されていたのです。

当時の鳩山首相は極度の冷戦構造がある中で、河野一郎を連れてモスクワに飛んでしまいました。アメリカの最大のライバル、敵国であるソ連に行ってしまったのですね。アメリカが見ている中、電光石火です。そしてそれから、帰ってくるや否や国連に入りました。もしその時にソ連との国交回復をしていなかったら国連にはずっと入れなかったでしょう。10年、15年という規模で延びていたはずです。それをその時にやってしまいました。「アメリカさんはアメリカさんで考えがあるだろうが、日本には日本としての状況がございますので我々は独自の判断で行動いたします。あなた方にいちいち相談して了解を得るようなことはいたしません。我々はアジアの国であり、それもアジアに大きな負の遺産を遺した国であります。これを解決しない限り、国家としての我々の存立基盤は決して安定しません。同時に我々は太平洋の国です。この2つのファクターの中に我々の国が存立していかなければならない。したがって我々が独自の判断でやっていかないといけないことを分かってください」。こういう立場です。

また、外相が在日米軍の撤退を求めてワシントンへ発ちました。12年後は、日本は日本人の手で守る。あなた方が撤退してくれれば我々は自衛力を残存する。その背景には再軍備というのがあるのですが、それは自衛力増強です。それから「大義において在日米軍は陸軍の撤退から始めましょう、それから海軍・空軍を撤退してください」と言った。こういう提案を行いました。これを聞いてダレス国務長官は怒り心頭に達します。「お前たちは偉そうなことを言うが、何か起こった時に日本だけで守れるのか。俺たちが守ってやっているから国家が成り立つのではないか」とダレスが言うものだから、大喧嘩になってしまいます。結局その問題は棚上げ状態になり、一挙には実現しませんでした。アメリカからすれば、この国はやがてどうなるか分からないぞ、と危険視していたのでしょう。


米軍基地の沖縄への流入

国内的にはどうだったのでしょうか。沖縄にはまだ基地は少なかった。米軍基地が関東から中部地方にかけて集中的に存在しておりまして、ご存知のように砂川紛争が起こります。米軍の基地を拡張するというので、地区の住民が米軍基地になだれこみました。当時の激しさは、今の沖縄における米軍基地反対闘争などの比ではありません。しかも基地は関東近郊に集中しており、岐阜県にも、静岡県にも、山梨県にもありました。その周辺部ではいつもトラブル。そういう状況の中で、「これでは在日米軍をちゃんと維持できない」とされた。

それから沖縄の問題は始まったのです。国土の0.4%でしかない沖縄に74%の米軍基地が集約されています。なぜそんなことになったのかというと、沖縄が施政権外だったからですね。何をやっても自由だった。そして銃剣とブルドーザーで沖縄の適地を強制接収し、基地を作って東洋の要塞に仕上げたのです。もし日本が施政権を持っていたら絶対にできません。そこから日本の悲劇が始まりました。。その後、日本にどんどん基地をおかれることになります。「守ってもらう」ということに加え、「返してもらう」ということもファクターとして残っていきましたが、その「返してもらう」はずの土地がことごとく基地化されていったのです。米軍がどこに行こうが、どこで行動しようが、日本は何も干渉できません。そういう沖縄になっていく。その沖縄をいつかは返還してもらおうとする。そのことが日本の国家形成に大きなインパクトを与えるわけですね。


旧安保と新安保

そこにさらなるファクターが追加されます。それが1960年の日米相互協力及び安全保障条約です。鳩山・石橋内閣と続いた当時は旧安保条約を改定して新安保条約を作ろうなどといったアイディアはほとんどありませんでした。旧安保条約というのがどういうものだったかを新安保条約との対比で説明しましょう。これは「在日米軍は日本側のたっての要請を受けて駐留している」というものです。きわめて受動的なのですね。お前たちが要請するから我々は駐留するのだ、という論理です。また紛争など日本および極東の安全に関する重大な事態が発生した場合、在日米軍はその紛争の解決のために「貢献」する。要するに、絶対的・義務的に日本のために抗戦するなどとは全く考えていなかったということです。サポート、あるいは協力するという感じです。それが旧安保条約でした。そこに石橋内閣が出てきて、ますますその傾向が強くなる。鳩山、石橋と続く中でソ連との国交が回復され、次は中国との国交正常化だとされました。中長期的な日本の政治的・経済的独立を十全たるものにするためには、中国との国交を一刻もはやく正常化し、過去の歴史を清算しなければならない。これこそ日本国家発展の原動力であるという発想で石橋湛山首相は日中国交正常化交渉の青写真を描き、実践に入ろうとします。しかし不思議な事に彼は2ヶ月して病に倒れてしまった。半年ほどの療養が必要だという診断によって、結局退陣してしまいます。その後で岸内閣が誕生しました。


新安保と核密約

岸信介と石橋湛山はその前の総裁選では岸が1位、石橋が2位でした。そこで2・3位が連合を組んではじめて石橋内閣が誕生します。本当に数票の差でした。しかしその後、突然石橋が退陣してしまった。自動的に岸内閣に交代します。この内閣は日本の安全保障が非常に不安定だと思っていました。アメリカが守ってくれるのかどうか分からない、これでは日本は経済的には発展したとしても、その基礎の部分がきわめて不安定だ、と考えたのです。アメリカに守ってもらうほかない。それで、アメリカの日本防衛義務、絶対的な責任を法制化しようという話になったのです。新安保条約というのはその一言につきます。

その時に、保守本流中の本流であった池田勇人らの派閥、宏池会でさえも、岸内閣を止めようとします。1つの国家の存立、安全を他の一国に全部委ねてしまえば、日本という国が将来何らかの行動を起こす時に何もかも規制されてしまうだろう。従来通りのフレキシブルな旧安保条約が最善だとしました。アメリカと日本の存立基盤は異なるため、国際関係法も変わってくるだろうし、日本独自の判断も要るようになるだろう。日本が自由に行動できるという含みを残しておかなければならない。やがてアメリカが国際的に何か行動を起こした時に、全てサポートする必要があるようになってはだめだと、池田は言いました。

しかし岸信介は旧満州を統制していた法制官僚の御曹司でありましたし、東條英機内閣の商工大臣です。彼には統制し、法制化(秩序化)するという発想がありました。天才的な商工官僚ですから強引に事を進めたのです。10万人以上の学生、労働者を中心としたデモが国会に乱入しようとしたあの時のことです。私は当時首相官邸の政治記者クラブにいたので、それを目の当たりにしていました。

ちょうどその時に、日米密約がはじまったのです。その密約の構造が軌道にのり、ずっと続いていく。

どうして密約を結んだのかについてですが、「守ってもらう」ことになると、何でもかんでも言う事を聞かなければならないというイメージが非常に強く残る。それに伴ってインテリ層が「アメリカの戦争が日本の戦争になる」と主張します。それに対して岸首相は、「そんなことは気にしなくていいよ」という態度をとりました。いくらアメリカに防衛責任を全て背負わせるからといって、何もかもアメリカの言う事を聞かなければならないわけじゃありませんよ、日本の主張があればアメリカにだって物申しますよ、こういうことを当然言うわけです。岸という人物は秀才ですから、それでなんとかしてしまった。こうして、核の持ち込み、在日米軍の朝鮮半島への出兵、師団および大規模な兵力の移動、以上3つに関しては事前協議の主題とする。安保条約第6条の付属交換公文の、国会における承認要件となりました。これだけやれば反対もそれほど起こらないだろう、という政治判断ですね。

ところが豈に図らんや、それら3つのうち2つは全くの嘘でした。国会の承認案件が虚偽表示されたのです。日本の悲劇はここから始まります。つまり対米でコミットしたことについては都合のいいことだけしか国内に出さない。都合の悪いことは全て隠す。こういう構造はここから始まった。それが、沖縄密約の原点です。在日米軍が自由自在に朝鮮半島に出動できる。そして核の持ち込みについては、当時まだアメリカの軍艦・艦艇はほとんどが原子爆弾を積んでいました。核戦略が完熟していないわけですから、中距離弾道弾・大陸間弾道弾がきちんと整理されていない。だから、太平洋艦隊、戦艦、航空母艦に積めるのです。それが横須賀、佐世保などを出たり入ったりするわけですね。日本は核の持ち込みに反対なので、いちいちチェックしなければなりませんが、アメリカにしてみれば「そんなことできるか」ということになります。核があるのかないのか分からない、つまり否定も肯定もしないという中で抑止力が働く。それなのに「この軍艦に核が積んである、この軍艦には積んでいないなどとバカなことを言うな」と言われる。結局、密約によっていちいちチェックはしない、ということになり、核の持ち込みが自由自在となる。「ラロック証言」というのがありまして、それが全て暴露しています。のち田中角栄内閣の時にライシャワー大使が大平正芳外務大臣のところまで来て、この密約について国民に告げてはどうかと言ったのです。しかし、彼は結局言いませんでした。


沖縄返還をめぐる政治状況

そういう中で、沖縄が施政権外に置かれているため、アメリカが自由に使用できる軍事基地が沖縄に集約していきます。それに「守ってもらう」というファクターまで加わった。これは大きな制約となります。日本の国際交流は重大な規制を受けるわけです。そういう状態の中で、1967年くらいから沖縄返還の動きが始まる。当時の内閣は池田の後を継いだ佐藤栄作内閣でした。

当時、中国の国連の代表権はまだ台湾にありました。中華人民共和国が中国大陸を支配しているにもかかわらず、台湾に逃げ込んだ政府が中国を代表している状況でした。60年代、70年代初頭というのは奇形的な状態だったのです。佐藤内閣は絶対的な台湾防衛論で反共の急先鋒でしたから、中国との国交正常化なんて頭にひとつもない。徹底的に自説を守るという立場です。また、北朝鮮との国交正常化の問題もありました。反共の見地からいえば、絶対に国交正常化する必要などない。ご存知のように昭和30、40年代の岸内閣および池田内閣において完成した「所得倍増計画」もあって、超高度成長期です。ですから経済・社会政策は内閣にとってそれほど緊急の課題ではない。こうして内閣の至上命題は沖縄返還となります。


沖縄返還要求の失敗

池田内閣がなぜこれをやらなかったのかと言いますと、全島要塞自由使用―全島どこにいってもアメリカ軍が自由自在に使える強大な軍事基地、これをもし今すぐ返還するとなると、沖縄の基地は日本の基地ですから日本の基地が全て一緒くたになってしまいます。つまり自由使用の普遍化、日本の沖縄化が起こる。これが第2の安保闘争以上の闘争を起こす事が予測された。せっかく経済成長が持続している中で、それだけは当面回避しなくてはいけないとの判断のもとで、池田内閣では沖縄返還問題は扱われなかったのです。

そして、そこに目をつけたのが佐藤内閣でした。佐藤は1964年、池田総理3選のときからのろしを上げました。その時、彼は「池田は沖縄返還問題を扱わないというが、俺はやる」と言った。ただし、ここに問題がありました。佐藤首相が本格的に問題に取り組んだ時には、彼は総裁ですでに3選していました。1968年、ベトナム戦争の真最中から本格交渉に始まるのですが、その時点で3選してしまっていたのです。任期は2年ですから、もう6年経っている。それで4選ですが、これが70年に始まり72年に終わります。そして5選というのはまずありえない。10年になるわけですからね。そうすると4選の時点で何としてでも沖縄返還をやらなければならない。72年までに返ってこなければ沖縄は佐藤内閣のもとで返ってこないことになる。そういう逆算で、外交交渉に期限をつけてしまう。

何十年に一度とない外交交渉に、佐藤は期限をつけてしまった。これが第2の悲劇です。外交交渉というのはもうその時点で負けなのです。アメリカは日本の足元を見た。ベトナム戦争の真最中、B52が嘉手納空軍基地で爆発炎上事故を起こし、基地反対闘争が起こります。ライシャワー大使が国務省・国防省・ホワイトハウスに対して施政権を返還すべきだと提言します。それが基地反対闘争沈静化のための唯一の手立てである、と進言したのですね。それで結局、アメリカは施政権返還という問題に本格的に取り組もうということになります。幸いにして、72年までに沖縄を返してくれと日本が言っている。そこで考えた。72年に返すには、71年に議案を国会に出さなくてはいけません。そのためには69年には交渉を全て終わらせておかなければならない。そこで1969年5月28日に、その後発覚するメモランダム13号という、極秘対日交渉方針が生まれます。「佐藤さん、あなたは72年までにどうしても返してもらいたいのだろう。そうでなければあなたは内閣のもとで沖縄返還が果たせない。だから、これを全部認めなさい」と足元を見られてしまった。

それからわずか4ヶ月で沖縄返還交渉が全て終わっていました。日本側がアメリカの要求を全部飲んだからです。その要求とは一体何だったのか。第一に、北朝鮮から台湾を経て、南はベトナムに至るまで東アジア全域について、在日米軍が出動する際は事前協議の対象としない、というもの。2番目は核密約です。核は非核三原則のもとで一応撤去することになっており、これに反すれば佐藤内閣は即座に退陣しなくてはならない。だから日本は核を撤去してくれと言います。抑止力については依存するけれども、核については沖縄からは撤去してくれと。するとアメリカは「駄目だ」と言います。アメリカは基地の自由使用を確保するためにそれを約束していたのですが、緊急事態が起こった場合には持ち込むとしました。辺野古、那覇、嘉手納。これらの場所には今なお核基地があります。その時から、この3箇所を温存することになっていたのです。これが核密約です。


闇に包まれた核密約

核の交渉は若泉敬という人がやりました。一方外務省は、基地の自由使用についてのみ扱うことになった。外務省は核の密約のことなんて全然知らない。これは前代未聞の外交交渉です。核に関しては機密中の機密ですから、最初から密使がやっているのです。逆に、若泉は基地の自由使用については全く知りません。それで外務省に対しては、核については全然交渉をやらないと言う。こうやっているうちに基地の自由使用が約束されました。若泉は、核の問題こそ沖縄返還を左右する決定的な要因であるから、これは何としてでもやり遂げなければならないと考えた。だからこの密約だけは守らざるをえないとしたのです。

こうしてとうとうホワイトハウスの別室で密約が結ばれました。佐藤首相とニクソン大統領の実名の署名で。密使は後にメモランダム13号を見て、「核交渉は日本の生命を賭けたものだと思っていたのに、単なる基地の自由使用のための手段だったのではないか」と理解しました。建前上撤去するということになったのに、それが基地の自由使用のための手段にすぎなかったのです。彼が核密約を暴露したのはそれに対する怒りからです。彼はその後、沖縄の慰霊碑の前で謝罪し、自決しました。そういう密約であるにもかかわらず、外務省の有識者委員会は「密約ではない」とします。両国のトップが実名で署名したにもかかわらず、ですよ。キッシンジャー大統領補佐官は「これはこの4人しか知らないものだけれども、後々に重大な影響をおよぼすものだから、国務長官にだけは知らせておきたい」ともちかけましたが、若泉はそれを拒否しました。

外務省の調査で沖縄の密約を密約でないとする最大の理由は、佐藤首相はその密約を後任にバトンタッチしておらず、それでは効果はないから、ということでした。私はこんな解説をはじめて聞きました。佐藤首相は自邸の引き出しにこの文書を隠していました。後に次男が見つけ、それを公表します。一方、アメリカはキッシンジャーと密使の約束にもかかわらず、こんな重要なものを国務省に預けずにどうすると、長官のもとに持って行き、ちゃんと保管しました。後に、若泉によって暴露された草案は朝日新聞がアメリカ国務省に照会します。開示請求ですね。この核草案はニクソン・佐藤の間で取り交わされたのだからアメリカにもあるはずだ、と言ったのです。長いこと返事はありませんでしたが、やがてそれに照合する文書はあるとアメリカは認めました。


「思いやり予算」について

もう一つ、メモランダム13号を巡る話があります。核の問題、基地の自由使用、みんなアメリカが勝ちとった。絶好のチャンスだから、ついでに72年までに取れるだけ取れ、ということになります。それが財政上の密約です。柏木・ジューリック密約と呼ばれるものですが、あらゆるアメリカ軍事施設の維持・管理に関連する費用も日本が負担するということにしたのです。沖縄返還までは米軍基地の施設区域の提供だけは無償だと取り決められていました。賃料をとらない、ということですね。その施設を改良・修理したり、移転・維持したりするための費用は全部アメリカが自分で支払うということになっていました。そこでアメリカが目をつけたのが、今日における「思いやり予算」をとりつけることでした。要するに、施設区域の提供だけではだめだと。米軍施設改良工事費用として2億ドルを掲げ、そしてそのうちの6500万ドルをとりあえずスタートさせます。電信文の中にその数字がありました。これは完全な違憲機密です。というのも国会の承認案件であるうえ、税金から支出されるものでしたからね。これを外に出せば国会で通らないだろう。軍事支出が一気に増えることになり、米軍基地はずっと固定化するからです。そこで今度は見逃してくれと言ったのですが、アメリカは頑として聞きません。それで6500万ドルは機密事項として協定から外し、5年間に渡って「密かに」提供することになりました。国民はたまったものではありません。

1978年から「思いやり予算」が62億円でスタートしたとみんなは思っています。しかし実は、そうではなかったのです。72年からずっと秘密裏に提供していたのだけれども、お金がなくなってしまったので、仕方ないから表に出てきたのです。それでその62億円が200億、300億、1000億、2500億と膨れていく。現在、米軍基地に対しては思いやり予算を中心に毎年5000億近くを計上しています。アメリカは絶対に日本から離れないでしょう。現在、電気・光熱・ガスも全て無料、日本人従業員の給料も無料。アメリカが今負担しているのは米軍の給与と装備費だけです。この仕組はそのようにして始まったのです。結局沖縄は最重要基地として扱われることとなり、日本に包摂されるという返し方がありえなくなってしまいます。あらゆる摩擦は封じ込められ、絶対的矛盾がこの密約によって調和していくことになりました。そしてそこに、ずっと続いていく日本の国家構造ができあがっていく。最も権力を持つのが官僚、つまりは外務・防衛官僚です。隠し事がどんどん増えていく中で、確固たる地位を保全できるのはやはり官僚なのです。だから外務官僚が今や絶対的な権力を持てるようになった。そういう二重構造が新安保条約と沖縄密約の中から生まれてきて、対米従属構造を固定化させる流れにつながったのです。(次号に続く)

〈講演会録〉戦後日本のなかの沖縄―日米安保・密約とメディア 中編(2012.09.16)

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