企画

〈企画〉うわっ、私の意識低すぎ…?雑誌を読んでishiki sky high!!!

2012.06.01

※この企画のタイトル名は編集部のミスにより草稿段階のものが紙面に掲載されてしまいましたが、都合上そのままWEB掲載致しております。



現代は高度に情報化した社会だ。一説によると年平均1.5倍ほどのペースで情報量が増えており、全世界の情報量は現在では15世紀の3億倍とも言われている。あなたが知りたいと思ったたいていの情報は、インターネットを検索したら見つけることができる。しかし、現代に特有の問題がある。情報量があまりに多すぎて、何が本当に知りたいのか分からなくなってしまうのだ。

雑誌は私たちが自分で調べる代わりに、ある視点からためになる情報をひとまとめにして提示してくれる。5月病が治りかけ、何かとやる気が出てきた読者たちに、有名雑誌から無名のディープな雑誌まで、編集員選りすぐりの雑誌をご紹介したい。(編集部)



『冤罪File』(宙出版・450円)

冤罪事件への誘い



本雑誌は冤罪を扱った雑誌である。記事の内容をざっと紹介すると、冤罪事件がどのような構図で作られたかの説明、冤罪の疑いが濃い事件における有罪判決文の問題点の指摘、裁判官の品格と銘を打った裁判官の経歴紹介等である。様々な観点から冤罪という事象に真っ向から取り組んでいる。

記事は図や写真を多く用いて分かり易く書かれている。だからと言って、内容が容易に理解出来るというわけではない。例えば冤罪の疑いが濃い事件を扱う場合、警察の捜査結果や検察の主張や判決文の内容が弁護側の主張と異なる。そのため読者は各々の主張の内容を把握し、それらを相互に比較することを強いられる。記事の中で警察の捜査結果や検察の主張に矛盾や論理の飛躍があると指摘されていれば、自身でそれを把握する必要がある。冤罪は複雑な過程の結果として生み出されるので、この雑誌を読むためには頭をフル回転しなければならない。もしこの雑誌の結論だけを取り上げて、ある事件は冤罪だと決めつけるのなら、それはテレビや新聞のニュースの内容を鵜呑みすることと同じであり、この雑誌のひとつひとつの事件を取り上げながら、その事件の裏に潜む「冤罪の構図」を多くの人に知ってもらいたいという意図に反するだろう。

テーマが重いためか売り上げが良いわけではないみたいである。(第10号から他の雑誌の増刊号という形となり、そして表紙に女性モデルが起用され始めた。発行回数は創刊当初の年4回から3回に変わっている)確かに読んで楽しいという雑誌ではないし、冤罪に向き合うことが大変であることは事実だ。けれども、冤罪は私たちの社会生活を揺るがすという意味で向き合わざるえない問題なのだ。ぜひ一度この雑誌を読んでみてはいかがだろうか。(狭)



『月刊シュミレーション』(月刊シュミレーション編集室・400円)

日常を「シミュレート」



ある晩私は途方に暮れていた。この記事の〆切を明日に迎え、段ボールの散らばる下宿の中で縮こまっていた。すべては昨日来た荷物によってもたらされた段ボールのせいである。段ボールが煩雑に散らばり畳を埋め尽くすこの空間では、この物体を処分する事で頭がいっぱいになり記事を書くどころではない。まずはこの邪魔な物体を退けねばならぬ。しかし京都に住んでいる人ならおわかりであろうが、京都は段ボールの処分がとても煩わしいのだ。いや、だが〆切が迫っている。私は段ボールを片付けることによって、記事を仕上げ、悠々自適な〆切ライフを送る生活を模索し始めた。

私の知っている段ボールの仕方は以下の三つだ。一つ目は、下宿のマンション・アパートの回収に出す方法である。しかしそんなシステムは私の下宿にはない。回収を行っている友人の下宿に置き去りにする事も考えたが、まずそんな友人を持っているかどうかもわからないうえ、友人たちに「君の下宿先では段ボールの回収を行っているかい」などというメールを夜な夜な送りつけるのも気が引ける。やめだやめだ。

二つ目は、日中大音量の音楽を鳴らしつづけトラックで京都市内を徘徊する古紙回収業者を捕まえ、段ボールを回収してもらう方法だ。なんとも簡単そうに見える方法ではあるが、私の下宿先は二階にあるため、音楽を聴いてから瞬時に段ボールを抱え、家を飛び出さなければ業者を捕まえることはできない。しかし奴らと来たら回収する気もないのか、かなりのスピードで町中を徘徊しているのだ。これでは段ボールを持って奴らを引き止める事は至難の業である。これも却下。

最後の方法だが、段ボールを細かく切って燃えるゴミとして捨てる方法だ。一人寂しく狭い下宿でカッター片手に段ボールをシコシコと切り刻む。なにを間違えこんな惨めな労働をせねばならぬのだ。一度引っ越し後にこの作業を行ったことがあるが、あまりの惨めさに、私はなにか悪い事でもしでかしたのだろうかと何度も自問自答を繰り返す羽目になった。数多の下宿生から段ボールが忌み嫌われる理由はこれである。もちろん私はこのような労働をする事が悠々自適な〆切ライフの一端を担うなど認める事などできない。却下である。

さて、そうこう思案しているうちに〆切は過ぎ、私は下宿で記事を書くことに見切りを付け、講義室でこの記事を書いている。この月刊シミュレーションという雑誌は、読者が世の中の様々な事象をシミュレーションするために作っている、というのだ。まさに先日私が段ボールの処理について頭を抱えていたのも、シミュレーションと言えるのではないだろうか。この雑誌の最新号では「消えること」について様々なシミュレーションを行っている。「明日消えるとしたら私がシミュレーションすること」を何人もの若者にインタビューしてまわったり、憎いアイツを消す方法についてシミュレーションしたりしている。その他、お風呂のなかでおしっこをすることについての話記事、サン=テグジュペリ「星の王子様」の続きを考える記事なども掲載されている。

この雑誌は様々なシミュレーションと編集部の遊びで溢れている。いつもと違う日常。いつもと違う風景。そして、自分とは違う人生。この記事を読んでいるあなたもこの雑誌を手に取り、様々なことをシミュレーションしてみてはどうだろうか。(湘)



『プレジデントFamily』(プレジデント社・780円)

親子で楽しむ受験のバイブル



対象読者は主に中学受験を備える子供をもつ親である。とはいえ、子供も十分に興味深く読めるであろう。

京大の学生は早くから受験に対する意識を持っていた人が多いと考えると、もしかしたらあなたの両親もこの雑誌を購読していたかもしれない。かくいう私はそうであった。

中学受験を経て、大学生になった今この雑誌を読むと、ある種の懐かしさが感じられ、親の苦労が偲ばれる。

この雑誌は、主に教育に関する様々な話題についてを取り上げている。

中学入試の具体的な情報のほか、大学入試で成功した人の体験談に加え、毎号異なる特集から成る。今号の特集は「貯金術」。

教育にもお金はかかるが老後の資金も心配、生活費もかかる、という人に向けてお金を貯めるための「意識」「心がまえ」を教えている。あまり具体的なものではなく、その点、抽象的であったり、賛成しかねる部分も多かった。

はたまた、「成功原則を子供に教える『7つの習慣』ワークブック」という記事では、成功するために大事なこと、というものは年齢にかかわらずあてはまるものであるということを再認識できた。

付録として算数ドリルがついていたのも魅力的である。大学生が解くとちょっとした頭の体操になるかもしれない。

この雑誌は全体的にインタビューなども多く、いろいろ想像をめぐらせることができる。とはいえそこからなにをくみ取るかは各人次第ではある。故に読者が求めるものが少しわかりにくかった。記事にしても理想論であったり、賛成できない部分はあるものの、こういう考え方もあるというぐらいに捉えるなら十分有用なはずだ。受験雑誌というよりもライフスタイルの指南書として親子で楽しめる雑誌である。(酔)



『COURRiER Japon』(講談社・780円)

世界をCurationする雑誌



クーリエ・ジャポンは他の雑誌とは一味違う。この雑誌は、独自で取材した記事がほとんどないのである。そんな雑誌はつまらないのではないか、と思うかもしれないが、そんなことはない。この雑誌は、世界中の1500を超えるメディアから情報を編集・翻訳しているのだ。

筆者が最も面白いと思った記事は、白人の若者に「選民思想」を叩きこむ南アフリカの「極右キャンプ」に潜入した取材記事だ。「自衛スキル」を教えるとの大義名分で集められた10代の少年たちが、キャンプ生活をしながら実際には差別的な思想教育を施される。少年たちがいかにして変わっていくかという記述もさることながら、写真で切り取られるキャンプの風景が何より衝撃的であった。

「世界から見たNIPPON」という特集では、アメリカや韓国、ロシアなどの雑誌や新聞に掲載された日本に関する記事を翻訳している。ニューヨークタイムスの記事では会津若松市が外国企業の誘致に取り組んでいることが紹介されている。ロシアの雑誌の、ロシア人記者が日本のサラリーマンに密着取材をしたという記事には、あまりにわざとらしく「会社人間」のステレオタイプが描かれていて辟易してしまった。

その他、「あの「有名企業」で働いてみたら」という特集では、最近上場したフェイスブック社やサムスン電子といった企業での労働者の内実が語られている。

これらの記事はいわゆる「2次情報」であり、他の雑誌などの記事を翻訳して掲載されたものだ。しかし、言語の壁があって簡単にはアクセスすることのできない情報が多い。その上、仮に数か国語を読むことができたとしても、膨大な量の雑誌から本当に興味深い記事を見つけることはなかなか難しい。

佐々木俊尚氏の著書によると、最近、キュレーションという言葉が英語圏のウェブで用いられているという。キュレーター(キュレーションする人)というのは日本では「学芸員」などの意味でつかわれている。世界中にある様々の芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展として成り立たせる仕事である。

一貫したコンセプトに沿って世界中のメディアから情報を収集し、それを翻訳して一つの雑誌に仕上げる。そんなクーリエ・ジャポンは780円という価格の割にオールカラーで写真も豊富であり、なかなかに費用対効果の高い雑誌と言えるかもしれない。(P)



『愛鳩の友』(愛鳩の友社・1200円)

〈豆鉄砲〉 食らうのは読者



イギリスの作家、カズオ・イシグロ(1954年~)の代表作『日の名残り』(原題:The Remains of the Day)に、『季刊執事』という雑誌が登場する。プロフェッショナルとしての矜持を持つ執事たちの間で広く読まれているものらしい。郷愁と陰影に満ちたこの作品の中で、どういうわけだかその雑誌の名前だけがはっきりと私の記憶に残っている。

『季刊執事』はフィクションの産物であるとしても、思うに中身よりもそれを読む人の方が気になる雑誌というものは確かに存在するようだ。『月刊廃棄物』、『月刊測量』、『月刊下水道』―これらは全て実在の雑誌である。人から「『京都大学新聞』? そんなのがあるんだね」と言われることに慣れきっている私としても、これほどニッチな雑誌が作られ、かつ人々によって読まれているという事実にはただただ感服するばかりである。

それこそ毎日のように発行されているおびただしい数の雑誌の中から、今回私が紹介するのは『愛鳩の友』(愛鳩の友社 毎月10日発行)だ。犬猫に関する雑誌はたいていどこの書店にでも置いてあるものだが、こちらの雑誌は大型書店でもなかなか見つからない。しかし専門誌とあって、その編集の力の入れようには恐るべきものがある。鳩レースの詳細な結果報告にはじまり、ベテラン(もちろん飼育者のほう)へのインタビュー、競売欄、などなど。なるほど、この雑誌はエリート鳩の育成に日々を捧げている人たちにとっての必読書なのだ。

まず見開きを覗けば、清楚にすませた表情の三羽の鳩の写真と、「若大将系・現代最高配合」の文字。どうやら「レース入賞常連鳩」専門店の広告らしい。これがプロとしての矜持というものなのだろう、心なしか三羽とも流し目気味である。

そう、例えるなら陸上競技専門誌だ(あちらに競売欄はないけれど)。あるサプリメント(鳩専用)の広告が表現するように、彼らはまさにアスリートそのものである。
それにしても、鳩にも色々といるものだ。体格や配色は言うに及ばず、仔細に見ているとそれぞれの個性が浮かび上がってくる(「どういうふうに?」と聞かれても私には答えられないのであしからず)。鳩レースとなるとさっぱり専門外だが、これに情熱を捧げている人たちの姿を見ていると私もそわそわしてくるような気がする。これを読んで下さった読者のどなたか、「京都大学鳩レース部」、作ってみませんか。(薮)



『美術手帖』(美術出版社・2000円)

現代美術との付き合い方をデザインする



美大生や美学を専攻する学生にとっては言わずと知れたバイブル、そのポップな表紙とは裏腹に内容は比較的硬派な現代美術専門雑誌、それがこの『美術手帖』である。創刊は1948年。数ある美術雑誌の中でも、とりわけ古い歴史を持ち、戦後の美術ジャーナルを代表する批評誌だ。内容は多岐にわたり、新進気鋭のアーティストや過去の偉大なモダンアーティストの批評から、美術館やアトリエの紹介、美大生の進路に至るまで、毎号、目新しい特集を組んでいるのが印象的である。近年は現代美術のみならず、サブカルチャーの色合いを一段と濃くし、読者の裾野を広げているようだ。

本誌の醍醐味は、コンパクトなA5サイズの紙面にこれでもかと詰め込まれた批評と作品写真である。一冊読むだけで、モダンアートに関する知識が増えること請け合いだ。例えば、今月号(6月号)は『日本近代美術の傑作150』という特集だが、全作品に700字程度の解説が付いている。美術館デートに行く前など、本雑誌で知識を仕入れてはいかがだろう。キラリと光るインテリジェンスに女の子は心惹かれずにはいられないかもしれない。

さて、知的さを演出するためにこうした知識を学ぶのもいいが、もしあなたがモダンアートを心から愛するのならば、それだけでは勿体ない。モダンアートにとって思想や哲学はア・プリオリである。逆に言えば、モダンアートの鑑賞に際して、それを知らずして何を語れようかというものだ。今度は一人で美術館に行ってみて、卓越した作品の前でその意味するところを考えてみよう。アーティストのコンテクストを知った上で主体的に解釈する。一方で、作品が自身の感性に訴えかけるものを客体的に自覚する。この相互の働きかけを通じた鑑賞経験の蓄積こそが審美眼を鍛えるのだと私は思う。本誌が多量の批評や芸術哲学についての記事をのせていることが、まさに鑑賞の手助けとなるのである。

本誌のもうひとつの魅力は全国の美術館の豊富な企画情報である。インターネットの普及で便利な世の中にはなったものの、物臭な私の様な学生にとって山ほどある美術館を検索し好みの企画を見つけて、というのは非常にめんどくさいものだ。一目でどこでどんな企画があるか分かるというのは、やはり美術に特化した雑誌の強みであろう。

蛇足ではあるが、モダンアートなんてさっぱり分からないという方は昨年の本誌、9―16号の佐々木健一・日本大学文理学部教授によるインタビュー記事を参照されたい。多くの人が抱える芸術に対する疑問に答えていて、理解の助けになるはずだ。(羊)