〈生協ベストセラー〉橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』 (講談社)(2012.04.16)

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トンデモ本の真相は如何に


宗教ないし宗教学について右も左も分からない門外漢の私が、本書にコメントを付けようと思い至ったのは、一つには、今をときめく二人の社会学者によって書かれ(元は対談であるが)、「新書大賞2012」なるものを受賞したその話題性に起因する。しかしそれ以上に、この本に捧げられた数々の批判を見るにつけ、かえってその興味をそそられたということの方が大きいのかもしれない。昨年の発刊以来、実地の神学の立場から、史実や引用、解釈に関する認識の不足や誤りがそれこそ無数に取り沙汰され、「この本に対する批判が論文になる」といった類の皮肉まで飛び交っているほどである。

本書は3部構成をとり、キリスト教の起源としてのユダヤ教についての考察、イエス・キリストをめぐる疑問、近代「西洋」社会とキリスト教の関係を、大澤の進行のもと橋爪が解説を述べる、という形になっている。特に批判が多いのはユダヤ教、イエス・キリストをめぐる第1部・第2部であるが、かえって批判の少ない第3部は、悪く言えば「入試世界史の回答」という感じがしていささか生ぬるい印象を受ける。

予め述べたように、史実の真偽を判定するほどの知識を私は持たない。確かに、素人の私にもにわかには受け入れがたい箇所がなかったわけではない。例えば橋爪は、キリスト教における「奇蹟」が「奇蹟」たりうるのは、万物に自然法則があることが前提となっているとする。自然法則が停止することによって初めて、「奇蹟」は「奇蹟」として認識される。そう述べる一方で、別の箇所では、イエスが生じせしめたと聖書の告げるところの「奇蹟」が、実のところ、合理的な―自然法則にしたがった―説明がつくような余地を残しているという。とすれば「奇蹟」とは一体何ぞや。「奇蹟」と「自然法則」の関係はきわめて曖昧な―決定不可能な―ものとなる。これは「奇蹟」という言葉の多義性のせいか、さもなくば論理の矛盾か。「ふしぎ」は依然として残る。

しかし「社会学者が専門外のことを語るな」と額に青筋を立てるほど不出来な本であるとも思えない。両者が専門とする社会学の論理を宗教にあてはめるとこのようになる、という一つの提示として読むに越したことはないのである。マックス・ウェーバーのユダヤ教・キリスト教解釈を敷衍しつつ、キリスト教について抱きがちな疑問に(「答え」ではないものの)切り口を与え、ひいては現代社会の諸問題の一視座を提供している点で決して無益ではない。恐縮ながら大変常識的な結論を述べさせていただくが、新書に対しては「眉唾」で接しつつ、有益な「視点」を得ることができればそれで充分である。(薮)

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