複眼時評

舟橋春彦 高等教育研究開発推進機構教授「当世風「恥」の文化に思う」

2012.03.16

「電車やバスで席を譲りますか? またその時、恥ずかしいような照れくさいような抵抗感は感じますか?」と尋ねられたら、あなたはどう答えますか。

私が前任校に移る前、京大の理学部物理教室の教員をしていたときに、4回生の「課題研究」(実験中心の数名のゼミのようなもの、「卒研」相当の4回生通年課題)を担当していました。その年度初めのメンバーの自己紹介で、規定課題としてよく与えたのが先ほどの質問です。まぁ別に質問内容は何でもいいんです、好きな食べ物でもアイドルでも(アイドルは、たまにテレビを全く観ない者が居たり、深すぎる者が居たりするのであまり適切ではないですね、そもそも私が当時はテレビを観ない者でした)。名前と出身地と3回生でやった「課題演習」(3回生ゼミとでも思ってください)を挙げたら言葉に詰まる、理学部物理にはよくいる〈古典的にシャイな理系男子〉に、継ぐ穂先を事前に振っているワケです。〈自由になれる束縛〉というものです。なんでも自由に、と言われるよりも、制約のせいでアタマが動き出すことはよくあることです。

私が京大生として上洛してすぐのころ、約30年前ですが、「京都はすごいな、市バスの優先席がよく機能している」と感心したことを覚えています、最近はどうなのでしょう。冒頭の質問を課していた頃は自分も譲る側の動機で尋ねていました。でも、もうしばらくしたら席を譲って貰いたい側になる今の私としては、若い人が譲り易い文化風土が定着したらいいなぁと思うようになりました。「規定課題」をしばらくやってみて意外だったのは、みなさん「恥ずかしい・照れくさい」への共感の表明があまり多くなかったことです。(その表明自体が恥ずかしかった?)もしくは抵抗感がもっと強いのか、そもそもその立場に自分を置かないように「席が空いていても座らない」という回答も結構ありました。

AC(公共広告機構)のテレビ広告「〈こころ〉はだれにも見えないけれど〈こころづかい〉は見える」(宮澤章二「行為の意味」)の映像表現から察するに、「恥ずかしい・照れくさい」抵抗感は一般的なことだと思うのですがどうなのでしょう。「規定課題」を切っ掛けに、あわよくば〈席を譲る恥ずかしさ照れくささの由来とその克服〉についてまで議論を深めたいと思っていたのですが、そこまで掘り起こし損ねています。きっと文系の先行研究があるだろうと思います、ご存知でしたらご教示下さい。一方、「シャイな理系男子」と同質なのかもしれないけど、私の学生時代には少なかった〈社交的な男子〉の割合が増えている気がします。「社交的」なのが、う~ン、むしろ、〈厚化粧で素顔が見えない〉カンジに思えて気になります。これもイマドキの青年心理として既出なのでしょうか。

理学部物理教室時代のコミュニケーション関連の想い出をもうひとつ。

益川〈さん〉のお蔭で、理学部物理教室の文化風土がいくらか紹介されました。そのひとつに、〈先生よばわり〉しないで〈さん付け〉の人称を使うことがあります。その風習の来歴も、受け継いでいるひとの受け取り方も、一通りではないようですが、私は好きでした。大切に思って来ました。「さん」は、相互互恵の過不足ない敬称ではありますが、だからこそ、進学してきたばかりの院生には、研究室を主宰する「先生」を「さん」付けで呼ぶのに緊張を強いられるのが普通です。そんな不自然かもしれない風習ですが、でもまぁ、それなりに慣れていくものです。何に慣れるのでしょう。

物理の民主的な雰囲気に慣れるのではないでしょうか。私は自分について、物理教室・研究室で民主主義を学んだ、と言っていいと思っています。「民主主義」というとなんですが、個人が尊重され主体的なフルメンバーとしてコミットする体験、と言えばいいでしょうか。一方、科学は民主的な討論の無いところでは育たない、ということがあるようです。若輩者も主体性を持って、間違いを恐れず、と云うのは難しいことですが〈間違う権利〉を振りかざすくらいに、自由にいろんな発想を出し合い、長幼の序に遠慮することなく己の学問だけを賭けて議論する、それを尊重する文化風土に育てられた、と思っています。

その伝統の歴史についてまだ不勉強ですが、少なくとも戦後の日本の民主化と原子核素粒子物理の発展と相携えたものがあるようです。その継承者であることの意味が年を取るにつれ意識されます。自由に予想(仮説)を出し合って民主的な討論を尽くし、そして実験で検証する、そんな研究の過程を、〈教養〉として学んで欲しいと思い、共通教育科目「全学向初修物理学」を担当しています。

最後に、ご卒業・ご入学のみなさんへ。

皆さんが、職業研究者にならないとしても、いづれの職に就いても、京大出の人材としてそこで〈研究的〉な働きを期待されるものと、私は思って自分の持ち場に就いています。卒業までに自身の主体的な〈研究〉を体験する(ことと、それに連なる諸々の)ことが〈高等教育を受けるということ〉だと思います。自分の専門分野を絞り込んで具体的な研究テーマをやり遂げたひと・悔いの残るひと・見出しつつあるひと・ようやくこれから探すひと、いろいろでしょうが、職業研究者の学術的な活動だけが〈研究的〉と限りません、どこにあっても、〈新しいことを拓いていく〉ためには研究的な取り組みが求められることでしょう。ご活躍を期待しております。仮説社刊行の月刊誌『たのしい授業』最新号(2012年3月)の巻頭論文に板倉聖宣「『間違える権利』の発見」が掲載されています、ご一読をお勧めします。間違えることを含むいろんな発想を歓迎する文化風土に恵まれ〈研究〉がたのしく進められますように。