文化

三浪の境地とは 編集員センター試験体験記

2012.01.23

私は、三浪の一回生である。つまり、去年までセンター試験を受験し続けていたわけだ。 去年、やっとのことでセンター試験を終えられたというのに、記事を書いてくれと頼まれたものだから、また今年もセンター試験に関わることになってしまった。

さて、冒頭にも書いたが私は三浪である。もうほとんど、「プロ受験生」である。なかなかに恥ずかしい肩書きではある。まあ、そんなことはいい。兎にも角にも、私はセンター試験を複数回受験している。実体験の中から伝えられるものがあるかもしれない。

その年のセンター試験、窓の外には雪が降っていた。私は、ぼんやりと雪を眺める風を装いながら脂汗を流していた。そう、腹痛である。異常なほどの便意が私を遠い世界へと誘おうとしていた。おかしい、試験前にはトイレに行っていたはずなのに。いかん、今、原因を探している時間はない。とりあえず、試験に集中すべきである。そうは思うもののテストに気持ちが向かって行かない。気を緩めると、別の部位が緩んでしまう。それが本能的に分かってしまったのだ。トイレに行く時間も、もはや残されてはいない。

ジリ貧に追い込まれた私は、その年もセンター試験を失敗した。もちろん、学力が足りていなかった面もある。それでも、あんまりではないか。当時の私はそう考えていた。しかし、それは間違っていたのだ。センター試験の何たるかを把握していなかった故の過ちであったのだ。

センター試験の本質とは何か。実に単純なことであった。センター試験の本質とは、センター受験生は人を辞めろという要請であったのだ。人を辞めて機械になれという要請であったのだ。そんな事はセンター試験の過去問をやっている段階で気づいておくべきであった。あのような制限時間において、あのような形式を採り、あのような種類の問題を出す。本来あるはずの、問題を解くという喜びをすべて排除し、ただ黙々とマークシートを塗りつぶす作業を強いる試験。試験会場で周りを見回してみるといい。人間的な感情を発している者は、明らかな「違和感」として浮かび上がるだろう。

つまり、私が言いたいのは、センター試験のシステムに組み込まれた以上は、機械として問題を解き続け、車がなんの躊躇いもなく二酸化炭素を吐き出しているように、なんの躊躇いもなく糞を漏らせということなのである。そして、それこそが人間復帰への一番の近道となるのだ。(猪)