文化

〈学生自主管理空間のいま〉VOL.4 吉田南キャンパス篇 名前と共に消えゆくA号館の記憶

2012.01.17

今回は吉田南キャンパスにおける主要な課外活動スペースだった旧A号館(現吉田南総合館)の動向を取り上げる。ただし旧A号館は「自主管理スペース」ではなかった。地下こそ学生が占有していたが地上階は昼間授業に用いられる教室を放課後は学生らが利用するという形態を取っており、しかもこの課外利用をめぐる公式のルールや自治団体といったものは存在しないある意味完全に「自由」な空間だったからである。そしてそのような場だったからこそ、場を守ることの難しさもあったといえる。

2010年4月16日号掲載の第3回から間隔があいてしまったことをお詫び申し上げます。

2001年まで

いま吉田南総合北館(共北館)がある場所には、総合人間学部(旧教養部)A号館北棟という三階建ての薄汚れた建物がそびえていた。もともと1936年に旧制第三高校の校舎として建てられたのだが老朽化が進み「なかは薄暗く、いくら掃除されていても、いかにも汚そう」な状態であった。

もっともこの建物には古いほかにもある大きな特徴があった。夜間や休日になっても出入口が施錠されることがなかったために、授業時間以外は24時間365日の自由な使用が事実上可能だったのだ。

まず講義用の教室。放課後になれば音楽・演劇系を中心としてさまざまな団体が学内/学外を問わずやって来て夜通し何かしらの活動をしていた。1限の授業に出席する学生が教室に入ると疲れ果てて寝ている使用者に出くわすこともあった。なお使用形態についても事務に申請すると優先的な使用は出来たが、ほぼ「暗黙の了解(いつもこの時間帯は●●サークルが××教室を使用しているという慣習や、教室の黒板に△時から使いたいと書いておけば優先される等々)」で自然と棲み分けができていたという。

そして地下。吉田グラウンド側から「A号館北棟地下に24時間直接出入りできる階段」が存在した。建物の西半分程のスペースが使用可能で、階段を降りるとまず大きなテーブル・イスと周囲には本棚や物置等がおかれた「共有スペース」があり、さらに進むと国際関係論研究会(SIRCUS)、京都大学放送局(KUBS)、A地下Bar・BlackRiot、ハイマート合唱団、オリエンテーション同好会、持久走同好会、プロジェクトP、総人学部連絡協議会といったサークル・団体のBOXがあった。ところでBOXといっても地下スペースには壁がなく、使用者が各々ベニヤなどで仕切りを作り、通路や各自の活動スペースを確保していたそうだ(各BOXは立派な部屋となっていた)。

こうした利用形態は1960年代末からの大学紛争期に学生による「占拠」として始まったものが、いつの間にか慣習化していったものだった。つまりA号館の使用について学生ら使用者側と総人学部当局の間には明文化されたルールなどは無く、潜在的には当局側がいつ使用の規制をかけてきてもおかしくない状態だった訳である。

常に誰かしらがいる状態だったため「下手な場所よりよっぽど安全」だったという。京都大学に入学し最初の授業をA号館など吉田南構内で受ける一回生にとっては何ともインパクトのある空間でありいわば「最初の洗礼」ともいえた。

A号館北棟の建替え

さてA号館北棟建替えの費用が翌年度予算で着いたことが2001年12月中旬に発覚する。寝耳に水の報であり、使用者の有志はすぐに宮本盛太郎総人学部長(当時)を追及。「関係者に議論もせず事を進めるのはおかしい」「今迄使用できていた課外活動スペースが無くなるのは大きな不利益。たとえ学部長が予算にサインしても活動場所を保障しないのであれば居座る」「自由の学風を標榜しながら当事者を無視して施策を強行するのか」と訴えた。建て替えをすんなりと認めてしまえば、使用者はみな路頭に迷うという危機意識があったのだった。

翌02年1月にA号館北棟の建替えは決定してしまう。ただ即座に直接責任者(学部長)に訴えたのが功を奏したのか、工事期間中の代替スペースをめぐり交渉が出来ることとなった。

もっとも使用者の間でも姿勢はバラバラであった。それまで「当たり前」に使えた活動の場が永久に失われかねない危機感は共有されてはいなかった。また地下でBOXをもっている団体の「既得権」維持を求める声に応えたり、これを機に新規のBOX獲得要求をする団体への対応など、使用者内での利害対立の収集にも苦労する。とりあえず「A号館北棟の件は現行使用スペースの移行問題と捉える。それ以上の権利を勝ち取るのは現状として難しく当事者が個別に交渉する」こととし、現状の代替場所確保に全力が注がれた。

2002年・代替スペースを巡る交渉

ここから約半年間はA号館使用者にとって自転車操業状態であった。まず学部への要求をまとめるために地下使用者への呼びかけをする必要があった。。前述したようにA号館の使用は「暗黙の了解」に基づいていたため、公式な使用者団体は存在せず、それを構築するところから始めねばならなかった。そこから使用者内での議論、そこで形成された要求の実現へ向け学部側と交渉をする、その結果を受けまた使用者内での話し合い、という一連のサイクルを同時平行で進めた。

毎週1、2回のミーティングやメーリングリストのやり取りで議論がつづけられる。学部側に焦りを見せてはならないと、個別団体が勝手に当局に掛け合うことはしない、決定済みでない議論内容を口外しないといったルールがつくられた。

代替スペース確保は各使用団体に「従来と同じ活動が出来る条件」をさせるため、細かな所まで設備等の擦り合わせがなされた。クライミング用の設備がおける場所、11月祭で女装カフェができる場所、雑音の入らない場所、吉田南構内の建物でかつ絶対地下など、多岐に渡る要求を実現させるために使用者側、学部側双方が図面との戦いであった。音出しに向いている教室はどこかを説明させたりプレハブ教室もプロジェクターが使えるように、などギリギリまで話し合いが続いた。

これらの細かな要求を満たす代替えのサークルプレハブBOX設置、そして吉田南A号館南棟地下の教室と代替え教室用に設置されたプレハブがA号館北棟開放教室の代わりとすることで話がまとまり、8月2日には「今回工事において失われる活動スペースの代替スペースを総合人間学部執行部は用意する。同時に代替スペースの周知活動をする。」「半年後に、活動場所を一方的にロックアウト等しない。使用可能とすること。」「※・教室・ボックス使用方法については現状を維持する。」など8項目にわたる確認書が交わされた。そして02年8月5日、慌ただしいごたごたの中、惜しまれる余裕も無くA号館北棟は取り壊され、66年の寿命を終えたのだった。

それからは翌03年4月には吉田南2号館(現1号館)が完成し、授業場所としてのプレハブが不要となることをうけ、A号館使用者はプレハブの残存か2号館の課外活動場所としての使用をもとめる総人教務と交渉していたが、「学生の言い分を聞いた上で決定する」という程度の返事のみで不透明な状況が続く。

2003年・突然の管理権変更

03年3月、こんどは同年4月から吉田南構内の施設管理が新設される高等教育研究開発推進機構に移管されることが突然発覚し、息つく間も無くこれが実行された。吉田グランド周囲のサークル代替BOX及びプレハブBOXが引き続き総人学部管理となった以外、全ての建物管理権者が機構に変わった。

貸出し可能教室がA号館東西南棟および残ったプレハブに設定されたが、5月には「5月12日より、教室は21時に施錠する」のビラが機構事務部名義で張り出される。旧A号館使用者は抵抗する方針を確認するも、同月12日からは施錠する動きや、使用団体のチェック等が始まる。加えて夏期休業期間中は5教室のみの開放、また開放時間も8時45分〜21時に限り、学生部への申請を必要とする、といった規制強化案が矢継ぎ早に提示され、「A号館で課外活動を行う学生を完全に締め出そうとしているのではないか、と勘ぐりたくなる」ほど、強硬な機構の施策が出るたびに、使用者は条件緩和を求める交渉を行った。

国立大学法人化を前にした学内再編が盛んだった時期ではあったが、このタイミングでの管理者変更は使用者側にとって想定外だった。機構側は「総人と我々は違うので、確認書などは知りません」と事実上先年の確認を無効だとし、交渉は難度を増した。機構側には学外者も多数出入りし「無法地帯」となっていたA号館の状態を一気に「正常化」したい考えがあった。「今までは近隣住民からの夜間の騒音苦情が多く、ついに地域の自治会から訴訟を起こすといわれた」という説明で総人人環、機構連名の「課外活動における吉田南構内、とりわけ東側の騒音・大声等は一切禁止する」の警告(03年9月16日付)を出したりもした。他方で一定のルール内、つまり使用申請を大学当局に出し規則の範囲内で活動するサークルに関しては、引き続き使用を出来る環境をつくりたいとの提案をする。するとBOXをもっていないが公認がある団体は殆どこの提案に乗る形となり、吉田南キャンパスの課外活動スペースを巡る動向は、旧来のA号館的なスペースの維持から、A号館使用者会議加盟団体と当局側双方が納得できる活動場所の確保を目指す交渉へと大きく変質してゆく。

なおこの時期から法人化全学団交実の動きが活発化し、A号館使用者会議もこれに参加。同年12月の法人化総長団交では「総合人間学部 、高等教育研究開発推進機構 、学生部の間で調整・検討を行い 、学生など当事者に不利益とならないように対応する」という言質を得ている。

4号館への活動場所移転

2004年4月、国立大学法人化とときを同じくしてA号館北棟跡に現在の吉田南総合館北棟(共北館)が完成する。A号館から吉田南総合館へ施設の名称が変更されているのは、このとき行われた吉田南構内にある施設の一斉名称変更の一環である。共北館は吹き抜けも導入した清潔で明るい内装が施され、コンビニや自習室など快適性を追求した設備を備える一方、19時には教室が完全施錠されるA号館北棟とは全く別の施設である。いや、そもそも名称上も別施設となったのだから「A号館と違う」との指摘自体が愚問なのかもしれない。

吉田南総合館北棟(共北館)

課外活動用の教室は前年より吉田南総合館各棟に分散していたわけだが、施設の管理権者たる機構はこれが静穏な研究環境を目指す際の障害になると判断。その「解決策」として吉田南4号館(4共)を講義教室専用の施設に改修し、課外活動向け開放教室を全て4号館へ集約する方針を決定する。そして4号館の改修工事が04年度を通して迅速に進むのだが、課外活動への貸出しは平日のみで、21時で完全施錠する、という課外活動を大幅に縮小せざるを得なくなる条件を提示する。

これに対し旧A号館使用者会議は4号館への活動場所集約は受け入れたうえで、04年末からその使用形態をめぐって機構側と交渉を続ける。その結果2005年4月の4号館供用開始に際して「申し合わせ」および同申し合わせの「運用方針」のかたちで、事前に教室使用の予約申請をすることで実質的な休日を含む24時間使用を可能(利用時間以外の利用サークル等から、事前に午後9時以降の利用時間延長の願い出があった場合は、共通教育推進課長の判断により、それを許可することができる。「運用方針2(1)」)とし、かつ旧A号館使用者会議加盟団体であれば公認/非公認にかかわりなく教室使用の申請ができることが保障されたのだった。ちなみに新歓期および11月祭前には吉田南総合館の一部教室でも追加的に教室使用を認めさせ、煩雑期の教室不足が解消するという「成果」が生まれたのもこのときである。そして活動場所移転にあたって旧A号館使用者会議は吉田南教室使用サークル連盟へ改称し、課外活動スペースとしての「A号館」は名実ともに消滅したといえる。

そして現在

その後、吉田南総合館東棟地下のボイラー室ヨコに移転していたA地下Bar・ BlackRiot、京大放送局のBOXが、施設改修工事の影響で2007年8月に吉田グラウンド横のハーモニカボックスへと移転したことで、総合館から学生が自主活動のために占有しているスペースは消滅した。吉田南総合館では新歓期と11月祭以外で普段から学生が教室での課外活動に没頭する姿は見られない。

吉田南教室使用サークル連盟は4号館での教室使用を機構ら大学当局側に保障させるべく現在も活動を続けている。近隣住民からの苦情については、教室使用中は窓を開けない、夜間はブラインダーをおろすなど対策をしっかり取るようにしたため今ではほぼ無いという。なお近秋から連盟の加盟要件を公認団体に限るよう規定を変更している。きっかけは機構側からの要望だが、ここ数年は加盟団体がみな公認団体であり現状特に問題がないと判断してのことだという。

今からみると夢か幻のようにも思えてくるA号館というあまりにも「自由」すぎる空間。かつてA号館によく入り浸っていたという元学生のひとりは「京大の雰囲気、というか正確に言うと古き良き京大イメージというのは、京大生独りがつくっていたものではなく、相当程度「学外」の人等の自由な往来が担っていたものだと思う。それを可能にしていた「土壌」があのA号館だったのではないか」と話す。いまの吉田南キャンパスはその痕跡を見ることすら難しい。

旧A号館の課外活動スペースをめぐる動向

01年12月 A号館北棟の建替え予算決定が浮上
02年1月ー7月 A号館使用者会議結成。以後、総合人間学部執行部と工事期間中の代替スペース確保をめぐって交渉。
02年8月2日 宮本盛太郎学部長(当時)との間で「確認書」締結。
02年8月5日 A号館北棟取壊し。A地下のBOXはプレハブ等代替えへ移転。また当面は代替のプレハブ教室およびA号館南棟地下教室を解放することに。
03年1月ー3月 プレハブ教室撤去および吉田南2号館(現吉田南1号館)完成後の教室利用についてA号館使用者会議と総合人間学部の間で交渉。
03年3月12日 吉田南構内の施設管理権が吉田南1号館(現総合人間学部棟)を除いて4月から新設される高等教育研究開発推進機構(以下、機構)へ移管されることが判明。
03年4月1日 機構発足。プレハブ教室はD号館横の2教室を除いて撤去。代わりにA号館南・東・西の各棟の計12教室が解放される。
03年5月1日 「5月12日より教室は21時に施錠する」の告知が機構事務部より出される。その後21時以降の使用団体追い出しや使用者調査が行われるようになる。
03年夏 機構、課外活動使用教室の4号館集約方針を打ち出す。
03年12月3日 長尾眞総長(当時)との全学団体交渉。その際A号館など吉田南キャンパス内の施設使用について学生など当事者に不利益にならないよう対応すること、を確認。
04年4月 新しいA号館北棟が完成。同時に吉田南構内の施設名称が変更される。自転車通行の規制、立て看板の禁止、「歌舞音曲」禁止の掲示等が立て続けに打ち出される。
04年度 4号館改修工事開始。
04年7月26日 機構、「学生の課外活動のための施設利用に関する申合せ」を決める。
04年末 旧A号館使用者会議と機構の間で改修後の4号館使用形態をめぐり交渉。
04年12月 吉田南総合館北棟地下にローソン出店。国立大学法人へのコンビニ出店は初。
05年3月 「「学生の課外活動のための施設利用に関する申合せ」に関する運用方針」結ばれる。
05年4月 4号館改修工事終了。教室使用サークルの活動場所が4号館に移る。旧A号館使用者会議、吉田南教室使用サークル連盟に名称変更。
06年8月―07年3月 吉田南総合館東棟の改修工事
07年8月ー08年3月 吉田南総合館西棟・南棟の改修工事。これに伴い西棟地下ボイラー室横の京大放送局およびBlackRiotのBOX が吉田グラウンド横ハーモニカBOXに移転。