森慎一郎 文学部・文学研究科准教授「がんばろうの話」(2011.09.16)

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先日新体制が発足した民主党の総会で「がんばろう三唱」をやっていたらしい。らしい、というのは、実は七月のアナログ放送終了以来、うちではまだテレビが映らないからで、だから実際に映像を見たわけではなく、新聞にそういう写真が載っていたのだった。もちろん映像で見たければユーチューブなどで簡単に見られるのだろうが、そんなものわざわざ見たくない。というか、写真を見ただけで、なんだか恥ずかしくなってしまった。

この「がんばろう三唱」は、巷ではわりによく行われているのだと思う。選挙運動、決起集会、何かのプロジェクトを立ち上げるときなど、とにかく「団結」なり「気合」なりを訴える、あるいは誇示するパフォーマンスが必要な場にはおなじみの光景と言ってもよさそうだ。

いつから、どういう事情で行われているのかは知らない。ぼんやり想像するに、まず「団結」や「気合」を叫び声で表すことが必要な状況があって(この前提がそもそもわからないような気もするが)、そういうとき、とりあえず「万歳三唱」ではおめでたすぎるし、「エイエイオー」だと何やら運動会みたいで子供じみている(それにどちらも多かれ少なかれ戦争を連想させる)、といったところだろうか。

もっとも、子供じみているという点では「がんばろう三唱」も「エイエイオー」も大差ないような気もする。全員声を揃えて叫ぶという文脈で、この二つにさほど意味的な違いがあるとも思えない。しかも「エイエイオー」なら三秒で済むが、「がんばろう三唱」はたぶんその倍はかかる。とにかく気合がいるのなら、いっそ「オリャー」とか「アチョー」とか、ひと言でもいいんじゃないかと思う。そのほうが恥ずかしい時間が短くて済む。

それとも、やっているほうは恥ずかしくないんだろうか。いや、たぶん恥ずかしいのだ。民主党の写真でもそうだったが(気のせい?)、威勢よく叫びながらも少しはにかんでいる人がいたと思う。「いい年をした大人が……」という思いは、見ている側だけのものではないのだ(たぶん)。そして一般に恥ずかしいことは、恥ずかしそうにやると余計に恥ずかしく見えるものである。

しかもこの「がんばろう三唱」をやるのは、というか少なくとも主導するのは、決まって「いい年をした大人」である。社会的な慣行なのだから当たり前といえば当たり前だが、子供はやらないし、若者も(たぶん)やらない。

などと考えているうちに、ふと、どうでもいいじゃないかと思った。意味がなくても、恥ずかしくても、慣例としてやっているだけなんだから。そういうものにいちいちケチをつけるほうこそ、大人げないんじゃないか。

そう、こういうのには名前をつけられる。端的に(かつアメリカ文学的に)言って、ホールデン・コールフィールド的。
『ライ麦畑』のホールデンくんは紋切型が嫌いである。たんなる習慣から口にされる言葉、見かけ倒しで中身のない言葉。ホールデンくんの闘いは、言葉の、社会の陳腐さとの闘いである。その意味では、ホールデンくんは文学的だ。

とはいえ、いちいち大人社会の嘘臭さに目くじらを立てるホールデンくんはやはり大人げない。本人は十五歳だからいいとしても、四十近い大人からホールデン的態度が抜けきらないとしたら、これはこれでかなり恥ずかしい。

そう言えばホールデンくんは、人に”Good luck!”と言われるのが嫌いなのだった。気が滅入るのである。空ろな言葉に聞こえるのだろう。そんなこと言って、あんたほんとはどうでもいいんだろ、と。

“Good luck!”、日本語ならさしずめ「がんばれ!」だろうか。

もちろん”Good luck”と「がんばれ」は厳密には違うし、「がんばれ」と「がんばろう」もまた違うわけだが、それにしても「がんばる」という言葉にはなんともいえない曖昧さがある。とにかく、何はともあれ、「がんばる」という、詳細をすべて棚上げにできる曖昧さ。

スポーツ選手のインタビューでよくあるように、「がんばります」というのは「それ以上訊くな」の婉曲表現だったりするし、人に「がんばれ」と言うときには、「まあいろいろあるけど、あとはそっちで」という、責任放棄的なうしろめたさがつきまとう。そして「がんばろう」にも、この「とにかく」「細かいことは抜きにして」前向きにという、なんとなく無責任な、いいかげんな気分が漂う。大声を張り上げるとなおさら。政治家の「がんばろう三唱」につい反応してしまう理由は、このあたりにもあるのかもしれない。

思えば小学校時代、友だちへの年賀状には「今年もおたがいにがんばろう」とばかり書いていた。たんに書くことがないから(だってすぐに顔を合わせるし)、無難だからそう書いていた。それぞれ熱中していることは野球だったり剣道だったりそろばんだったり、勉強が得意だったり苦手だったりするのだが、まあとにかく、何はともあれ「がんばろう」と。

それが思春期になると、そんな「がんばろう」のいいかげんさが、「がんばれ」の無責任さが気になってくる。要はホールデンである。ほんとはどうでもいいんだろ。

どうでもよくはないけど、結局のところ、他人のことなどある程度以上はわからないし、どうすることもできない。そう思えるようになればひとまずは大人、以後はわりに平気で「がんばれ」と言えるようになった。特に教師の立場になってからは、なんやかやでけっこう連発しているような気もする。勉強がんばれ、卒論がんばれ、就活がんばれ。どうでもいいと思っているわけではない。こちらにできることはこの程度と認めたうえで(何せ大学である)、本当に「がんばって」ほしいのだ。薄っぺらい言葉だなあと思いながらも。

でもこの言葉を本当に連発することになったのは、三月の地震のときだった。

三年半ほど前まで仙台の大学に勤めていたので、東北には知り合いもかなりいるし、土地にもある程度なじみがある。あの目を疑うような光景をニュース映像で目にして、その後二週間ほどはメールを出しては返事を書いていた。ありがたいことに、連絡したほとんどの人が返事をくれた。避難所にいます、宮城野区にいる祖母が心配です、すぐそこの幹線道路から向こうは津波で壊滅状態です、給水所の水でやっと水風呂を浴びました、原発がちょっと心配です。でも無事です、心配しないでください。

うーん、がんばれ。そうとしか言いようがなかった。向こうがどんなに大変か、こちらにいてわかるはずもないし、できることは文字通り何もない。その意味では、「がんばれ」の薄っぺらさ、無責任さは、変な話、一種の慰めでさえあった。

そして、「がんばろう東北」。そこにはもうホールデンくんの出番はない。がんばるって何をだよ、などと言える人間がいるわけがない。とにかく、何はともあれ、がんばろう。それ以外に何を言えるだろうか。この「がんばろう」はもはや祈りと呼ぶべきだろう。

まあでも、「がんばろう三唱」はやっぱりちょっと恥ずかしい。だから間違っても「大学改革がんばろう三唱」などということになりませんように。



もり・しんいちろう(文学部・文学研究科准教授/アメリカ文学)

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