京大教員の選ぶ一冊(2011.09.16)

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「読書は人生の糧である」とは、どこの偉人の言葉だったかすっかり忘れてしまったが、「高校生の間に本を読んでおきなさい」とは多くの国語教師や親たちがよく言う言葉であり、高校生の皆さんにはすでに耳にタコかもしれない。

ましてや、現代においては毎月大量の本が各出版社から刊行される。調べてみると、新書だけでも各社とも毎月4、5冊ほど出している。こんな文化状況において、一体何から読めばよいのか。その疑問はまっとうであるだろうし、読書を敬遠するのも仕方がない。

そこで今回、おそらく日本一本を読む人種であろう京大の教員方に、高校生の間に読むべき本を紹介していただいた。

(編集部)

田辺元『哲学の根本問題・数理の歴史主義展開』(岩波文庫)

~藤田正勝 文学研究科教授 より~

日本の哲学の歴史のなかでもっとも大きな足跡を残したのは京都大学で哲学を教えた西田幾多郎とその後継者であった田辺元である。しばしば「京都学派」という言い方がされるが、それは、この二人を中心に、その学問的・人格的影響を受けた人たちが形成した知的なネットワークを指す。

この「京都学派」に集った人々の思索を貫いていたものを一つ取りだすとすれば、それは「ゼルプスト・デンケン」ということになるのではないだろうか。「ゼルプスト・デンケン」というのは、「自ら考える」、「自ら思索する」という意味のドイツ語であるが、この言葉が、彼らのあいだで標語のように、つまり共通のモットーとして語られていたと言われている。ただ単に西洋の哲学を理解し、学ぶだけでなく、自ら主体的に思索し、自らの哲学を構築することが彼らのあいだで何より重視されたことをこの言葉は示している。

ここに選んだ『哲学の根本問題』は、田辺が戦後公にした『哲学入門』全四冊のうちの第一冊である。そのなかにもこの「ゼルプスト・デンケン」という精神が強く脈打っている。この書のなかで田辺は、過去の哲学者の思索を鵜呑みにしたり、過去の文献のなかに正解を探し求めようとする態度を強く戒めている。哲学の問いにおいてはしばしば互いに矛盾したような答が可能であり、本当に何が真理であるかは、自ら主体的に問い進めていくほかはないからである。哲学にとって大切なのは、たとえどんなに不確かな歩みであっても、「自分の脚で歩く」ことであるというのが、田辺の確信であった。

そのことを、田辺は本書のなかで次のように言い表している。「哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり、新しくするというところに成立つのですから、楽に、貰ってきたものの上に乗っておればいいというわけにはゆかない」。哲学は田辺にとってレディ・メイドのものではなく、全力を尽くして探究するものであり、そしてそれを通して自らが変わっていくことであった。そのような意味で哲学は田辺にとって学ぶものというよりも、むしろそれを「生きる」ものであったと言ってもよいであろう。

本書は哲学への入門書であるが、同時にそこにわれわれは田辺の哲学に対する姿勢、あるいは生きる姿勢というものを見てとることができる。その意味でも興味深い本である。

スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか―食糧危機の構造』(朝日選書)

~水野一晴 アジア・アフリカ地域研究研究科准教授 より~

「高校生に勧める一冊」の原稿依頼のメールを受けたとき私はナイロビにいた。その日、私はケニア山の氷河と植生の調査から戻ってきたばかりであった。今年のケニアは通常雨季の4―5月に雨が降らず、乾季のはずの7―9月は雨続きであった。ケニア山も山頂付近は雪が降り続け、調査も思うようにはかどらなかった。一昨年のケニア山調査の時には東側のチョゴリアの村に下山した。村のホテルでの朝食時、同行の研究者が声をあげた。「えっ! インスタントコーヒー?」彼が驚くのも無理はない。窓越しにコーヒーの木が山裾まで広がっているのが見える。アフリカの人々はコーヒー豆を生産していても、伝統的にコーヒーを飲む習慣のあるエチオピアなどを除けば、そのコーヒーを飲むことは少ない。それらの豆はほとんど先進国に輸出され、現地のアフリカの人々は世界最大の食品会社N社のインスタントコーヒーを買って飲んでいる。なぜ、なのだろうか?

「なぜ世界の半分が飢えるのか―食糧危機の構造」は私が大学生の時に読んで衝撃を受けた本である。それまであまりにも自分が何も知らなかったことを痛感したのであった。このときが、おそらく「アフリカ」をとくに意識した最初のときだったと思う。本書では、アフリカをはじめとする第三世界の食糧危機が自然現象変化や人口増加の結末として片付けられるものではないと主張され、先進国の政府と多国籍農業会社(アグリビジネス)、その支配する国際制度、さらには、他の地域に住む人々を飢えに追いやっている我々豊かな国の消費者の習慣等が、世界の貧しさや飢えに深刻に関わってきたことが論証されている。

先ほどのN社は当時アフリカ各地でポスターやラジオ広告、宣伝カーまで繰り出し、看護婦の格好をした販売員を産院に送り込んで、「N社製品の粉ミルクは赤ん坊を丈夫に育てる」と母親たちに信じ込ませ、時には退院時に粉ミルクと哺乳びんをただで配って売り込んでいったという。その結果、アフリカの母親たちは母乳を放棄し、生活に大きな負担となる高額な粉ミルクを買って、汚れた水とびんで粉ミルクを溶いて赤ん坊に飲ませるようになった。そしてアフリカの乳幼児の栄養失調と死亡者が増加することになるのである。

先進国向けの換金作物が増え続けるアフリカの農業は、近年の気候変化や異常気象にも大きく影響を受けることになる。干ばつの影響の少ない伝統的な自給的農作物キャッサバの代わりに、主に輸出用のコーヒーやお茶、たばこなどの換金作物が多く作られるようになってきた。干ばつになったときそれらの換金作物が人々の腹を満たすことはない。本書は30年以上前に書かれたものであるが、その構図はいまだ変わっておらず、ますます本書の警鐘は重要度を増している。ぜひ一度若い人たちに読んでいただきたいと思う。

ヨースタイン・ゴルデル(著) 須田朗監修 池田香代子訳『フローリアの「告白」』(日本放送協会出版)

~出口康夫 文学研究科教授 より~

「愛」。もっとあからさまに言えば「性愛(エロス)」をめぐる哲学的対決。それが本書のエッセンス。

ヨーロッパにおけるキリスト教の伝統を築いた立役者。教父の中の教父であるアウグスティヌスが、自らの信仰の軌跡を綴ったのが『告白』。西洋文明のバックボーンを成す歴史的(グレート)名著(ブックス)の一冊である。その『告白』には、彼がまだ十代の無名の若者だった頃から長年付き合い、子までもうけながら、最後には別れざるをえなかった女性が匿名で登場する。世界的ベストセラー『ソフィーの世界』の著者ゴルデルが、彼が「フローリア」と名付けたその女性の筆を借り、彼女の視点から『告白』の物語(ストーリー)を語り直し、アウグスティヌスの哲学、特にその「エロスの否定」に真っ向から挑んだのが本書なのである。

ここでのアウグスティヌスは、反論や弁明の機会も与えられず、一方的に叩かれる存在。また教父さまが「告白」していない真のスキャンダルを暴露する(ないしは「でっち上げる」)という「反則技」も繰り出される。さらにフローリアの文章にも、今や有名人となった元彼(モトカレ)と張り合おうと無理に背伸びしている様子や、二人を引き裂いた、アウグスティヌスの母への湿った恨みも伺える。読者は、「破れた恋」の負の側面も見せつけられるのである。

とはいえ、フローリアが、恩讐を超えて、アウグスティヌスの哲学を尊敬し、それゆえにこそ全面対決を試みていること。そして何より、彼女が、自分を傷つけた元恋人を、それでも今なお深く愛し続けていること。そこに本書の救いがある。一方のアウグスティヌスも、彼にとっても生涯唯一の恋人だった彼女の『告白』に真面目に応答し、自分の立場を、微妙だが、決定的に変えた人物として描かれている。彼も単なる「悪役」ではないのである。

セックスは人にとって根源的なこと。でも、溺れず媚びずそれについて語ることは難しい。その困難なトピックに真摯に向き合う点で、二人はやはり似た者同士。アウグスティヌスは、自分の回心の物語を紡ぎ出す際に、見苦しいほど、とことん「性」の問題にこだわった。もちろんフローリアも、まじろぎもせず正面から「性愛」を見据えている。「セックス」にせよ「暴力」にせよ「過ち」にせよ、他人事では済まない、切れば血が出る自の問題から目をそむけずに切々と論ずる。ここには最大級の知的誠実さがある。元恋人同士の哲学バトルは、その意味でこそ、読者の心を打つだろう。

アウグスティヌスの元彼女(モトカノ)について、全く異なった角度から扱った作品としては山田晶の「アウグスティヌスと女性」(『アウグスティヌス講話』所収)がお薦め。信仰の祈りの中で彼女と再会することこそ、アウグスティヌスの回心の根本的な動機だった。『告白』は、他ならぬこの女性にささげられている。圧倒的な説得力をもって、そこでは、そう論じられている。「ゴルデル本」とあわせて読んでみて下さい。

ユーリウス・カエサル(著) 近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫)

~林信夫 附属図書館図書館長 より~

読書案内や書評の俎上に載せる対象の選択方法には目的と連動していろいろあるが、ここでは、極めてありふれた目的と選択によって読書への誘いを試みたい。それは、モンテーニュまたは小林秀雄等の先人たちの間で長く読み継がれてきた本の紹介である。

本書は、すぐ手に入る文庫本タイプだけでも数種類の訳本(講談社 1994年、平凡社 2009年、岩波書店 2010年)が出ているので、すでに目を通したことのある学生諸君も多いのではないかと思う。しかし、他方で、政治家や軍人として傑出したカエサルを知ってはいても、この本や『内乱記』にまで目を通したことのある人は多くないかもしれない。本書は紀元前58年から同50年までのガリア遠征を、『内乱記』は同49年以降のポンペーイウスとの戦いを叙述対象とし、まさに激動の「ローマの内乱」を生きた人物による時代描写である。もちろん、両著にはそれぞれ解決されるべき論点が含まれるが、ここでその決着をつける目的で執筆を引き受けたわけではない。むしろカエサルの文章に、まずは訳本から入って、また訳本に導かれながら、名文と言われる原文のラテン語にいずれ直接ふれて堪能していただきたいという気持ちから、ここに紹介する次第である。

『ガリア戦記』は、そのもともとのタイトルとされている『ガーイウス-ユーリウス=カエサルの業績に関する覚書C.Iulii Caesaris commentarii rerum gestarum』やルネサンス以降の刊本のタイトルから理解されるように、ガリアを属州として割り当てられて軍指揮権も与えられたカエサルの属州総督任期中の事務的な業績・事実経過の報告である。しかし、本書は、単なる事実経過報告の範囲を超えて、共和末の知性を代表するキケローさえも、カエサルの叙述目的である正確な素材の提供の範囲をはるかに超えて「執筆の意欲を挫いてしまった」というしかないほどの力に満ちた文章だった点が重要である。

名文であるということは、長い間ヨーロッパの中・高等教育においてラテン語の教材として本書が使われ続けてきただけでなく、現在でも使われているところにも表れている。名文とされるためには、いわゆる自由学芸artes liberalesたる修辞学や文法学等を駆使するだけは不充分である。同時代人のキケローに比しても、カエサルの文章は、三人称を用いるという技術を用いつつ簡潔にして明瞭、平明な点に特徴を有する。これらの力量は文章だけでなく、むしろ演説において発揮され、特に指揮官として部下に向かって訓辞を垂れるときにはさらにその力量が問われるものであり、本書の中でカエサルの演説能力、いわば説得技能の高さにふれることができる。

是非ともこの機会に、西洋の「教養」の基礎たる修辞学、その具体的内容たる演説力、説得力を、可能であればラテン語原文で体感して欲しいものである。

フレッド・ホイル(著) 鈴木敬信訳『暗黒星雲』(法政大出版局)

~柴田一成 理学研究科教授 より~

これは驚くべき本である。ホイル(1915―2001)は恒星進化論、宇宙における元素合成、宇宙論などで活躍した20世紀を代表する理論天文学者の一人。ガモフのビッグバン宇宙論に対抗して定常宇宙論を提唱した。ちなみに、「ビッグバン」というのはホイルの命名。宇宙は超高温超高密の火の玉から始まったというガモフの説を揶揄して、宇宙がそんな「ビッグバン」から始まったなんて信じられるかい?という文脈で使われたらしい。しかし、結果的には素晴らしい命名だった。このようにホイルには文学的才能があるようだ。本書も、そのホイルの文学的才能の賜物である。内容紹介が遅れたが、この本はSFである。それも驚くべき内容だ。独創性豊かな理論天文学者ホイル先生はさすが、とプロをうならせたSF。いや、プロでなくても、まだ大学生だった私は、いたく感動した。多少ネタばれになるが、さわりを少し紹介しよう。

ある天文学者がある日、奇妙な暗黒星雲を発見した。暗黒星雲とは、星間空間中で星間ガスが濃密に集まった領域のことである。あまりに濃密なので背景の星が隠されてしまい「暗黒」に見えるのでこう呼ばれる。この暗黒星雲のどこが奇妙かというと、どうも地球に近づいているらしい。距離と速度を測ると何と数年で太陽系まで到達しそうである。暗黒星雲が太陽系に来たら、太陽を隠してしまうので地球は寒冷化して人類滅亡の危機だ、というわけで地球はパニックに陥った。ところがさらに奇妙なことが発見された。電波を暗黒星雲に送ると電波が跳ね返ってくるのだ。しかもただの反射ではない。どうも暗黒星雲が返事をしているようなのだ! 色々調べると驚くべきことがわかった。暗黒星雲は知能を持っていたのだ。生命だったのだ!? 地球人の運命やいかに、、、?

暗黒星雲が生物の一種、という発想には、どぎもをぬかれ驚嘆した。そして、とてつもなくおもしろかった。生命の形は地球で見慣れた形態とは似ても似つかないかもしれない、というホイルのメッセージが良くわかり共感した。

最近、私は市民向けあるいは小中高の生徒向けに、宇宙人の話を良くする。そのとき強調するのは、たった5億年前には我々の先祖は魚みたいな生物だったということである。地球は出来てから46億年ほどたっている。宇宙は誕生以来137億年だ。すると我々が遭遇する宇宙人が5億年進化が進んでいたり、遅れていたりすることは十分ありうる話だ。もし、宇宙人が我々より5億年進化が進んでいたら? 彼らから見て我々は魚程度だ。魚は人間を理解できるだろうか? おそらく、できまい。すると仮に5億年進化の進んだ宇宙人が地球に来ても、魚が人間に遭遇するようなもので、我々は全く理解できないだろう。

宇宙生命は我々の想像をはるかに超えた形をしているかもしれないのだ。ホイルの「暗黒星雲」はそういう可能性をSFという形で分かり易く教えてくれたのだと思う。

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