内田樹・神戸女学院大学教授講演会 人文科学の将来を憂いる(2011.02.16)

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1月19日、京大文学部フランス語学フランス文学研究室の主宰により、内田樹・神戸女学院大学文学部教授が「日本の人文科学に未来はあるのか(あるといいけど)」と題する講演を行った。当初は文学部新館の講義室で開催する予定だったが、来場者数が教室の収容人数を大幅に超えてしまったため、急きょ、大人数が収容可能な法経本館の講義室まで会場を移動する一幕もあった。

内田氏はまず、日本における人文学のあり方が査定偏重に陥っていると指摘。論文の査読を行う審査員に向かって書いているうちに、若い研究者たちはそもそも何のために研究しているのか、その根本の意味を見失い始めている。かつて外国文学者の主要な責務であった翻訳の仕事が不当に軽視されていることはその徴候の一つである。そのような仕事に献身する人は「輸入業者」と軽んじられ、高度な知識をもった専門家しか理解できない「オリジナルな研究」が珍重される。いつの間にか自分たちが「どこで、誰のために」学問研究をしているのか、というラディカルな問いが抜け落ちているのである。それに対し、医療をはじめとする理系領域で先端的な仕事をしている人たちは自分が何のため、誰のために専門的な知識や技能を発揮すべきなのかを痛切に意識している。手持ちの知的資源を総動員し、目の前の「なまの現実」に対処する「ブリコラージュ」的な態度は、理系の学者にははっきり見られるが、人文科学の領域では、そのように貪慾に手持ちの知的資源を「使い回し」して眼前の現実に取り組む態度は希薄である。

内田氏は一つのあり方として、幕末の志士たちの学びを挙げた。適塾における福沢諭吉の壮絶な学び方には「国運を背負って学ぶ」気概があった。それは一つの政治的幻想にすぎないが、その幻想が彼らに並外れた知的活性を与えたのは事実である。

だが、今の人文学の若手たちは自分の知的努力に対して、個人的な報償を求める。業績を上げ、教員ポストを獲得し、学会内部的な名声を得ることが優先的な課題になっている。そのような「秀才」たちには学的イノベーションは担うことはできない。自己利益を優先的に追求している人間の知性はどうしても限界を突破できないからである。幕末や明治初期の青年知識人たち、あるいは戦後すぐの人文科学者たちが例外的に高い知的達成を果たしたのは、彼らが自己利益の限界を超え、「世のため」に学問したからにほかならない。

今回の講演の「人文科学に未来はあるのか(あるといいけど)」という悲観的な表題は、このような思いによる。そもそも知性のイノベーションやブレークスルーといったものは一般的な度量衡では計り知れない先駆的な直感、「ざわめき」によってもたらされるのであって、考量可能な業績によるものではない。

どうすれば大学に知性が戻るのか。先に述べた「ざわめき」に加え、内田氏は「情理を尽くして語ること」の大切さを説く。敗戦直後の知的荒廃を前に、当時の知識人たちはその知見を語るにあたり、未来を担う人々、すなわち中高生らにも眼差しを向けた。才能が集まる学問は、後継者に対する付託を忘れない。一人でも多くの人に理解してもらえるよう、いきいきとした言葉を取り戻さなければならないのである。

そしてまた、「相手の言葉を受け入れること」。懐疑的であることは必ずしも知性的であることにはならない。まずは頷き、その後で、それがどうして正しいのか考える。それだけでも、かなりの知的レッスンが期待できる。

講演の終盤で、内田氏は師と仰ぐ哲学者エマニュエル・レヴィナスと対面した際のエピソードを紹介。著作の焼き直しなどではなく、今まさに新しく生起しつつあるレヴィナスの語りに圧倒されたと振り返り、まさに「かくあるべき学者」であったと語った。

質疑応答の時間が設けられると、多数の質問が寄せられた。ある学生が「文学という領域に意義はあるのか」と尋ねると、「ある」と内田氏。存在しないものとの関わり方、コミュニケーションを教えてくれるのは文学だけですから、とその理由を述べた。

《本紙に写真掲載》

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