雑賀恵子 大阪産業大学非常勤講師「ちょっとブレイクしよう」(2011.01.16)

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みなさんにも、ふと勉強の合間などにお菓子を口にしては「あれ、これおいしいけれど、何でやめられないんだ」と思うことがよくあるはず。しかし、一切の「快楽」を断って、あらゆる試練に立ち向かうことは果たして良いのか?今回、そのヒントとなり得そうな本『快楽の効用―嗜好品をめぐるあれこれ』(ちくま新書)を書いた雑賀恵子さんに話を伺ってみました。

著者にインタビュー


―まず「快楽」とは何でしょう。「快楽」なしで、うまく生活することはできるのでしょうか。

例えば、収容所や戦場といった「極限状態」の中に放り込まれても、人は生きていくのに巧みだと思うのです。

なにが巧みかというと、例えばヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。外の世界とは隔絶した強制収容所で劣悪な環境の中、過酷な労働をさせられる。

家族や愛する人々とも引き離され、安否も分からず、自分の生も絶望の他は奪い尽くされているような日々でしょう。それでも、沈みゆく太陽に燃え上がる空が水たまりに映っているのをみて、囚人のひとりが、

「あぁ、世界ってどうして美しんだ」

って言うんですよね。また、極限にあっても、意識的にユーモアというものを編み出していく。

我々は言葉を使う生き物として世界を肯定する力を持っている、と思います。

それで何をもって「快楽」とするかというときに、欲望にひかれるような快楽ではなくて、「世界を肯定すること」を「望ましい快楽」と言ったら変なのだけれども、我々が生きるときの「エネルギー」のようなものとして考えたのです。ギリギリの状態にあっても、我々は「生きる喜ばしさ」を見つけていく力を持っているわけです。

与えられた・押し付けられた一元的な価値観に振り回された快楽、ではなくて「あぁ世界は美しい」と見えるところの快楽ですよね。そういった場所というのを「嗜好品」を手がかりにして考えたいなと思ったのです。

欲望とか快楽というものは、「モノ」に対して志向していくという訳でもなくて、そのモノにまつろうイメージや状況など諸々のものが絡んできます。我々の「おいしい」などという気持ちや、ずっとそれに集中していくという気持ちが「資本」によって操作されていることもある。そういう状態については、ジャンクフードを扱った章を中心に書いたつもりです。

一方、タバコを中心とした第1章では、まず、現代におけるタバコなどの依存性物質に対する欲望を「生にちぢこまっていく欲望」といふうに仮設するわけです。外側(他者)に向くものではなくて、ストレスとか内側(個人)に向くもの、とみるわけです。ところが、原産地である南米では、タバコは単に個人のモノではなくて、「人とのつながり」を媒介するモノだったり、薬だったりする[著書41ページ以降を参照]のですね。

―「こうかん(交感/交歓/交換)の道具」ということですね。[著書49ページなどを参照]

そうです。だから「依存してダメになる」とか「ニコチン中毒になるな」とかそんな雰囲気ではないわけです―実証的ではないけれどもそう仮定します。

そうやって生活の中に根差したタバコは、生活とそれから「人とのつながり」とかを回っていたんです―その名残として、今でも「火を貸して」とか言って人とつながれるモノとして残っている―けれども、現在ではそうではない状況に置かれている。

―というふうに図式を立てました。

図式を立てて整理してみると、我々の「外に向かう力」がどこかゆがめられている、個人に収縮していくということに気付く。人とつながるためにあるはずのモノが「商品化」されて売られる一方で、今度はまた「健康」とかの軸が入ってきて、これらが「生」を除いてしまう。

ただ外側から操作される欲望にせよ、あるいは自分の中に墜落していくような欲望にせよ、過剰にあったら「依存」してつぶれていってしまうわけだし、かといって全くこういったものを遠ざけてしまったらつまらない話―我々の「快楽」「生の欲望」は自分自身で飼い馴らしていくものでしょう。「くだらないこと」って言われることに関しても、「くだらないこと」におぼれないようにして、だけどもそれを「くだらないこと」だと退けないで、「くだらないこと」だと言われる筋合いもない――それが生きていることではないのか―そこをうまくつり合いを保ちながら生きている。

―「依存」というのは・・・

制御できなくなるということ。薬物依存とか精神依存とかいろいろあるんだけれども―どうもそれがあれば快感になる、というよりも―それがなければ脳内で快感物質が出ないので、ヒリヒリする感じで手を伸ばしてしまう。

例えば、コーヒー依存だったら、コーヒーを飲んだら快感物質が出て気持ちがよくなるから依存してしまうのではなくて、普通であればコーヒーを飲まなくても自分で出しているものが、コーヒーを飲まないと出なくなる。だからいつも飢餓状態になる。飲んでやっと快感物質がちょっとだけ出る。それでどんどん飲んでしまう。

依存状態では、他の人にとって考えられない行動をとることがある。でもそこに至るまで様々な抑圧を受けたり、世の中がおもしろくなくなったことで依存をしてしまう。そうなる手前の状態に社会は関心を持たないといけない。いけないかどうか知りませんが、そういうことでしょう。

―本を買ってくれる方にひとこと

全体的のことを言うと、権力が人びとの欲望をどう管理・先導していくかの技術についてと、他方「私」、「この私」がどのようにして「生きていく場所」を作っていけるかについて、「嗜好品」をネタにして考えました。

「おぼれてしまうこと」は困ったこと。だからといってキチキチなところ―要素還元的な思考のもとで生きるのはとてもしんどいし、つまらない。なにか「遊び」の部分から「だれかと生きる喜び」を感じたり、「だれかといろんなつながりがある世界を生きる私」について考えていきましょう。おぼれることなく、自分の中に墜落することなく。

―ありがとうございました。

受験生に向けて書評『快楽の効用―嗜好品をめぐるあれこれ』(ちくま新書)


受験生のみなさんは今、まさに入学試験に向けてひたすら鍛錬・修行を積んでいることでしょう(または終わった後かもしれません)。

二次試験がある人は、これからが勝負でしょう。センター試験の結果で落ち込まず、満足せず、しっかりと準備をしてください。さもないと、これまでの努力を水の泡にして、後できっと悔むことになるかもしれません。

ただ「入試」というのは、大学(やその他さまざまな学校)という「制度・庇護」に入るための「壁」に過ぎなく、―そりゃあ、志望校に入学できたらうれしいけれども―それが必ずしも「わたし」の心の奥底から求めているものとは限らない―そう思います。

もしかしたら「自分の欲望=受験勉強」となっている人もいるかもしれません。そういう人の場合、彼/彼女は志望校に合格したまさにその後すぐ、自分の「欲望」の変更を迫られるわけですが、

「ひょっとすると、自分の欲望は自分自身で決めていなく、『制度』に支配されていたのか」

などと気付き、自分の行き先を見失う―ということがありえます。

このようなことを考える余裕のない受験生にとって、これは「余計なひとこと」なのかも知れません。

確かに、今の日本型資本主義社会においては、大学や専門学校、そして企業や官公庁といった「制度」や「組織」に入る努力をひたすらしないと、さまざまな恩恵、ひいては安定した生活さえをも享受することが出来にくくなっているとでも言うのでしょうか。

すると、今は我慢のとき―そして、これから先の人生でも「入試」のような「壁」があることでしょう。また、自分の属することになった「制度」や「組織」の中で、いやおうなく、もがき苦しまなくてはいけない―ということが繰り返されるかもしれません。

ここでひとつ、この先の人生を悲観せずに済むために、―私生活・休み時間において、このような「制度」や「組織」などから自由になれるかどうか―例えば、この半ば強制的な「受験勉強」の中をかいくぐって、「わたし」が本当に「たのしみ」にしていることを追求していけるでしょうか―とみなさんに問いかけてみたいと思います。

恐らく受験生のみなさんは、「受験勉強」している間、あらゆる気が散るモノを勉強部屋から追っ払っていることでしょう。

パソコン・携帯・マンガ・アニメ・テレビ・ゲーム機・雑誌・・・ひとたび手をとったらやめられないモノ・・・。

一人の大学生の経験からして、こういった「娯楽」は、今は出来るだけ避けたほうがよいとしても―理想的には、ある程度「けじめ」さえつけば、これらは完全に排除しないほうが良いように思われます。

どんなに我慢をしたところで一度、「わたし」に癒着してしまったモノから離れることがどれだけ精神的に大変なことであるか―それはまさにみなさんが今、実感していることではないかと思います。

要するに「わたしの精神」と「今やらなくてはいけないこと」のバランスをとらないといけない―しかし、これはなかなか難しいことです。

このようなことを思案する上で、今回、紹介する雑賀恵子『快楽の効用―嗜好品をめぐるあれこれ』(ちくま新書)は役に立つことでしょう。

この本では、先程挙げたマンガなどの「娯楽」とは若干違うでしょうが、お菓子や煙草、コーヒーといった「嗜好品」―栄養やエネルギー源としてさしたる役割をもつわけでもなく、病気治療やバランスを保つといった効能もないのに、ときには惑溺してしまうくらい傾いて口にするもの[著書7ページより]―にまつわる話を、歴史や経済、人文学、薬学、心理学、認知神経科学など多様な分野から細かく持ち出してきます。

なぜ人間は「たのしみ」や、つらい日常の「なぐさめ・気晴らし」を得ようとして、お菓子や煙草などの「たしなみ」に手を伸ばしてしまうのか―などをさまざまな「角度」から掘り下げていき、そして「わたし」と「その周り」の付き合い方を模索していきます。

ただ、もしかすると「文系・理系」というふうに分けられてしまった受験生にとってみれば、話題の「角度」があまりにも広すぎて、読むのに苦戦するかも知れません。しかし、「人間」ないしは「生命の本質」を追究するためには、著書にあるような幅広い知識が不可欠ではないか―そう考えさせられます。

また、結論をとにかく急いでしまう人も、この本を読むのに苦戦するでしょう。「わたし探し」は心を落ち着かせて、じっくり考えないとできません。

いずれにしても「入試」が終わって新たな門出を迎える前には、ぜひとも読んでおきたい1冊です。(春)


雑賀 恵子(さいが けいこ)大阪産業大学ほか非常勤講師。専攻は、農学原論、社会思想史。京都薬科大学薬学部、京都大学文学部卒業。京都大学大学院農学研究科農林経済学専攻博士課程満期修了。
著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス』(人文書院)。

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