〈生協ベストセラー〉 長谷川三千子『日本語の哲学へ』(ちくま新書)(2010.11.16)

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古代ギリシアに端を発する哲学は明治以後、理性だの悟性だのといった様々な翻訳語の発明と共に輸入された。こうした難解な「学問用語」はしかし、それぞれ明確な定義をもって異なる言語圏の哲学書の翻訳を大きく前進させ、私たちがその思想を日本語で理解する上で大きな助けになっているのは疑いない。

しかしながら学問の場では、しばしば翻訳ではなく「原語で読むこと」が強調され、この原典主義は多くの学部生、そして場合によっては院生までをも脅かしている。例えば「哲学」という語を挙げてみると「哲学(philosophy)の語源はギリシア語のphilosophiaであり、智(sophia)を愛する(philein)という意味で、云々……」。哲学関係の概論授業では大抵1回は聞かされるはめになる「哲学とは何か」というお話である。一方で、巷の書店では「○○の人生哲学」といった書名を度々見る。ここで言う「哲学」がphilosophyとは異なる意味を持つのは明白であろう。哲学=philosophyではない。訳語と原語には意味のズレが生じるかもしれないわけだ。明確な定義のある学問用語ならまだしも、ネイティブでさえ悩んでしまうような助詞や「もの」「こと」といった漠然とした名詞、さらにはそもそもの文法構造の違いを考えると、しぶしぶながら原典主義を認めざるを得ないという気もしてくる。

そうした「言語の壁」は、個人の努力である程度乗り越えられる。本書はその壁の向こう側に立ち、和辻哲郎の論文を主な題材として、デカルト、パルメニデス、ヘーゲル、ハイデッガーとの対決を経て「日本語の哲学」を目指す。単純な学問用語による西洋哲学の翻訳ではなくて、日常語で訳することでわざと誤差を生じさせ、そこから西洋哲学における、ギリシア語に端を発するヨーロッパ言語を使用することによる問題を浮き彫りにする。さらにその問題に対する日本語のアプローチを探るのだ。筆者は和辻が〝Cogito ergo sum″の日常的な日本語訳として提示した「私が思ふ、だから私がある」を分解、「私」と「思ふ」と「ある」についてそれぞれ考察し、とくにヨーロッパ言語が「存在するという状態」と「実際に存在している物」を区別できないと主張、「もの」と「こと」という語を補完的に使用する日本語の「底力」によって解決をはかろうとする。「もの」は存在する事物の具体相を消し去り、それをただ「物」として捉える。この働きによって「もの」という語は「存在」という事象をとらえることが可能で、さらに出来事を出来事として表現できる「こと」と組み合わせることで、「存在」そのものについて言及可能になるという。

哲学は言語によって拘束され、私たちが哲学的探求だと思っていたものは実際には単なる言葉遊びなのかもしれない。落とし穴に嵌らないためにも、言語について考えることは必須だ。本書はヨーロッパ諸語と日本語の比較からのアプローチではあるが、著者も明言しているように「てにおは」を始めとする日本語に特徴的な助詞について言及されていない。また、本書は「(日常語としての)日本語の哲学」を目指しているが、日常語を学問的に分析し定義する、という枠から逃れていないように思う。

しかしながら、筆者が言うように「日本語の哲学への道は、いまようやくその入口をあらわしたばかり」なのかもしれない。(書)

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