〈書評〉 白石嘉治著『不純なる教養』(青土社)(2010.11.01)

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『不純なる教養』。そこから私が想像した内容は三島の『不道徳教育講座』。読み始めてすぐに違うと分かった。現代の価値基準に則ってのイメージならそういうイメージでよかったのかもしれない。しかし、筆者のいう「不純」とはそういうことではない。筆者によると教養には2種類ある。過去から未来にかけて流れる一直線上の時間軸に沿って知識を整理し蓄積していくクロノロジカルな教養。そして、時間軸など関係なしに主観的なイメージの基で異なる事象の知識を整理していくアナクロニズムな教養。後者を筆者は「不純なる」教養といい、この教養こそを筆者は礼賛する。効率化、予測可能性、計算可能性の3つの特徴を持つマクドナルド化する現代においてこの後者のスタンスは反発する。大樹としての時間を重要視するのが前者なら、大樹から無数に拡がる小枝としての時間を重要視するのは後者である。小枝の大樹への正射影ベクトルは当然大樹と同じ向きであり、その小枝自身の伸びる向きは個々さまざまである。ところがしかし、現代の資本主義、ネオリベが跋扈する社会では個人はのっぺらぼうと化し、ニューロンの束に過ぎない存在になる。

また、資本主義の潜在的な問題点である「利潤の傾向的低下」を乗り越える形で現れた認知資本主義。物資的なものの交換で成り立っていた経済が非物質的な人間の能力までも市場の評価対象、交換対象とすることで登場した資本主義の新形態である。この認知資本主義も個を抹殺する。交換とはそれが成立する前に何かを失わなければならない。その失うものが認知資本主義においては個なのである。交換可能なまでに市場のロジックに擦り合わせようとする段階で個という本来的に交換不可能なものが失われる。こうしてまた人は鋳型に入れられ形を矯正される。

このように個人をネオリベ、資本主義から奪還しなくてはいけないそんな主張が最初から最後まで貫かれている。テーマは「大学」、「思想」。話題はさまざまで大学の無償化について、ベーシックインカムは本当に支払われるか、認知資本主義での「蜂起」とは、などなど。

先日、お昼のワイドショーでドラフトの話題で盛り上がっていたのだが斎藤佑樹投手の経済効果は51億円とのこと。紙切れ一枚に人々は翻弄される。現代の神学部的存在である経済学部のもと肩身の狭い思いを強いられている文学部。目の前の実利にしか興味がなく基礎研究のありがたみを皆目理解しない国、そしてそのせいで痛々しい悲鳴をあげる理学部。現代のゴリアール(不良学生)が反旗を翻す日もそう遠くはないのかもしれない。(丼)

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