〈書評〉 石川雅之著『もやしもん』(講談社)(2010.11.01)

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『もやしもん』は、主人公の大学生活を描く漫画だが、決して「リアルな大学生活」といった類のものが描かれるわけでないことには注意が必要だろう。何をおいても舞台の「某農業大学」とやらが凄まじい。新入生を巨大な荷車に運びながら行う学内オリエンテーション、新入生に野菜泥棒をさせるというイニシエーション、ぼろぼろの自治寮、いかつい防護服を全身に身につけながら行う実習、強制的に校内に閉じ込められて学生が作った食糧だけで自給自足、物々交換の生活をおくる春祭など、その変な大学っぷりは一昔前のであるとか浮世離れしたとかいう枕詞では到底おさまりきらない異次元の域に達している。

むろん青カビからO-157まで、すべての菌を直接肉眼で見ることができる主人公、沢木や、その幼なじみで男性なのに常にゴスロリファッションの結城、経歴に謎が多く、時にとてつもない人脈を誇る樹教授、菌が大嫌いな潔癖症の女学生及川、いつもボンデージファッションに身を包んでいる長谷川などの個性的な登場人物や、可愛らしい姿でキャンパス内のいたる所に現われる菌たちなどもそれぞれに十分個性的だ。しかしこの某農業大学のあまりに強烈すぎる異世界感の中では彼らの存在すらむしろ自然な印象さえ受けてしまう。

初期こそ普通の大学生活への未練から「某農業大学」の特殊さに戸惑いを見せていた沢木もしだいに研究室の共同性を前向きに受け入れ、また沢木に似た戸惑いを感じていた及川も、話数が進むにつれて「この大学で良かった」とまで言うようになるなど、作中では原則として「某農業大学」の特殊さと閉鎖性を全肯定する形で話が進む。また、彼らは菌やそれを利用した良い酒のあり方を度々議論し、時には大学の中だけでなくバーや酒屋から沖縄、フランス、アメリカにまで足を運んで現場の人々と酒について論争を繰り広げるなど外の世界と触れ合う極めて意欲的な実践をしばしば試みており、その限りにおいては確かに外部との交渉は十分にあるのだが、そのいずれの場面においても登場人物は「外部の人間が一人+いつもの面々」という形をとることが多い。そのため、人間関係の構図は大学内でのそれとほとんど変わっておらず、舞台は変われど「某農業大学」の怪しい面々による閉じたコミュニティにさしたる質的変化は見られない。長谷川が父親の決めた許嫁と強制的に結婚させられそうになったり、父親に大学を退学させられそうになるくだりには確かに「某農業大学」とその「外部」という2つの世界の摩擦が生み出すある種の緊張感があるのだが、「外部」の象徴である長谷川の父や長谷川の許嫁は明らかな図式的意図をもって軽薄なキャラクターとして描かれており、結果、この「緊張」さえも作中における「某農業大学」の存在意義を揺るがすどころかむしろ彼らの共同体の正当性をより強化するために利用されているような印象を受けた。

「某農業大学」や彼らの所属する閉じたコミュニティは、つまるところ学問の世界の閉鎖性の隠喩としても解釈可能だろう。『もやしもん』のキャラクターたちや現実世界の大学人がしばしば行う、彼らの内部でしか通じない半ば暗号化した学術論議は、時に共同性を確認し、時に自己承認欲求を充足させながら自分たちの「安全な場」を確固たるものにするためのミニマムなコミュニケーションというメタ的意味合いを持つ。実際、『もやしもん』49話の冒頭では、「ミニマムな団体劇」という言葉で『もやしもん』の紹介がされているが、「某農業大学」という「安全な場」の内部でのミニマリズム化したコミュニケーションが繰り返される『もやしもん』の日常描写は、実のところ全国の大学の研究室内における日常を誇張して再現しているだけなのだ。

本作はまだ未完の作品であるが、この「某農業大学」の、半ばユートピア的に戯画化された揺るぎない空間は最終的にどこへ向かうのだろうか。例えば高橋留美子の『めぞん一刻』が「一刻館」という閉じた空間を出ることなく終わりを迎えたように、最後まで『もやしもん』の奇天烈な登場人物たちは「某農業大学」を出ることがなく、閉じた学問の世界を描写し切ることをもって了となるのだろうか。現時点ではその可能性が高いし、それもいいのかもしれない。

ただ、沢木をはじめとする「某農業大学」の魅力的な人々が大学の外に出て生活する姿が描かれても面白いのではないだろうか。外の人間と関わるといった範囲ではなく、自身が「外部」の一員となった時に彼ら大学人がどのような仕方で自らの理念を出力するのかという問いは決してつまらないものではないと考える。「勉強って将来役に立つのかな」という子供の素朴な疑問に代表される「学問のフィジカル」をより強く問いかける試みにまで至ったなら、『もやしもん』はミニマリズムから普遍性へとその歩を進めることができるはずだ。(47)

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