フランス映画特集(2010.10.16)

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夏が過ぎ、秋がやってきた。「芸術の秋」とはよく言ったもので、芸術鑑賞には心の余裕が必要だ。汗を垂らしながら、あるいは寒さに震えながらルノワールなど見ても、ちっとも有り難みがわかない。

そんなわけで、今号では主に2000年代のフランス映画を特集した。100年以上の歴史のあるフランス映画を語るのは簡単ではないので、期間を区切った。もちろん映画が芸術の範疇に収まるかどうかは大いに議論の余地があり、「芸術」の定義によって変わりうるだろう。しかし映画は、今や「手軽な文化」の1つとなった。そしてうだるような酷暑を耐え抜き、後期授業という新たな戦いに身を投じた私たちには、継続的で上質な文化的原動力が必要なのだ。(編集部)

『パリ20区、ぼくたちのクラス』 監督:ローラン・カンテ 2008年


フランスは現在移民政策で多くの移民を受け入れているが、パリ20区は中でも特に移民が多い地域として知られ、中学校の学力の低さでも有名。この映画は、そんな20区の中学校の1つのクラスを舞台とし、国語教師の担任フランソワと、24人のクラスメイトとの格闘を描いた作品になっている。

動詞の活用変化を覚えていない者、簡単な単語がわからない者、そもそもフランス語を全く読めない者など、強者ぞろいの教室で、フランソワは何とかしてフランス語を習得させようとする。迂闊なことを口にすればすぐ上げ足を取られる。カメラは1年間、この緊迫した国語の授業を追い続ける。しかし教師といっても所詮は人間、時には無意識のうちに生徒に一種の八つ当たりをしたり、うっかり口汚く罵ってしまうことも。こうしてトラブルが頻発していくうちに、ついには退学者が出てしまう。

この映画は青春ドラマではない。フランソワと生徒たちとの衝突や、そこから派生する問題はほとんど解決しない。お互いおっかなびっくり、相手が怒ってないか、機嫌が悪くないか探りを入れつつコミュニケーションをとる中で、確執はうやむやになっていく。問題は解決していない。

しかし、何をもって「解決」と言うべきなのか。生徒に罰則を課せば解決なのか。「ごめんなさい」と謝れば解決なのか。反省し、正しい在り方を学べば解決なのか。ではどうやって「学ぶ」のか、何を「知る」のか。

学年最後のホームルームで、フランソワは生徒たちに「なんでもいい、この1年間で学んだことは何?」と問いかける。ある女生徒は「プラトンの『国家』を読みました。ソクラテスはすごいと思う」と答えた。しかし、ホームルームが終わり生徒たちが帰ったあとに、別の女生徒がこっそり「わたしは何も学んでません」とフランソワに告白するのだ。(書)

『息子のまなざし』 監督:ダルデンヌ兄弟 2002年


男は語らない。カメラはただ淡々と主人公の背中を写し続ける。彼は何を思い、何を意図し、次にどういう行動をとるのか知ることはできない。われわれにできるのはただ、寡黙な彼の背中からその心情を推し量るのみである。

重い映画だ。息子を殺され、心を閉ざした男。職業訓練校で働く彼は、ある日出所してきた犯人の少年が訓練校へ入ってきたことを知る。自分の木工クラスへ受け入れ、少年に技能を教える男と、「気が狂ってる」と男を糾弾する元妻。少年は後見人になってくれと男に頼む。

監督は野心的なのだ。出所を知る場面に、セリフはほとんどない。回されてきた進入校生の履歴書を見て、男はそれが出所した犯人だと気づく。男は履歴書を見ても事務員の前では眉ひとつ動かさず、満員を理由に断わる。しかし、ひとりになった彼の背中は落ち着かない。にわかに事務所へ歩き出し、出所してきた少年を一目見ようと覗き見する。音をたてず、息を殺して、走って急いで引き返す。本作は主演男優の身体性の演技に賭けている。

セリフも演技も極力排された。われわれと作中世界とのつながりは、ひとりの人間の背中しかない。見る者は彼の心情を何とかして読み取ろうとするだろう。彼の一挙一動に異様なまでに集中し、そのひとつひとつの意味を探るうち感性が研ぎ澄まされる。

カメラは端的に心情を切り抜きだす。少年との淡々とした交流が続くある日、男はトイレで自分の顔をちらりと覗き込む。その顔がとても不思議そうな顔をしているのだ。父親としての己を失い、ひとりの孤独な男へ戻った主人公が少年との擬似親子関係を通じ、知らぬ間に父親のアイデンティティをその顔に見た。彼はもちろん無表情だが、彼自身気付いていない「戸惑い、不思議がる自分」を鏡に見ている。殺された「息子のまなざし」と、後見人になってくれと言う少年の「まざざし」のはざまで苦悩する男の姿。

ところで人は、挨拶する際に相手がこちらに向いていないと声をかけてはいけない気になる。絶えず向けられる背中は、われわれ鑑賞者と主人公との徹底的な断絶を暗に示している。柳楽優弥主演『誰も知らない』が目線を子供にあわせ、見る者も家族の一員に加わるよう促したのと好対照を成す。(鴨)

『ミックマック』 監督:ジャン=ピエール・ジュネ 2009年


「社会派コメディ」、「社会派ファンタジー」。『ミックマック』をグーグル検索にかけるとこんな単語が目に飛び込んでくる。なるほど、地雷で父を失ったうえ、自身も流れ弾を頭に受けて生死の境をさまよった男がその地雷と銃弾を作った会社に復讐するというあらすじを読み、監督が『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネだと知れば、「社会派」、「コメディ」、「ファンタジー」といった要素へと容易に辿りつくことができるだろう。

実際、『ミックマック』は観客から寄せられる「社会派作品」としての期待を裏切らない。自分の手は汚さずに金儲けのために兵器をばらまく死の商人らと、あくまで「いたずら」で立ち向かっていく主人公、バジルの非暴力主義のコントラストの他、強制送還の恐怖におびえるソマリア移民、金持ちの家で召使いとしてあごで使われる黒人の描写など、フランス社会の構造をさりげなくえぐり出している点も本作の「社会派映画」としての表現の強度を確かなものにしている。

ただ、『ミックマック』は同時に「社会派」を超えた普遍性も備えた作品でもあるはずだ。バジルがホームレス仲間に兵器製造会社への復讐の手助けを求めた時、彼らは迷うことなく即座にバジルへの協力を約束した。武器商人たちに直接の恨みがないはずの彼らがなぜ「復讐」に加担したのか。彼らにとっては大義名分は重要でなく、バジルを助けることで仲間内の共同性を確認するのが目的だったという見方もある。もしかしたら単にご都合主義的な展開なだけだという批判もあるかもしれない。しかし、私はこのホームレスたちの行動を通して、ただの「反戦」や「告発」を超えるものを見た思いである。

彼らはホームレスである。あえて下衆な表現を使うならば、資本主義社会における「負け組」というやつだ。様々な特技を持つ個性も心も豊かな彼らが「負け組」としてガラクタの中で生活する一方、武器商人たちは世界各地で起る争いを食い物にして弱きをくじくことで「勝ち組」としての人生を謳歌している。彼らがしかけた「いたずら」はこういった資本主義の矛盾やそれに伴う拝金主義そのものへの「復讐」である。

徹底的に弱者から奪い取ることで物質的な豊かさをむさぼっている奢れる金銭的強者を心ある金銭的弱者が嘲笑するというテーマは、あらゆる物語形式の歴史の中でも常に一定の強い表現として機能してきた。特に『ミックマック』が属するフランス映画というカテゴリーにおいては、ナチスドイツ占領下で制作された『天井桟敷の人々』、ハリウッド式商業主義への痛烈なカウンターとして一時代を築き上げたヌーベルヴァーグの作品群など、数え切れないほどの作品において採用され続けてきたものであり、もはや一種の「お家芸」にも近い方法論であるはずだ。

『ミックマック』はただの「反戦映画」ではなく、むしろ営々と続いてきたフランス映画の「反拝金主義」という大きな流れの一つなのだととらえるのが適当だろう。

フランスの作家、ルイ・フェルディナン・セリーヌはかつてこう書いた。つまり金持ちになるということは忘れることだ、と。大切なものを「忘れていない」バジルたちホームレスの活躍に、誰しも鈍感でいるのは難しいはずだ。おすすめである。(47)

(番外編)『リュミエール工場の出口』 監督:リュミエール兄弟 1895年


映画といえば僕の脳裏に真っ先に浮かぶ奴がいる。中学、高校の同級生N氏。Nとはとにかく数々の校則でがんじがらめの窮屈な学校生活のなかにおいて、なんとか学生らしい思い出を作ろうと日々躍起になっていた。学生らしいとはちょうど村上龍の『69』のなかの主人公たちが繰り広げる学園生活のようなものである。そんな平板な日常のなかで退屈な日々の連続に終止符を打つにふさわしい絶好の機会が訪れた。文化祭。ひとつ例年にない面白いことをやろう。そこで思いついたのが映画製作。Nの膨大な映画に関する知識を基に映画を作ることになった。夏休みの相当数をその映画製作に費やしたのでよく覚えているし、なにしろその映画の主役を演じたのはこの僕なのである。脚本など全ていちから制作した、ジャンルはホラー。『シャイニング』のような映像効果を用いた深層心理に訴えかけるようなホラー映画を作った。エジソンやリュミエール兄弟のように映像機械から作ったわけではないけれど、映画製作の面白さ、困難さを肌で感じるよい経験、思い出となった。映画素人の自分と、映画の歴史を作ったリュミエール兄弟を比較すると申し訳ないがこのとき僕が感じた感動と、リュミエール兄弟のそれとは同じだったに違いない。

1895年に発表された『初めての映画』は芸術としての映画の一面よりも科学技術としての一面の方が濃かった感が拭い去れない。一般市民の日常生活をそのまま切り取ったような映画だから、多くの人は芸術と呼ぶにはあまりに平凡過ぎると感じるかもしれない。しかし、その考えは現代の卓越した科学技術の恩恵に授かっている我々中心の考えである。絵画のような静止画から動画への大きな跳躍。その大跳躍あってのCGなどを駆使した科学技術と芸術の上手く融合した現代映画。最近では『アバター』から始まる3D動画が流行である。画面から飛び出してくる登場人物に観客は舌を巻いた。時代下って『初めての映画』においても文字通り初めて映画を観た当時の観客は、目の前のスクリーン上で動く鉄道を観てまるで鉄道がスクリーンから飛び出してくるように感じ、驚きと共に恐怖を感じたという逸話が残っている。技術的な進歩だけが映画の可能性を広げているわけではもちろんないが、映画のこれからを日進月歩の科学技術が一翼を担っているのは間違いあるまい。「これからの映画」が楽しみでならない。(丼)

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