【特集】追悼・森毅 河合良一郎 名誉教授 「森毅さんの思い出」(2010.10.01)

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森毅さんが京都大学に来られたのは、昭和32年頃だったと思います。

それより前、昭和19年、私は京都大学の2回生の学生で、岡村博先生のセミナーに属して居り、ルベッグ積分の話などを聞いて居りました。この時の雑談で、先生は「私は、今までこの方向の研究をやって来たが、これはもう終ったものと思っている」と言われ、「私は、これから整数論の研究をやろうと思っている。君、済まんが一足先にその準備をでぃておいて呉れんか」と頼まれました。こんな岡村先生とのやりとりがあって、先生の推薦で東京大学を訪れましたが、その時に丁度弥永先生が居られ、自ら図書室に案内して下さり、何処に整数論関係の書籍や雑誌が置いてあるかを大変丁寧に教えて下さいました。この様な事が縁となって、その後は暇を見て東京大学まで出かけ、必要と思われる書籍や雑誌の必要と思われる部分を書き写したりして研究の方向を見極めることをいたしました。当時、東京大学は理学部の建物の入った所に小使い室があり、ここへ来た人はそこにあった大きな囲炉裏のまわりに坐ってお茶を飲みながら雑談をして帰るといった雰囲気のところでした。

森毅さんが来られる少し前は、こんな生活をして居りましたので、来られた時、こんな話をすると大変懐かしがって居られました。

専門が違うので森さんと数学の話をした事はありません。しかし、三高の学生の時の話はいろいろいたしました。その時の話によると森さんは三味線に大変凝って居られたそうで、話だけではどんな腕前かは分かりませんでしたが、一度だけ皆の前で弾いて下さった事があり、もう素人の域を越えた大したものであることが分かり恐れ入りました。また、森さんはカミキリムシの生態の観察に随分力を入れて居られたと見え、何処へ行くとどんなカミキリムシがいるかといった話は大変正確で詳しく果てしがなかったです。また、カミキリムシの収集もやって居られたようです。

また、これは私の側からの話ですが、私は、昭和17年に三高に入学しましたが、その当初海洋研究サークルに入っていました。ここは時に手旗信号の練習やら海軍体操の練習やらがある程度のことで楽でいいと思ったからです。ところがこの年の夏、このサークルの先生から呼び出され、舞鶴に停泊している古い軍艦に泊り込んでする海軍の講習会があるので、君、済まんが三高を代表して行って呉れないかと頼まれました。当時、舞鶴は軍港に準ずる港で、ここに海兵団や海軍機関学校がありましたので、ここでやっている訓練を一通り体験して貰おうというのがこの講習会の趣旨だった様です。

しかし、この講習会の訓練は大変厳しいものでした。軍艦の中に泊り込んで訓練を受けるといった事は体験した者でないと分からない事ですが、総べての事に大変体力が要る上に、大変暑くて夜になっても仲々寝られなかったです。そのためと思いますが、この講習会には「夜の部」があって、夜中の2時頃まで甲板で涼み乍ら雑談に時を過ごす事になっていました。

この「夜の部」にずっと出席していて分かった事ですが、この講習会で指導教官を務めていた方は総べてその年の5月にあったミッドウェー海戦に参加し、そこから帰ってきた下士官の人達でした。当時、そこへ行ってきた空母に「赤城」「加賀」というものがありましたが、それの護衛に当っていた駆逐艦に乗っていた人達でした。

この「夜の部」の話によると、このミッドウェー海戦というのは、艦隊が大砲を撃ち合って対戦するといった海戦ではなく、空母を中心とする機動艦隊同士の対戦であってそれはそれはすさまじいものだったそうです。こちらの空母をめがけて旧降下して来る艦載機に対して、駆逐艦などでは殆ど何もできなかったと言って居られました。例えば「加賀」などは逃げ廻っていたのですが、運悪く爆弾が艦橋に当ってここが破壊され、グッと船足が落ちたために、またまた投下爆弾を何発か食らい、大火災を起して手が着けられない状態であったが、その中に火薬庫に火が入ったと見えて最後の大爆発が起り、それで艦隊を割って波間に消えて行ったという事でした。

また、「赤城」については、空襲を避けて逃げ廻っていたが、遂に被弾し火災になったまでは「加賀」の場合と同じであったが、それは外れたところであったため消火活動が続けられていたが火はどんどん広がって行ったという事で、これは空母という船の構造上止むを得ない事であったと話して居られました。消火活動は延々と続けられていたが火災は広がるばかりで一向に収まらず、その中に護衛に当っていた戦艦「長門」が、目の前を50ノット位の全速力で脱出して行ったということでした。そうなると後に残されたのは、そこで護衛に当っていた何隻かの駆逐艦だけで、ずっとそこに居たが、火災は一向に収まらず、そのうちに日が暮れてきたので、もうこれまでと思ってこちらの駆逐艦から何発かの魚雷を放ち、「赤城」を沈めて帰って来たという事でした。また、このミッドウェーの海戦には、「赤城」「加賀」の外にもう2隻の空母が参加していたが、これらの護衛については管轄が違い、少し離れた所にいたので実際に見たのではないが、帰る道に伝えられた話では殆んど同じ様な状況であったということも話して居られました。

大体、森さんという方は、ご自身「斜め読み」とか「乱読」とか言って居られましたが、非常に沢山の書物を渡り歩いて読んで語られる場合、その中の「実象」から生ずる「仮象」の価値判断については、人を斬る様な大変鋭いことを申されましたが、「実象」から体験を通して直接的に生ずることについては弱い所がありました。そんなわけで、この様なミッドウェーの海戦の話は大変に熱心に聞いて下さいました。

大体、森毅さんと私とは、どちらも戦中派に属し、森毅さんはその後期の人、私はどちらかというとその前期と繋がりがあり、その間に微妙な差はあったのですが、妙に心の通い合うところがあり、合えば必ず雑談に時を過すという事になっていました。また、これは戦後10年位の間のことですが国立大学の間では相互の間の垣根のごときものが大変稀薄であって何処も出入り自由、誰にでも会って自由に教えを請うことが出来るといった大変いい雰囲気でした。私はこの雰囲気が大変懐かしくこれで通じたように思うのですが、森毅さんも恐らくこれでとおされたのではないでしょうか。


かわい・りょういちろう 名誉教授

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