【特集】追悼・森毅 木下冨雄 名誉教授 「『遊び』の達人」(2010.10.01)

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その風貌から「一刀齋」と名付けられた森さんであるが、森さんの人となりを形容する表現として、これまでさまざまなことばが使われてきた。いわく自由人、バランス感覚のよい人、常時中立志向、斜に構える、いい加減な男、面白がり、変化自在、複眼的思考、第三者的感性の持ち主、などなど。

これらのことばを眺めると、どれも少しずつ当てはまる感じはするが、同時に、どれも少しずつ違和感を禁じ得ない。だがこれらのことばの論理積の部分を考えると、森さんの本領が何となくイメージとして浮かび上がってくるのではないか。それは「知の遊び人」とでもいうことばである。

ここで遊びというのが、ギャンブルや女性とのそれを指すのでないことは当然として、「知の遊び」というのもなかなか難しい。「仕事を遊ぶ」、「学問を遊ぶ」、「人生を遊ぶ」と同様、これはよほどの達人でないと実現できないからである。おそらく一番難しいのは「自分を遊ぶ」ことではないかと思うのだが、森さんはその境地に達していたに違いない。仕事に遊ばれる、学問に遊ばれる、人生に遊ばれる、自分に遊ばれるといった他律的人間はやたらに多いが、遊ぶ主体を自分においてしっかり振る舞える自律的人間は、そう多くはないのである。

このような森さんの個性が一番輝いて見えたのは、大学紛争の時代であった。知の府であるべき大学がすっかり政治の季節になり、学生も教員も右や左といったレッテル張りに忙しかった頃である。

森さんはその中で、右とも左とも自由闊達に付き合っていた。森さんが陣取る数学教室には、「怪しげな」人間がいつも出入りしていた。そしてその誰からも森さんは、一目置かれていた。相手から自分のイデオロギー的立場と正反対の意見を言われたとき、当時はたちまち修羅場になる雰囲気であったのだが、同じことを森さんが言えば、誰もが「一刀齋がいうのなら仕方ない」と苦笑するのみであった。これは凄いことなのである。

右や左のレッテルを鮮明にして自己を開示するのはそれ程難しいことではない。それぞれのレッテルを貼られたお仲間だけと付き合っておれば、自分は安泰だからである。だが正反対のレッテルを貼られた連中と、等距離外交を行うのは並大抵のことではない。下手をすると、双方から往復ビンタを食らう確率が極めて高いのである。ところが森さんはその危険なポジションを楽々とこなすだけではなく、むしろその事態を楽しんでいた、つまり「遊んで」いた気配がある。数学的な表現をすれば、森さんは「ゆらぎ」の持つ柔らかさやいい加減さが、実は激動の時代を乗り切るもっともタフな装置であることを熟知していたのではないか。

森さんは京大を退官したあとも評論家として活躍していた。その中で森さんはしばしば名言を述べていたことを思い出す。「あまり無理をするな」「自然に逆らっても駄目」「なるようにしかならん」「何ごともあるがままに」といったことばである。

森さんはこのことばを「とんがったり」「背伸び」したがる若い学生に伝えたかったのであろうが、私はこの表現の中に、禅僧のことばや、心理臨床家のことばを聞いた気がした。「あるがままの姿を受け入れよ」という実存主義的なことばは、禅僧や心理臨床家が求める中核概念の一つだからである。森さんは多分、「おれそんな難しいことを考えていうとるわけやないで」と答えるに違いないが、人生の達人は、本人も気づかぬうちにその境地に至るのであろうか。

改めて天上の森さんの御霊の平安を祈るや切である。


きのした・とみお 名誉教授

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