【特集】追悼・森毅 池田浩士 京都精華大学教授 「森さん、またお会いしましたね!」(2010.10.01)

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かれこれ十年も前のことになるだろうか。京都駅の新幹線コンコースにある本屋のコーナーに立ち寄って、車中で読むための文庫本でも探そうとした矢先に、なんとなく尋常でない「気」が漂ってきて私を捕らえるのを感じた。思わず背後を振り返ると、数メートル先に異様な風体の老人が立っていて、手に取った本をひたすら覗き込んでいる。あっ、森さんだ!――と気付いたとたんに、私は反対側の出口から書店コーナーを出ていた。逃げるつもりはなかったし、森さんを避ける理由などまったくなかったのである。むしろ逆に、森さんが定年で大学を去られてから、久しくテレビのコマーシャル場面以外で森さんとお会いしていなかったので、懐かしさは抑えがたいほどだったのに、私はその尋常でない「気」に圧倒されて、無意識のまま、声もかけずに離れたのだった。

それよりもさらに十年ほど前、私の連れ合いが、きょう京阪電車でなんとなく変な気がするので顔を上げてみると、通路をはさんだ斜め向かいに森毅さんが座って居眠りをしていたの、という話をしてくれたことがある。連れ合いは私より強かったので、あわてて次の駅で降りる、ということはしなかったらしい。それにしても、森さんが一種特有の「気」を発しながらあたりを徘徊していたことは、否定しがたい事実であるようだ。

じつは、私は、追悼文というものを書くのが苦手なのである。自分がまだ誰からも書いてもらったことがないので、何を書けば本人が喜ぶのか、どんなことを書くと腹を立てたり悲しんだりするのかが、まったく実感的にわからないからだ。ましてや、「池田くん、人間はゲイがないとあかんのよ。」と私を折りあるごとにたしなめてくれた森さんに捧げる追悼文である。森さんが、死ぬときに自分の「ゲイ」の相続人として私を遺言状で指名してくれていればともかく、そうでもないかぎり追悼文だけはいきなり有ゲイ、というわけにはいかない。もちろん、森さんが言う「ゲイ」とは、吉本(有名なのだけで二通りあるが)の「芸」とは違う。つまり、お笑いを取るために日夜ひたすら身を削って稽古している上方(かみがた)芸人の芸でもなければ、当たり前のことをできるだけ難解に哲学的に反俗的に脱構築的にしかもマス・イメージ的に語ってみせる高級知識人の芸でもない。私なりに理解したところでは、森さんの言う「芸」とは、「いわば相手(受け手)の魂に触れるものでありながら、しかも相手と肌を合わせる関係を決してつくらないような表現のありかた」とでもいうべきものだった。

肌を合わせ、肌を寄せ合うことが人間にとって大切か有害かの議論はさておき、森さんの話はつねに聞き手の魂に触れるものだったが、森さんは肌を寄せ合うような人間関係を周囲に求めようとはしなかった。一九七九年六月から一九八六年三月まで七年近くにわたって十号まで刊行された『匙(さじ)』という雑誌がある(いや、あった)。いまは亡き野村修、同じくすでに亡き好村富士彦、いちばん先に五十三歳で亡くなった奥野路介、定年直後に力尽きて逝った飛鳥井雅道、まだ生きている私、北海道で同じく健在の小岸昭、それに、各地でいまなお活躍している山田稔、徳永恂、石川光庸、三原弟平、エーバーハルト・シャイフェレ、石川サスキア・フランケ、野村美紀子、などという癖者(くせもの)が結集したこの同人誌に、森さんは始めから終わりまで居座りつづけ、つねに血を見る寸前で夜が明けてくれるのが恒例だった合宿には、ときにはお連れ合いの運転する自家用車に令嬢まで乗せて参加した。「非国民の思想のために」(3号)、「演劇的世界像ノート」(9号)などというエッセイとも評論とも暴論ともつかない文章を書いたほか、徳永恂、山田稔とともに「都市論界隈」という座談会(6号)をくりひろげ、「味と屑と――時間感覚をめぐって」と題する八島久雄との対談(2号)も行なっている。この八島久雄という人は、その当時、理学部の大学院生(いまで言えば理学研究科の博士後期課程の院生)だった。もともと文学部哲学科の純哲で、文学部の大学院に進んだのだが、あるとき年下の女子学生から数学に関する議論を吹きかけられ、答えに窮したのをきっかけに、よし! 数学を研究しよう!――と決意して理学部の数学に入りなおし、挙句の果てに、有名な「竹本助手処分」(知らないひとは、時計台下の資料室で調べてください)を先頭に立って闘ったすえ、大学当局(というより文部省主導)の処分強行で闘争が終わると、日本を見捨ててイタリアに亡命し、数学ならピサだ! というので、最終的にはピサ大学の数学科の主任教授になって、数年前に退官し、いまは数年がかりで世界中の革命遺跡を歴訪しては、その国の言語で私にも手紙を送ってくれている――という実在の人物である。

この八島久雄を、一九六九年にかれが東大入試中止のゆえに京都大学に入学した当初から、森さんは高く評価して、学生と教員というより人間同士として交友を深めていた。しかし、かれをいわゆる「囲い込む」ようなことは決してしなかった。特定の「弟子」などというものは、森さんとは無縁だったのである。森さんが教養部に所属していたことは、それゆえ森さんにとっても学生にとっても、そして私たち教養部の教員たちにとっても、幸運なことだった。

『匙』の同人仲間にしても、森さんにとっては徒党でも同志でもなかった。すでに全共闘時代から、森さんは「京大の一匹コウモリ」を自認し、いわゆる日共・民青(日本共産党、およびその下部組織たる民主青年同盟)の巣窟に飄然と入り込むかと思うと、それとは反対の全共闘側のバリケードや占拠空間に忽然と姿を現わしては、双方の学生たちに、議論とも意識されないような議論を吹きかけていた。「ぼくは、ふにゃふにゃ路線なの」と、森さんは自分の原則のなさ、立場の不在を、むしろ誇示するのがつねだった。あるとき、「ぼく、立場という言葉が嫌いなの。立場というのが人間に物事を見えなくさせるのよ」と森さんがしんみりとつぶやいたことが、それ以後ずっと私の胸にこびりついている。私自身は、むしろ、きわめて硬直した原理主義者を目指していたが、森さんの路線は無条件に認めざるをえなかった。かれの言葉が、つねに私の魂に触れたからである。肌が合わなくても、肌を寄せ合わなくても、魂は触れ合うことができる――これを、私は森さんの無原則主義、反「正義のたたかい」主義、非・党派性、そしてなによりも「人間には芸がだいじなのよ」から教えられた。

それにしても、森さんはすばらしい去りかたをしたものだ。自分の食べるものを、できれば愛する人とともに食べるものを、自分で調理することは、そして自分で後片付けすることは、人間のもっとも基本的で、しかももっともすばらしい営みだと、私は思う。つねにそれができるとは限らないし、労働上の制約でそれができない人間も少なくないからこそ、ますます私はそう思う。森さんは、私などがもっとも苦手なものの一つである揚げ物をしていて、火に包まれたのだという。カトリック中世の魔女や、弾圧された日本のキリシタン、そして荒唐無稽な大活劇で「人食い人種」に捕まって火あぶりにされる「文明人」くらいにしか与えられない特権ではないか。森さんの最後の、もっとも魂を込めた芸が、この去りかただった。京都駅のコンコースや京阪電車でつぎに森さんの怪しい「気」を感じるときは、炎のような熱いかたまりが私の魂をつかむに違いない。そのとき、私は、やっぱり、そっと逃げるのだろうか。


いけだ・ひろし 京都精華大学教授

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