【特集】追悼・森毅 伊藤公雄 文学研究科教授 「森さんのこと」(2010.10.01)

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当時NHK大阪支局のアナウンサーだった峰尾さんが、こう尋ねた。

「伊藤さんは社会学者、森先生は数学者ですが、どんな関係なんですか。教養部時代の教え子ですか」

伊藤「いえ。授業とったこともないはずですが・・・」

森先生「まあ、コクタイ仲間のようなもんやな」

峰尾「???・・・」

こりゃ、番組見ている人、ほとんど何のことかわからないだろうな、というのがそのときとっさに感じたぼくの思いだった。とはいっても、説明したら長くなるし、ややこしくもなる、まあいいや、ということで、そのまま次の話に転換することになった。

NHKの料理番組「男の食彩」(だったと思う)のワンシーンである。男性の料理人としての森さんが、黒トリュフ入りの焼き飯(というか蒸し飯)を作り、それをぼくが食味するという番組だった(何度も再放送されたので、わりとあちこちで「あれ、見たで」と声をかけられた記憶がある)。

番組の視聴者はもちろん、読者の多くは、ここで森さんが口走った「コクタイ」の意味はわからないだろうと思う。「国民体育祭」でも「国体護持」の「国体」でもない。森さんが言いたかったのは「国会対策」の「国対」のことだ。ここまで書いても、多くの読者にはピンとこないだろう。簡単にいえば、学生運動華やかなりし頃(ぼくも活動家として積極的に運動に加わったし、それが森さんとのかかわりの出発点だった)、団体交渉などに際して、学生側と当局との間でのさまざまな裏の「調整」をする役割を、森さんは、国会の国対になぞらえて「コクタイ」と呼んだのだ(ちなみに、ぼくは、学生運動の場では「行動隊長」的な役割が多く、ここで森さんのいう「コクタイ」役は、ほとんどしたことはなかったのだが)。

森さんは、ほんとうに、1960年代後半から70年代にかけての京大の「紛争」(学生運動)時代の思い出を語るのが大好きだった。また、実際、「コクタイ」のようなこともあれこれとしていた。騒ぎの最中には、学生側の情報を当局に流したり、逆に、当局の動きを学生に知らせたり、ときには、学生のグループ同士の動きを把握し、それをあちこちに伝えたりすることを、楽しそうに、また、心から面白がってやっていた。にもかかわらず、誰一人、森さんを、「裏切り者」扱いしたり、糾弾したりすることはなかった。流す情報が、それぞれ、双方にとってプラスになるような形で、いつも調整されていたからだと思う。その意味で、ご自身がいつも言っていた右にも左にも属さない「こうもり」はほんとうのことなのだ。でも、この「こうもり」は、いつだって自分なりの展望をもった上での判断があったし、誰も傷つけることはなかった。巻き込まれていながら、いつもクールに自分の立ち位置はしっかりと定まっていたように感じられるのだ。

中核派と革マル派(もともとは革命的共産主義者同盟という同じ党派から分裂したセクトである)の間で、もっとも激しく内ゲバが戦われていた頃のことだ(今、ぼくはこの内ゲバという、戦後の日本の運動が生み出した最低最悪の悲劇について、歴史的にきちんと総括する段階に入っていると考えているのだが)。森さんの家に、中核派の学生が訪ねてきたのだそうだ。そのとき、森夫人(この方も森さん以上に面白い方である)が、こう聞いたというのだ。「さっき来た革マルさんは、お紅茶だったけど、中核さんもお紅茶でよかったかしら」。当然、中核派の学生は殺気立って、「革マルが来てたんですか」と叫んだという(この話は、森夫人からではなく、森さんご本人から聞いたのだと思う)。これもまた、森さんらしいエピソードである。他の「センセイ」相手なら、怒り出すところだろうが、さすがの中核派も「森さんじゃしょうがない」というところだったのだろうと思う。お互いが殺し合いをしている真っ最中に、それを中和してしまうような力(というか反力)をもった人だった。

40年近い森さん(ご夫妻)とのつきあいは、ぼくのものの考え方や見方、他者との関係の持ち方に大きな影響を与えてくれた。そもそも、とんでもない物知りだった。文学の素養もあり、ぼくがイタリア研究をしていたこともあり、よくイタリア文学の話もした。森さんのお気に入りは、ボンテンペッリやピテイグリッリだった。(この両者は、森さんも編者だった『筑摩文学の森』シリーズにもおさめられている。森さんがいなかったら、他の編者の誰一人思いつかなかった選択だったと思う)。

森さんは、昨年の冬、一人で朝ご飯にスパニッシュオムレツを作っている最中、火がパジャマに燃え移って大やけどをした。ただ、そのときは意識もはっきりしていて「たいしたことない」と語っていたようだ。お手伝いの方の通報で救急車で病院に運ばれた後も、かなりはっきりしゃべっていたようだ(処置がもう少し早ければ、症状もひどいことにはならなかった可能性もあるということだった)。

実は、事故のあった晩、某新聞社の知人から電話をもらった。森さんの死亡時のコメントが欲しいということだった。縁起でもないと思ったが、「命は取り留めたようだし、意識もはっきりしているようだから、コメントは無駄になると思う」ということだったので、適当なコメントをしておいた(後で森さんと会ったとき、笑い話にしようと考えていた)。確かに、森さんは、事故のあった晩までは病院でもおしゃべりしていたようだ。しかし、後で聞くと、翌日からほとんど人事不省状態で集中治療室に入り、かなり長期間の面会謝絶状況だったのだそうだ。ぼく自身、ちょっと安心していたのだが、今年に入って年上の友人の福井直秀さん(京都外国語大学教授)から、「面会できるようになったから来ないか」とさそわれるまで、「こんなにひどい状態」だとは知らなかった。お見舞いにいったときも、森さん側からは目で会話するような状態で、あの陽気なおしゃべりを聞くことはできなかった。でも、面会に行くと、ぎょろりと目をこちらに向けて、何か言おうとする態度が感じられ、こちらもあれこれと一方的におしゃべりをさせてもらった。かつての活動家たちの消息や現在の政治情勢ばかり、ぼくは耳元でしゃべっていた。

亡くなったという連絡も、福井さんからいただいた。病院で、ご遺族とその他6人で、お別れと、大学病院への献体のための納棺の作業をした。にぎやかなことが好きだった森さんには、ちょっと淋しいお別れのような気もしたが、逆に、一刀斎=森毅らしい「あばよ」という感じのサラッとした別れの儀式だったようにも思う。

変な思い出話ばかりの追悼文になってしまった。心より冥福をお祈りしたい。


いとう・きみお 文学研究科教授

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