文化

【特集】追悼・森毅 橋本聡 朝日新聞ヨーロッパ総局長 「飄々、『イジケの論理』の名物教授」

2010.10.04

森毅先生の講義を初めてのぞいたのは1975年の5月のことだ。教養部でいちばん大きかった教室に定刻にいくと、すっかり満席になっていた。

おおぜいの立ち見客が壁にへばりついている。年度始めだから、受講登録した新入生の大半がようすを見にきたのだろう。文学部1回生の私もそのひとりだった。

森先生は青いジーパンで登壇した。ホホウというように教室の盛況を見渡し、苦笑をこぼして、こんな話をはじめた。

――よく学年末になると、「この単位がとれないと卒業できない」とかいって泣きついてくる輩がいる。しかたないから、レポート試験をするんやが、たくさん読まされるこっちに身にもなってほしい。けっこう重労働なんやで。講義に出る出ないは自由やが、愚にもつかんレポートを書いて単位だけよこせというのは甘すぎる。センセを楽しませるレポートを書くのも学生さんの芸や。どうすればこっちが気持よく単位を出せるか、そっちも知恵しぼってくれな、困るなあ。

森先生流の「新入生心得」とでもいうべきか。

大学ともなれば、高校のように教師と生徒が上下の一方通行でなく、双方向であるべきだ。いやじつは、そんなカタクルシイことではなく、ただたんに、最近は学生さんの「芸」の質が落ちたという嘆き節だったのかもしれない。

テレビの深夜番組「11PM」で洒脱なコメントを披露していた森先生は、京都大学新聞の常連寄稿者だった。編集部に入った私は、コラム「複眼時評」執筆のおねがいなどでときおり教官室をたずねた。数学の講義に出たのはあの一回きりだったが、学内で出会うとよく立ち話をした。

「先生、こんど、お酒でものみにいきませんか?」

「それがな、ぼく、お酒のまれへんのや」

意外だった。聞けば、若いころは人なみにたしなんでいたそうだ。ところが北海道大学で助手をしていたころ、学生とビール工場見学か何かでしこたま飲み放題をやって、ひどい目にあった。それ以来、体がアルコールを受けつけなくなったという。

「でも、ぼくはお酒のまんでも、昼間から酔うとるのと同じやから」

そういいながら、自宅で晩御飯をごちそうしてくださった。最近は学生さんとのつきあいが減ってなあ、と話されたのを覚えている。

学生とのつきあいがいちばん深かったのはおそらく1969年、京大闘争のバリケードの時代だろう。そのころ「よりごのみせず」、いろんなセクトの学内集会をのぞいてまわったそうだ。私よりだいぶ上の世代の話である。

東京でバリケードの季節が終わりを告げたあとも、京都では毎年、学生ストがつづいていた。時計台には大きく「竹本処分粉砕」の白ペンキの文字がおどっていた。

団交や集会をのぞきにきた森先生は自称「団交評論家」。ドアのかげにいるところを見つけて声をかけると、ウヒョヒョヒョヒョとうれしそうに笑った。橋本クン、意外に人がたくさん集まっているなあ。某セクトOBの誰それから久しぶりにあいさつされたで。

このセンセ、いろんなふうに大学を楽しんでるなあと思った。

やがて京都でも学生ストが途切れるときがくる。森先生はこんな原稿を寄せくれた。

《昨年は、まったく例外的にも、当局流の表現では「平穏な」、たとえばストもなく試験も流れない、といった奇妙な1年であった。じつはぼくは、昨年度は当局側の学生対策係をしていたので、このことに強いセキニンを感じ、今年は昨年のような異常な年でなく、賑やかな年になるだろうと期待している。》(1977年4月16日付京大新聞、『新入生への私的オリエンテーション』)

森先生の真骨頂は「弱虫」の視点、「イジケの倫理」だった。

建前の論理を声高にとなえる「強者」にはついていけない。一歩さがってイジイジ観察していると、彼らの本性が強がりでしかなく、ほんとは臆病であることがみえてくる。

世の中、すっぱり割り切れないことのほうが多い。割り切れないから、ひとは迷う。迷い、悔み、イジケる。へんに割り切ろうとしないほうが、イジイジしているほうが、自然なのだ。迷いやイジケは人生の彩りであり、人生をオモロクしてくれる。

森先生のペンは原稿のテーマが何であれ、いつのまにか人生論のフィールドに入っていった。

《ぼくの青年期というのは太平洋戦争から朝鮮戦争にかけて。前者の忠君愛国少年のヒロイズムも、後者の反米愛国青年のヒロイズムも、ともに性に合わなかったものだ。その意味では、パレスチナ闘争の戦士たちが、そのヒロイズムを自己批判したことは、まことに気に入っている。ここでも公安に怯えてことわっておくと、彼らとのつきあいは、数学チームと赤軍チームとでブリッジの試合を闘った程度にすぎないのだが。

(中略)それでぼくは、いつでも日蔭の逃亡者たちの味方でありたい。竹本君も評議員諸氏も、永遠に逃亡を続けることを、願ってやまない。海路平安に、そして決して、機動隊とともに胸を張って出てくるような、はしたないことのないように。》(1977年10月16日付京大新聞『複眼時評』)

ある方向に大勢が流れるとき、あらがって別なことをいうのは相当なエネルギーがいる。森毅先生はむろん、先頭で旗をふるわけではなかった。だが、飄々として温かく、ユーモラスな語り口にくるみながら、批評のきっさきは鋭かった。それをささえたのは博覧強記、膨大な読書量だった。

世間の常識にアンチテーゼをかかげ、不思議な平衡感覚もそなえて、学問より人生というものを語ってくれた。なんとも京都らしい、稀代の名物教授であった。


はしもと・さとし 朝日新聞ヨーロッパ総局長