文化

【再掲】複眼時評「マイナー文化のために」 森毅

2010.10.04

学生の就職ならば、10年先を予測したほうがよい。十年もすると、人気企業もすっかり入れかわってしまう。

しかしながら、株を買うのなら、10年も先を予測したって仕方がない。値上がりしそうな直前に買うのが、もっとも有効な方法である。

社会の動きを見るのも、10年も先を予測したって、メジャーな評論家にはなれない。論壇に議論のまきおこる、その勢いにのるのがメジャーになる条件である。そうすれば、勢いにのっているのか、その勢いをリードしているのか、区別がつかなくなる。オピニオン・リーダーなんて言うけれど、つまりは、その勢いをつかむだけの話だ。

たぶん、なにかの運動をする人もそうだろう。いくら正しい方向をさし示したところで、機が熟さなければ人はついてこない。何人かは、おもしろい人もいるだろうし、先見えに自己満足はできても、所詮はマイナーにとどまる。

学問や芸術の世界でも、同じようなことがありそうだ。アイデアやセンスがいいのに、なぜかマイナーな人がいる。勢いにのっていると、それなりに世間がメジャーに押しあげてくれるものだが、そうした人は通好みにしかなれない。何年かしてから、あの人はおもしろい人だったということに、なるかもしれないけれど、たいていは死んだあとだったりする。それに、勢いにのらないと、いくらかマイナーにひねてしまうのも、これまた仕方のないことだ。

京大と東大の比較論というのがあるが、例外はあるけれども、だいたいの傾向としてなら、東大はメジャー好みで、京大はマイナー好みといったところがある。東大はオピニオン・リーダーを生産せねばならないからメジャー好みなのか、メジャー好みだからオピニオン・リーダーになりたがるのか。このごろの、駒場を中心とした右翼リベラルの台頭は、本郷の左翼リベラルのエスタブリッシュメントが、岩波文化と朝日文化のヘゲモニーを握って離さないので、仕方なしに、右翼リベラルでオピニオン・リーダーの道を模索したともいう。それなりに、勢いにのっているのはたしかだが。

マイナーだからといってひねこびてしまってはつまらないけれど、有効性のない予測をおもしろがるのも、ちょっといいものだ。世の中を変えようなどと、運動家になるのには向かないけれど、マイナー評論をたのしんでいればよい。ただし、マイナーであり続けるというのは、ひねこびて固まってしまわないように気をつかうことが、なにより必要で、ひねこびてしまうと、10年先どころか、10年前の反俗反時代気どりになってしまう。京大のマイナー好みというのにも、いくらかその気があるのは、注意したほうがいい。

それでも、うっかりメジャーになって、勢いを維持し続けねばならない、というのもつらいだろうな。メジャーな評論家が、ただメジャーであるだけになりさがって、中身が空疎になっていくのも、疲れるからだろう。人間そんなに、勢いにのり続けるなんて、くたびれることをやってられない。せいぜい、世間の作ってくれた評価の枠のなかで、暮らすよりあるまい。

メジャーになるとは、そうしたものだ。水戸黄門の番組で、御印籠を出さない新機軸を出したら、抗議の投書が殺到したという。メジャーな番組は、エスタブリッシュの枠から自由になれない。

世の中の勢いの先を、ひらひらと舞いながらも、世の流れに追いつかれないように、マイナーのままで自由を楽しみたい。それでひねこびてしまったのでは、せっかくの自由が死んでしまうけれど。

(1985年9月16日号掲載)